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宮廷女官若曦 最終回(35話) のあらすじ:若曦の死と雍正帝の涙、最後のすれ違い

宮廷女官若曦 最終回(35話) のあらすじとネタバレをまとめました。

最終回を前に若曦はすでに亡くなり、残された人々のその後が描かれます。雍正帝(四皇子)が取り返しのつかない後悔に向き合い、読まれなかった手紙の意味が明かされ、兄弟の対立と別れが描かれます。

さらに張暁が現代で目覚め、その後の皇子たちの末路を知り涙します。

 

この記事で分かること

  • 若曦の最期と、読まれなかった手紙の真相
  • 雍正帝が抱えた後悔と涙の理由
  • 十四阿哥が遺灰を渡さなかった背景と制度
  • 皇子たちの最後と史実との違い

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宮廷女官若曦 最終回(70話) あらすじ そして来世へ

要約:
若曦は息を引き取り、その死を知った雍正帝は激しい後悔に襲われ彼女を送り出し、現代で目覚めた張暁は清朝の面影を追うことになります。

 

すれ違った最後の手紙

四皇子(雍正帝)は、今まで放っておいた手紙が若曦の最期の言葉だったと気づき、震える手で封を切ります。そこには自分への変わらぬ愛が綴られていました。若曦を遠ざけ、手紙を読まなかった自分の振る舞いを激しく悔やみますが、若曦はもうこの世にいません。

遺灰を巡る兄弟の対立

四皇子と十三皇子が駆けつけたとき、十四皇子はすでに若曦を火葬していました。四皇子は彼女を連れ帰ろうとしますが、両親の死に目にも会えなかった十四皇子は「自分の側室まで奪うのか」と怒りを爆発させます。しかし、侍女の巧慧が若曦の遺品を見せると、状況は一変しました。

愛の証と自由への旅立ち

遺品の中には、四皇子の筆跡を真似て書いた大量の練習書きや、二人の思い出の品である木蓮の簪がありました。若曦がどれほど自分を想っていたかを知り、四皇子は声を上げて泣き崩れます。後日、彼は若曦の願い通り、その遺灰を風の中に撒いて彼女を自由の身にしました。

現代での目覚めと再会

現代の病院で目覚めた張暁は歴史を調べますが「馬爾泰・若曦」の記録は見つかりません。しかし清代の展示会で、自分が描かれた絵を見つけます。

そこで四皇子にそっくりの男性と出会いますが、彼は彼女を知りません。張暁は涙を流しながら、一人その場に取り残されるのでした。

 

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宮廷女官若曦 最終回の注目点

四皇子が手紙を後回しにした理由と、その後の悲劇

四皇子が若曦からの最後の手紙を後回しにしてしまったのには、皮肉で悲しい行き違いがありました。

若曦の書く文字は四皇子の筆跡と見分けがつかないほどそっくりになっていました。これに気づいた十四皇子はそのままの手紙を送れば宮中で余計な詮索をされ、彼女の立場が悪くなるかもしれないと心配します。そこで彼は若曦の手紙を自分の封筒で包み都へと届けさせました。

でもこれが最悪の結果を招きます。封筒の主が十四皇子だと知った四皇子は「またいつものように、自分を皮肉る詩でも送ってきたのだろう」と決めつけてしまったのです。彼は中身を確認することさえせず、その手紙を机の脇へ放り出してしまいました。

若曦はそれから三日三晩、愛する人が駆けつけてくれるのを今か今かと待ち続けました。でも、その姿を見ることは叶わず彼女は孤独の中で息を引き取ることになります。

のちに若曦が亡くなった知らせを受けてようやく手紙を開いた四皇子は自分の軽率な判断が取り返しのつかない悲劇を生んだことを突きつけられます。

彼女の最後に立ち会えなかったという事実は皇帝としての誇りも吹き飛ばすほどの、激しい後悔となって彼を打ちのめしたのでした。

 

十四皇子が遺灰を渡さなかった理由

十四皇子は若曦を自分の側室として迎え入れ、最期まで責任を持って弔いました。

彼の頑固な態度の裏には、かつて自分の両親の死に目にも会えなかったという悲しい経験がありました。「もうこれ以上、大切な家族を奪われてたまるか」という、行き場のない怒りを抱えていたのでしょう。

ドラマでは兄弟の激しい感情のぶつかり合いとして描かれていますが、当時の決まりごと(制度)で見ても、彼の主張には一理あります。

清の時代の側室の扱いはその家ごとに管理されるものでした。たとえ皇帝でも他人の家の側室の遺体やその一部を勝手に持ち出すことはルール違反だったからです。

 

若曦が遺した「文字の練習」に込められた想いとは?

