秦と戦った義渠(ぎきょ)という遊牧民がいました。
その義渠王が秦の宣太后と愛人関係(再婚?)になったという話があります。
最終的に義渠王は秦の計略にはめられて殺害されるのですが。宣太后も加わっているとかいないとか。
義渠は日本では殆ど知られていませんが。ドラマ「ミーユエ」に登場する 義渠王・翟驪がその宣太后の愛人だった義渠王をモデルにしています。
義渠王と宣太后について紹介します。
義渠(ぎきょ)とは
義渠とは紀元前の古代中国に存在した遊牧民族です。義渠は秦のとなりに住んでいて秦と義渠は何百年も争っていました。
義渠には都市もあり王がいました。中原(黄河中流・洛陽盆地周辺)の国とは貿易も行っていました。
義渠と秦は別々の国だったので義渠王と呼ばれますが。義渠が秦に服従して義渠王が秦王の臣下になると義渠君と呼ばれます。
義渠王と宣太后
歴代の義渠王でも一番有名なのが秦の宣太后と親しかった義渠王(義渠君)です。
残念ながら義渠王の個人名は伝わってきません。どの時代の王も義渠王と書かれています。どこからどこまでが同一人物なのかわかりません。
前漢の司馬遷(しば せん)という人が書いた歴史書「史記」から、宣太后が生きた時代に近い義渠王の登場する場面を抜き出してみましょう。
紀元前331年(恵文君7年)。義渠で内乱がおきました。秦は混乱を鎮めるという口実で義渠に攻め込みました。義渠の衰退が始まります。
紀元前327年(恵文君11年)。義渠は秦に服従しました。秦は義渠を領土の一部にしました。義渠王は秦王の臣下・義渠君になりました。
ところが義渠で王が交代。新しい義渠王(義渠君)は秦に服従するのが嫌でなんとか秦に対抗する方法を探そうと魏と交渉します。
義渠君は魏の公孫衍から
「秦は中国(中原=黄河周辺の国)に戦争がないときは貴国を焼き払い、中国に戦争がおこると多くの贈り物をもってやってくるでしょう」
と言われました。
紀元前318年(恵文王7年)。楚・魏・斉・韓・趙の5つの国は同盟して秦を攻めることにしました。
秦の陳軫は連合軍に対抗するため義渠を買収して味方にしたほうがいいと、秦の恵文王に勧めました。
恵文王は陳軫の言う通り、綾織物1000匹と貢女100人を義渠君に贈りました。
義渠君は「公孫衍が言っていたのはこのことだったのか」と思って、兵を出動させて秦の李帛(現在の甘粛省天水市の東)を攻めました。ところが義渠と連合軍は秦に敗れてしまいます(函谷関の戦い)。
紀元前315年(恵文王10年)。秦が義渠を攻撃。25の城を占領しました。
紀元前310年(武王元年)。義渠は国王が変わったばかりの秦に反乱を起こしましたが、再び秦軍に敗れました。
宣太后が力を持つ昭襄王の時代
紀元前306年。武王の死後、秦の昭襄王が王位を継ぎました。でも秦の権力は宣太后とその弟・魏冄たちが握り、敵対する者たちと権力争いをしています。昭襄王には権力はありません。
この間に義渠は再び力を付けました。
義渠王は秦の昭襄王の母・宣太后と関係を持ちました。宣太后は二人の子供を産みました。
昭襄王35年(紀元前272年)。宣太后は甘泉宮で義渠王を騙して殺害しました。
秦はその後、軍を派遣して義渠を滅ぼしました。
義渠のいた地域は秦の領土になりました。その後、生き残った義渠は匈奴に合流したといわれます。
義渠王は何人もいる
史記ではどの時代の王も「義渠王」と書かれていますが。昭襄王35年に殺害された義渠王と、魏と同盟して秦と戦った義渠王は別人でしょう。40年以上の開きがあります。
宣太后と親しくなった義渠王は恵文王の晩年から武王の時代に王になった人物ではないでしょうか。
史記では義渠王と宣太后は親しくなって子供ができています。
ところがその後、宣太后が義渠王を騙して殺したことになってます。
いったいなぜそんな事になってしまってるのでしょう?
史記は有名な歴史書なのでそのまま信じてる人も多いのですが。おかしな内容がいくつも出てきます。
本当に宣太后本人が義挙王を騙して殺したのでしょうか?
宣太后の名前を使って義渠王をおびき寄せて殺したのは昭襄王だったのではないでしょうか?
なにしろ昭襄王はすでに53歳です。いつまでも母の一族に権力を奪われて我慢できるはずがありません。
昭襄王が義渠を壊滅させた
前漢の劉向(りゅう・きょう)がまとめた書物「戦国策」によると。
・秦の恵王の時代
義渠と秦が戦い、秦が敗北。
・秦の昭襄王の時代。
義渠に復讐しようと考えました。
昭襄王は義渠王を殺したいと思ってます。昭襄王は騙して殺害し、王のいなくなった義渠に軍隊を送り込み征服しました。
「戦国策」では「史記」と違いは昭襄王が義渠王を殺害したことになっています。
また「戦国策」には宣太后が死去する前には魏丑夫という情夫(愛人)がいたと書かれています。
これが義渠王の死後に愛人になったのか。魏丑夫という新しい愛人ができたから義渠王を殺したのかはわかりません。
それが本当なら70歳近く(50を過ぎてる昭襄王の母ですよ)になっても愛人がいたことになります。宣太后はよほど魅力(と権力・財力)のある人だったのでしょう。
いろいろと想像できますね。
宣太后と義渠王に子供はいた?
