康熙帝(こうきてい)愛新覚羅・玄燁(あいしんかくら・げんよう)は清朝の第4代皇帝。
康煕帝・雍正帝・乾隆帝と続く清の最盛期を作った皇帝です。
中国の現在の領土もほぼ康煕帝~乾隆帝の間にできたもの(実際には乾隆帝時代の方が現在の中国より広いです)。
そんな大きな国が作れたのも康煕帝時代に領土を広げ国力を付けたから。中国史上最高クラスに有能な皇帝といわれます。
でもプライベートでは問題も多く晩年は後継者争いに悩まされました。
有能な君主と悩める個人というギャップが大きいのも康熙帝の特徴です。
史実の康煕帝はどんな人物だったのか紹介します。
康煕帝の史実
プロフィール
諱:玄燁(げんよう、ヒョワンエ)
廟号:聖祖(せいそ)国:大清
地位: 大清帝国皇帝、満州王(ハン)、モンゴル皇帝(ハーン)生年月日:1654年5月4日
没年月日:1722年12月20日
在位: 1661年2月5日~1722年12月20日
清王朝の第4代皇帝です。
日本では江戸時代になります。
5将軍・徳川綱吉(1646~1709年)から8代将軍・徳川吉宗(1684~1751年)の世代に近いです。
家族
母: 庶妃・佟佳(トゥンギャ)氏(孝康章皇后:死後追尊)
正室:
孝誠仁皇后
孝昭仁皇后
孝懿仁皇后
側室多数子供:24男20女
おいたち
1654年5月4日(順治11年)。玄燁(げんよう)は紫禁城の景仁宮でで生まれました。紫禁城で生まれた最初の清朝皇帝です。
父は3代皇帝・順治帝。
母は庶妃・佟佳(トゥンギャ)氏。
玄燁は順治帝の三男でした。ところが幼くして疱瘡(天然痘)にかかってしまいます。それを理由に紫禁城の外で乳母に育てられました。玄燁の病気は回復しました。
玄燁は祖母の孝荘文皇后(ブムブタイ)に厳しく育てられました。
1661年2月(順治18年)。順治帝が天然痘にかかりました。皇太子をまだ決めてなかった順治帝は玄燁を呼び寄せます。玄燁が天然痘になっても生き残ったこと。厳格な教育を受けている。という理由で皇太子になりました。その年の間に順治帝が死去。
玄燁は8歳で即位しました。
康煕帝の誕生
幼い康煕帝を補佐するため、ソニン、スクサハ、エビルン、オボイの4人の重臣の合議制で政治を行いました。
1663年(康熙2年)。母・佟佳氏が病気で死亡。「孝康章皇后」の称号を贈りました。
1667年(康熙6年)。重臣筆頭のソニンが死亡。するとオボイは反対派を失脚させ自分の派閥の力を強くました。
まだ若い康煕帝はモンゴル相撲に熱中して政治には関心が薄いように振るまいました。康煕帝は武術に優れていただけでなく学問も熱心でした。中国伝統の学問だけでなくイエズス会宣教師から西洋の天文学、数学、解剖学も学びました。
1669年(康熙8年)。康熙帝はソニンの息子・ソンゴトゥと協力してオボイを捉え投獄しました。
15歳の康熙帝は自ら政治を行い始めました。
康熙帝は当時の政治課題を「三藩・治水・水運」と考えました。
治水対策や運河・水路を使った物流はいつの時代も大切な課題です。当時の清朝には「三藩」という独特の悩みがありました。
三藩の乱
三藩とは呉三桂(雲南)、尚可喜(広東)、耿精忠(福建)の三人の藩王のことです。彼らは漢人でしたが明の永暦帝を殺害するなど、明王朝の打倒に協力しました。その功績で親王の位と領地を与えられていました。ところが朝廷に無断で外国と貿易を行ったり、独自に貨幣を発行したりして経済力を高め強力な軍隊を持ちました。三藩は康熙帝にとって大きな驚異になりました。そこで康煕帝は三藩の廃止を決定します。
重臣たちの多くは反乱が起きると反対しました。3人だけ「このまま力をつければいずれ反乱を起こす。それなら今のうちに叩いてしまおう」と言う者がいました。康煕帝はこの意見を採用して廃止を決定しました。
1673年(康熙12年)。三藩の廃止を知った呉三桂は当然反対します。「満洲族を追い出して漢族の世を取り戻そう」と人々に呼びかけました。ところが明の永暦帝を殺したのは呉三桂です。民衆は呉三桂を支持しません。