生前の若曦は四皇子の筆跡をまねて文字の練習をしていました。

これはたとえ会えない日が続いても、彼女の心にはいつも四皇子がいたということでしょう。一文字ずつ丁寧に写し取る時間は、心の中で四皇子に触れるひとときだったのかもしれません。

のちにこの筆跡を目にした四皇子は激しい後悔に襲われました。彼女を疑い届いた手紙すら読もうとしなかった自分の振る舞いが、どれほど残酷なことだったかを突きつけられたからです。

 

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主な登場人物の結末

若曦

清代で命を落とします。十四皇子のもとで火葬され、最期まで雍正帝(四皇子)への思いを抱えたまま去りました。

現代では張暁として目を覚まし、生きて戻ります。

張暁

現代に戻ったあと、馬爾泰・若曦の記録が歴史に残っていないことを知ります。それでも遺物展で過去の自分の姿を見つけ、四皇子によく似た現代の男性ともすれ違います。

 

雍正帝(四皇子)

ドラマ

若曦の最期の手紙を読んで、自分が彼女を手放したことを強く悔やみます。その後は皇帝として生き続けますが、そばにいた人たちを次々に失って最後は孤独な生涯を送ります。

史実

1722年に即位して1735年に在位のまま死去しました。 継承者争いをした兄弟たちや重臣たちを排除して権力を集中させた点は史実通りです。

もちろん若曦は架空の人物ですから、若曦を失って孤独だけが残るという結末はドラマの脚色です。

史実の雍正帝も即位後まもなく正室のウラナラ氏、寵愛した側室の年氏を失いました。でもドラマほど孤独だったかは不明です。

 

十三皇子

ドラマ

若曦の死を見届けたあとも四皇子を支えます。ですが長年の無理がたたり、若くして亡くなります。

史実

十三皇子 允祥は雍正帝の即位後に軍や政務の中枢を支えた重要な人物。『清史稿』年表では雍正8年5月に死去、享年44歳。決して長くはない生涯でしたが、雍正帝を支え早く亡くなるのは史実通りです。

歴史書ではドラマのように過労が死因とは書かれていませんが、様々な重要な役職を任されていたので激務だったと思われます。

 

十四皇子

ドラマ

若曦を自分の手で火葬し、遺灰を守ろうとします。その後は徳妃の宮殿に軟禁され、身分は保たれながらも表舞台には戻れません。

史実

十四皇子の允禵は、康熙晩年に有力皇子として注目されましたが、雍正帝の即位後は警戒されました。

1725年に爵位を剥奪されて寿皇殿の脇で軟禁状態に置かれたとされました。乾隆帝即位後は釈放され、ドロイベイレに昇進。皇族として朝廷に出仕して1755年に亡くなっています。

長く拘束された点は史実に近いですが、徳妃の宮殿で静かに老後を送ったというのはドラマの脚色です。

 

八皇子

ドラマ

最後は毒酒を賜って自害します。死の直前に、妻の明慧と同じ墓に入ることを望みました。

史実

雍正帝のもとで失脚し、宗籍を削られ、名をアキナ (阿其那)と変えられ幽閉されました。『清史稿』では、雍正4年9月に幽閉先で亡くなったとだけ書かれ、毒酒で自害したとは書かれていません。

失脚して監禁の末に死んだのは史実通りですが、死因はドラマの脚色です。

 

九皇子

ドラマ

幽閉されたまま毒酒を賜り、薄暗い部屋で生涯を終えます。

史実

雍正帝により爵位を奪われ、西寧で幽禁されたあと北京へ送られました。サスヘ(塞思黒)と名を変えられ、劣悪な環境で監禁されました。『清史稿』では雍正4年8月に幽閉先で腹の病で死んだと記されています。

失脚して幽閉されて死亡したのはドラマに近いですが、毒酒で死んだのはドラマの脚色です。

 

十皇子

ドラマ

大きな志をかなえることはできませんでしたが、明玉と深い夫婦のつながりを持ち、宮廷の外で穏やかに暮らします。

史実

十皇子 允䄉は八皇子派に加わったため雍正元年に爵位を奪われ、北京で拘禁されました。その後、乾隆2年に釈放されて輔国公となり乾隆6年に亡くなっています。

後半に名誉がいくらか回復したのは事実ですが、夫婦で穏やかに過ごしたというのは記録では確認できず、ドラマの演出といえます。

 

巧慧

若曦の最期を見届けた人物。四皇子に遺品を見せ、若曦の本心を伝える役目を果たしました。

 

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宮廷劇
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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