中国では皇帝が亡くなると、多くの女性たちがその棺と共に土の中に埋められた。
想像を絶するこの事実は中国王朝の歴史が秘める深い闇の一部です。特に「朝天女」と呼ばれた女性たちの存在は絶対的な権力とそれに翻弄された人々の悲劇を今に伝えます。
中国では「殉葬」は商(殷)の時代からありました。秦漢の時代には制度してはなくなったものの一部地域で残ります。
儒教では本来否定されていましたが、明の時代には朱子学の影響で衝撃的な「復活」を遂げます。明朝では殉葬した女性たちは朝天女と呼ばました。
なぜ、このような残酷な制度が長く続いたのでしょうか?そして、この悲劇はいつ、どのようにして終ったのでしょうか?
この記事では、中国王朝における殉葬の起源から終わりまでを分かりやすく紹介します。
中国王朝における殉葬の起源と歴史的変遷
生贄から殉葬へ
原始時代には世界各地で生贄が行われていました。儀式のときに生きた人を犠牲にするのです。
それは中国も同じです。しかし中国ではやがて殉葬という形で大規模に行われるようになりました。
殉葬(じゅんそう)とは権力者の死後にその権力に仕えた人々を共に埋葬する慣習です。
商(殷)の時代:人身供犠の始まりと「生贄」の悲劇
殉葬の痕跡は紀元前17世紀から紀元前11世紀ごろまで栄えた商(殷)王朝まで遡ります。
商の王族や貴族の墓からは大量の人骨が発見されています。これらは王の死後の世界での奉仕のために生きたまま埋葬された殉葬者だと考えられています。その多くが成人した男性のものでした。犠牲になったのは戦争で捕虜になった人たち。特に戦って負けた羌族(きょうぞく)の人々が犠牲になることが多かったようです。
周〜漢の時代:儒学の影響と人身供犠の衰退
続く周(しゅう)の時代にも殉葬の習慣は残っていました。周と商(殷)の支配民族が違うこともあって殉葬の規模は小さくなり、やがて人身供犠から土製の人形である「俑(よう)」へと変化します。
続く春秋戦国時代には殉葬は徐々に廃れます。秦は遅くまで殉葬が残っていましたが、秦も正式に廃止を決定。紀元前221年に中国を統一した始皇帝が壮大な兵馬俑を造らせましたが、これもは生身の人間を埋葬する代わりとされます。

兵馬俑
漢の時代になると儒学が国教として採用されました。孔子から続く儒学では本来殉葬を否定していました。「未知の霊に仕えるよりも生きている人々に尽くすべし」という儒教の思想が浸透したことで漢の時代には人身供犠としての殉葬はほぼ廃れていきました。
一部で残る殉葬
でも歴史は単純ではありません。漢以降、国の制度しては殉葬はなくなりました。
でも一部の地域や民間では殉葬が残ったり、復活することもありました。古代の習慣は簡単には消えないのです。
戦争捕虜を殉葬させたり、親の仇を殺してその首や心臓を墓前に備えたり、婢妾(ひしょう=女の奴婢や側室)が殉葬されることがありました。
北方民族王朝での復活:異文化の影響と慣習の変化
北方民族が中国を支配した遼(りょう)、金(きん)、元(げん)といった王朝では一部で殉葬が復活することがありました。
古来、北方民族には家畜や奴隷を殉葬させる慣習がありました。彼らが漢人文化に接触した結果、漢人式の婢妾(ひしょう=女の奴婢や側室)を殉葬させる方法に変化させ、再び殉葬が一部でみられるようになったのです。
明朝での殉葬の復活:朱子学がもたらした悲劇
制度として殉葬がほぼ姿を消していた漢人王朝で衝撃的だったのが明(みん)の時代に殉葬制度が「復活」したことです。儒教的な道徳観が確立されていたはずの時代になぜこのような非人道的な制度が蘇ったのでしょうか?