それでも三藩の力は強く、最初は清軍が敗北して圧され気味。台湾に逃げていた明の残党・鄭氏政権が呉三桂を援護しました。一時は長江より南を全て占領されるほど危ない状況でした。
重臣は康煕帝に満洲に避難するように進言しました。でも康煕帝は断固として戦う姿勢を変えません。
最初は強かった三藩たち反清勢力ですが、個人の利益だけで戦っているのでまとまった作戦がとれません。漢人将軍を採用して体制を立て直した清軍は各地で反清勢力を撃破していきます。
1678年(康熙17年)呉三桂は「周」の建国を宣言し自ら皇帝を名乗りましたが年内に死亡。孫の呉世璠が後をつぎましたが、
1681年(康煕20年)。清軍は 周 を攻めて呉世璠を自害させ。反乱を鎮圧しました。
1683年(康煕22年)。台湾の鄭氏政権を攻め。最後まで抵抗していた鄭克塽が清に投降。台湾を清の領土にします。
国内に清王朝に抵抗する勢力はいなくなりました。
ネルチンスク条約でロシアと国際条約
ロシア帝国は16世紀になってシベリアを開拓。1643年ついにユーラシア大陸の東まで到達しました。そして清とロシアは国境をめぐて対立することになります。
清はまだ中国国内を統一できていなかったのでロシアに対して満足な反撃ができません。
1680年代になって国内の抵抗勢力を一掃が終わると康煕帝はロシア戦の準備に取り掛かりました。
1685年。ロシアのアルバジン城へ攻撃開始します。戦争は清が有利に戦っていました。
するとロシアのピョートル1世が外交交渉を求めてきました。
1688年。ロシアのネルチンスクで講和会議が行われ国境線が決められ、通商条約が結ばれました。
ネルチンスクで行われた条約は清が初めてかわした国際条約です。康煕帝は国際法の知識をイエズス会宣教師から得ていました。
この条約でロシアは一方的に国境を超えることができなくなります。この条約はロシアの南下を平和的に防ぐために効果的でした。
ところがこの条約は清の国内では評判が悪かったのです。
というのも中華思想では対等な関係などありえません。周辺国は全て皇帝にひれ伏す存在。皇帝の支配が及ぶ範囲が全て領土なので国境は存在しない。貿易は朝貢で行うもの。対等な関係などありえない。というのが当時の中国人の考え方でした。
このネルチンスク条約の評価が見直されるのは清朝末期。アヘン戦争に負けて欧米列強と不平等条約を結ばされたときでした。そのときになって初めてネルチンスク条約は清に有利な条約だったと分かったのは皮肉です。
清・ジュンガル戦争
1693年(康熙32年)。ジュンガルとモンゴルのハルハ部の間で争いが起こりました。争いに破れたハルハ部の諸侯たちが康煕帝に助けを求めてきました。
そこで康煕帝は自ら遠征を行い、ジュンガルのガルダン・ハーンと対決。
1696年(康熙35年)のジョー・モド戦いではガルダン・ハーンとの戦いに大勝利。逃げたガルダン・ハーンは翌年病死します。
晩年は苦労した康煕帝
こうして国内の反対勢力を一掃して領土を広げ。清に安定をもたらした康煕帝は清史上最高の名君といわれます。
ところが晩年になって後継者争いがおこります。皇太子にした胤礽は問題行動をお越し廃位。その後も皇子たちの闘いが続きました。歴史に名を残す名君も後継者の決定には頭を悩ましたようです。
後継者争いについてはこちらに詳しく紹介しています。
1722年12月20日(康熙61年)。康煕帝は死去しました。
享年69歳。
在位61年。
実在が確認できる皇帝の中では中国史上で最長の在位期間でした。
テレビドラマの康熙帝
・宮廷女官 若曦 (2011年、中国、演:劉松仁)
・皇帝の恋 (2016年、中国、演:劉愷威)
・龍珠伝ラストプリンセス(2017年、中国、演:秦俊傑)
・花散る宮廷の女たち (2017年、中国、演:趙 濱)
・宮廷の茗薇 (2019年、中国、演:劉鈞)
コメント