ドラマ「ミーユエ」では宣太后と義渠君の間に子供が誕生します。
でも「戦国策」では宣太后と義渠王の間に子供がいたのかはまでは書かれていません。
「ミーユエ」で宣太后に子供が生まれるのは作り話なのです。
実際には宣太后の年齢的にも出産は難しかったのではないかと思われます。
義渠王は宣太后派と昭襄王派の対立の巻き添えになった?
史記と戦国策の両方を合わせて考えると。
義渠王を殺害したのは昭襄王と王を支持する人たちの可能性が高いです。
当時の秦は宣太后と兄弟の魏冄や華陽君など宣太后の一族が大きな力を持っていました。魏冄や宣太后の一族は私服を肥やし財産は王室よりも多かったのです。
義渠の武力を味方にした宣太后とその一族は秦の国内でも大きな力を持っていました。
昭襄王はお飾りの王でした。でも昭襄王は范雎たち自分に従う臣下を集め。宣太后とその派閥から権力を取り戻そうとしていました。
そんなときに起きたのが義渠王の殺害です。
昭襄王(嬴稷)は子供のころ、親と引き離されて燕国で人質生活してました。母・宣太后は秦で暮らし、手元に残した弟を可愛がっていました。
史実はドラマ「ミーユエ」とは全然違います。
昭襄王にとって母・宣太后は権力争いの相手に思えたかもしれません。
秦の臣下たちもなんとかして義渠を滅ぼしたい。宣太后の一族の力も排除したいと思っていたでしょう。
いずれにしても秦が義渠王を騙しておびき寄せて殺したのは間違いないようです。
紀元前265年。昭襄王は宣太后の一族、魏冄や華陽君を追放しました。自らの兄弟の高陵君と涇陽君も追放しました。宣太后は政治的な力を失いました。
宣太后はしばらくして死去したといわれます。
義渠王の殺害は宣太后派と昭襄王派の争いの中で起きた事件だったようです。
義渠王と宣太后の事実婚は本当なの?
漢の時代にも太后にプロポーズにした遊牧民の王がいた
ところで、異民族の王が王太后に求婚するなんてことがあるのでしょうか?
実はあるのです。
宣太后よりも後の時代。
漢の初代皇帝・劉邦(りゅう・ほう)が亡くなった後、劉盈(りゅう・えい)が2代皇帝になりました。このときも未亡人の呂太后とその一族が権力を握っていました。
すると匈奴の王・冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)が手紙を出しました。
「冒頓単于は独身だ。呂太后も独身に戻ったので契りを結ぼう」というのです。
呂太后は激怒して軍を派遣して匈奴を討とうとしました。
宣太后と義渠王の話にそっくりです。
呂太后が激怒したのは嫌いだったからだけではありません。かつて劉邦が冒頓単于と戦って敗北しました。幸い劉邦の命は助かりましたが、漢が匈奴に莫大な貢物を贈ることになってしまいました。
呂太后はもちろん。「自分たちは文明人」と思っている漢にとっても「野蛮人」と思っている遊牧民に貢物を贈るのは屈辱です。呂太后が怒るのは当たり前です。
冒頓単于はどこまで本気だったかはわかりませんが。政略結婚して「漢も手に入れたい」と思っていたかもしれません。
遊牧民と漢民族の価値観の違い
内モンゴル出身の学者・楊海英氏によると。遊牧民の男性は「女性に出逢えば口説かないと失礼にあたる」と考えるそうです。なにやらラテン系のノリです。冒頓単于の行動も遊牧民なら当たり前なのだそうです。
冒頓単于の行動が問題ないなら、義渠王が同じことをしても問題ないでしょう。プロポーズに応えるかどうかは相手次第です。
王の母になると権力や外交問題も関係するので、一般人の再婚みたいに簡単ではありませんけれど。
始皇帝の母・趙姫(コウラン伝のモデル)もそうですが。秦は後の中国王朝に比べれば女性の立場は高いです。太后でも夫が死んだら新しいパートナーを作ります(人にもよりますが)。
宣太后や趙姫も「男が再婚できるのに、女が再婚して何が悪い」と言わんばかりです。
でも儒教では許されません。
秦では儒教は広まってません。でも司馬遷のころの漢では儒教は広まってます。
史記を書いた司馬遷はもちろん漢の創始者の妻・呂太后の話を知っています。司馬遷は著書の中で宣太后にも異民族を討たせようとしたのかもしれません。
司馬遷は熱心な儒教の信者(儒学者)です。冒頓単于のプロポーズに激怒した呂太后と違って、義渠王と親しい宣太后は許せなかったでしょう。
ドラマの義渠王
ミーユエ 2018年、中国 役名:翟驪 :高雲翔
劇中の義挙王はミーユエを愛する人物。ミーユエの再婚相手になりますが、昭襄王との仲が悪く宮廷を出ていくとこに。ところが弟が殺されて激怒した翟驪は秦の宮廷に乗り込みますが、将軍の蒙驁に弓矢で討たれて死亡。
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