朱子学の教えと殉葬思想の再燃
その背景には朱子学の発達があります。朱子学は儒教の一派ですが、それまでの儒学とは違う部分も多いです。
古い時代の儒学は殉葬を否定していました。にもかかわらず宋代に誕生した朱子学では「君臣の綱・父子の綱・夫妻の綱」という「三綱(さんこう)」や「忠孝礼義信」の「五常(ごじょう)」が重要な教えとされました。
臣下(子・妻)は君主(父・夫)に従わなければならない。という考え。儒教でも道徳としてはありましたが、朱子学ではさらに強制力を持つ教えとされました。
特に「臣は君のために死し、子は父のために死し、妻は夫のために死し、僕は主のために死し」という教えが強く広まったのです。
この思想は絶対的な忠誠と服従を求めるものでした。さらに妻や妾(めかけ)などの女性が夫の死に殉ずることを「美徳」とする風潮が民間で流行しました。そしてこれが明王朝で国の制度として殉葬が復活する大きな原因になったのです。
洪武帝(朱元璋)の崩御:46名の妃嬪・宮女が殉葬された背景

明 洪武帝 朱元璋
殉葬復活を決めたのは明の初代皇帝である朱元璋(しゅげんしょう)洪武帝(こうぶてい)でした。
彼が崩御したときには皇帝が生前に決めていた命令どおりに、46名もの子のない妃嬪や宮女が殉葬されたと記録されています。これは皇帝の絶対的な権力と朱子学の解釈がいびつな形で結びついた結果と言えるでしょう。
「朝天女」と呼ばれた女性たち:その「栄誉」の裏にあった残酷な実態
明の時代に皇帝に殉ずる妃や宮女は「朝天女官」あるいは「朝天女」と呼ばれました。
これは「天子(皇帝)と共に天に昇る」という建前上の「栄誉」を与えられたからです。でもその実態は残酷なものでした。彼女たちは通常絞殺という形で命を奪われ皇帝の棺と共に埋葬されたのです。
殉葬の対象となったのは皇帝の妃嬪だけでなくその側近くに仕えた宮女たちも含まれました。
さらには隣国である朝鮮から明に献上された「貢女」たちも皇帝の死に際して殉葬されることがあり、朝鮮王朝に深い悲しみをもたらしました。
遺族への待遇:朝天女戸
殉葬された女性たちの家族には世襲の官職が与えられることもありました。これを朝天女戸といいます。
朝天女の遺族には以下の特典が与えられました。
- 世襲の錦衣衛官職の授与と税の免除
- 殉葬者の等級に応じた見舞金の支給
でもこれは制度を正当化するためのもので、決して彼女たちの意志を尊重したものではありませんでした。
悲劇の終焉:殉葬制度の「廃止」と英宗の決断
しかしこの悲劇的な制度にも終わりが訪れます。
それを終わらせたのが明の第6代/第8代皇帝 英宗(えいそう天順帝)でした。彼はオイラトとの戦いで捕虜となり、苦難の経験を味わった皇帝でした。
この苦しい経験が命を大切にする彼の思想に影響を与えたと考えられています。
英宗(天順帝)の勅令:捕虜経験がもたらした人道的な決断
英宗は自身が崩御する前に殉葬を行わないよう勅令を下しました。これが殉葬制度の廃止のきっかけとなり、明朝で制度としての殉葬は亡くなりました。彼のこの決断は後世から高く評価されています。
清王朝での完全な廃止:康熙帝による最終的な幕引き
しかし制度としてはなくなっても、一部の地域では残っていました。
さらに清(しん)王朝の初期には個人的な指示で殉葬が行われたことが一部であります。例えば清朝の創始者であるヌルハチやホンタイジは一部の妃や侍女を順送させてます。
しかし清の第4代皇帝 康熙帝(こうきてい)の時代に殉葬は完全に廃止されました。ここに中国で殉葬は完全に終わりを告げたのです。
まとめ:過去の悲劇から学ぶ人権と尊厳の重要性
中国史における殉葬について紹介しました。「朝天女」は作り話ではなく、中国の歴史上に存在した犠牲者でした。
原始時代の生贄から始まり、古代王朝時代に盛んに行われた殉葬。やがて社会の発達とともに殉葬は廃れたかにみえました。
ところが自分たちを「文明的」と考える朱子学者は殉葬を美化。朱子学の発展とともに殉葬が復活してついには明朝には国の制度として復活しました。それも英宗の決断によって国の制度して終わりを迎えます。
ここから言えるのは殉葬が起きたのは単純に野蛮だからとはいえないことです。人間が偏った理屈や思想に捕らわれると人命を尊重しなくなる。そんな人間の闇を教えてくれるものかもしれません。
よくある質問(Q&A)
Q1. 「朝天女」という言葉は中国の他の時代にも使われたの?
「朝天女」という呼称が広く使われたのは明朝の時代だとされています。他の時代では殉葬はあっても、この呼び方は一般的だったわけではありません。
Q2. 殉葬された女性たちの遺体はどうなったの?
彼女たちは皇帝の棺と共に埋葬されることが一般的でした。墓の構造によっては皇帝の墓室の隣に殉葬者のための区画が設けられることもありました。
Q3. 殉葬以外にも皇帝の死に際して行われた残酷な慣習はあるの?
殉葬以外にも皇帝の死後にはその権威を維持するために様々な儀式や慣習が存在しました。例えば皇帝の墓を造営するための過酷な労働や、墓の秘密を守るために職人が生き埋めにされる。といった悲劇的な例も歴史上には存在します。
参考資料
・黄展岳、”中国古代の殉葬習俗”、第一書房、2000年。
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