姚子衿(ようしぎん)は中国ドラマ『尚食』の主人公。
彼女の料理への情熱や宮廷での活躍に「もしかして実在した人物では?」そう感じたのではないでしょうか?
ドラマの感動的なストーリーに引き込まれればそのように思うのも当然です。でも結論からお伝えすると 姚子衿という人物は歴史上存在しません。彼女はドラマをより面白くするための架空キャラクターです。
でも安心してください。実は姚子衿には「孝恭章皇后 孫氏(こうきょうしょうこうごう そんし)」という実在のモデルがいます。
ドラマでは姚子衿という偽名が使われていますが彼女の本当の姓は孫氏であり実際に明の宮廷で波乱に満ちた人生を送った女性なのです。
この記事ではドラマの姚子衿と史実の孝恭章皇后 孫氏を比較。史実の孝恭章皇后 孫氏の生涯を紹介します。
ドラマが描いた話はどこまで史実に近いのか一緒に探っていきましょう。
『尚食』の姚子衿は実在する?偽名に隠された物語の真実
姚子衿は架空の人物!ドラマを彩る創作の魅力
中国ドラマ『尚食』は明の時代を舞台にした宮廷ドラマです。主人公の姚子衿は優れた料理の腕を持つ宮女として登場。彼女が宮廷で様々な困難を乗り越え皇帝の側で活躍する姿は多くの視聴者を魅了しました。
ですが歴史書を探しても「姚子衿」という名の人物は出てきません。彼女はドラマを魅力的に演出するための架空キャラクターです。
でも全くの架空ではありません。モデルになった人がいます。それは宣徳帝の妃・孝恭章皇后 孫氏です。
ドラマでは姚子衿と名乗っていますが、本当の姓は「孫」。劇中の名前は偽名です。これはエンターテイメント作品として物語の面白さを追求した結果ですね。
ドラマの姚子衿はどんな人物?その詳細設定
ドラマ『尚食』の姚子衿の設定は非常に細かく作り込まれています。彼女の物語は以下の要素で構成されていました。
- 最終的な地位: 尚食局宮女→尚食局掌膳→尚食局典膳→尚食局司膳→太子嬪→貴妃→皇后
- モデル: 孝恭章皇后
- 本当の姓: 史実のモデルと同じく孫氏(小名「阿狸」)
- 出自と幼少期: 幼い頃病気の母のため外祖父の家に寄宿。そこでお忍びで農家を訪れていた皇太孫・朱瞻基と偶然出会い一目惚れしたとされています。
- 入宮の経緯: 10歳の時当時の太子妃(後の仁宗張皇后)の母である彭城伯夫人(朱瞻基の祖母)の推薦で入宮。明成祖から玉珮(ぎょくはい)を賜り「太孫妃」候補に指定されました。太子妃・張氏の教育を受け琴書画さらには料理蹴鞠乗馬狩猟まで多岐にわたる教養を身につけます。
- 宮廷での活躍: 重い病気で一時出宮休養したため胡善祥が代わりに太孫妃となりました。嫡母が病没前に彼女に宮廷へ戻り幸せを掴むよう促したといいます。姚子衿として入宮後は尚食局の宮女として選ばれ料理への興味を深めました。様々な食材や技術を研究し中華薬膳と融合させた独自の料理で宮中で評価を高め、地位を宮女から掌膳典膳司膳へと上げていきました。
- 朱瞻基との関係: 美食の腕を磨く中で朱瞻基と深く愛し合うようになります。朱瞻基が皇帝に即位した後、寵妃の象徴である永寧宮での居住を賜りました。
このようにドラマの姚子衿は史実の孫皇后の要素をベースにしながらも料理という独自の才能を加えよりドラマチックな人生が描かれています。
姚子衿のモデル・孝恭章皇后 孫氏の波乱の生涯
次に姚子衿のモデルになった史実の孝恭章皇后 孫氏を紹介します。
孫氏の生い立ちから皇太孫妃候補になるまで
孝恭章皇后 孫氏は1399年に現在の中国・山東省鄒平で生まれました。父は役人の孫愚です。彼女は四女として生まれ、幼いころからたいへん美しく聡明だったと言われています。
彼女が生きた時代は明王朝が最も栄えた時期です。第3代永楽帝、第4代洪熙帝、第5代宣徳帝そして彼女の息子である第6代正統帝と激動の時代を生き抜きました。
孫氏がまだ10代のころ。1410年のことでした。彼女は皇太子妃であった張氏(後の誠孝皇后)の母・彭城妃の推薦で当時の皇太子であった朱高熾(後の洪熙帝)の屋敷で働き始めます。そこで張氏から将来のお妃候補として教育を受けました。
このころ孫氏は朱高熾の息子すなわち皇太孫であった朱瞻基(後の宣徳帝)と出会います。二人は親しくなりお互いに強く惹かれ合いました。孫氏の美しさと聡明さが朱瞻基の心をとらえたのでしょう。
寵愛を受け側室から皇后へ!宣徳帝との愛憎
1417年。朱瞻基の祖父 永楽帝の決定により朱瞻基は胡善祥と結婚。胡善祥が正室となりました。孫氏は側室になります。しかし朱瞻基は祖父が定めた正室の胡善祥をあまり好みませんでした。彼は美しい孫氏を深く寵愛したのです。
1424年。洪熙帝が即位すると朱瞻基は皇太子になります。このころ孫氏は娘の常徳公主を産み皇太子嬪という立場になりました。
病弱だった洪熙帝は即位してわずか1年で崩御。
1425年。朱瞻基が宣徳帝として即位します。このとき孫氏は側室の最高位である貴妃になりました。皇后には依然として胡善祥がいましたが宣徳帝の寵愛は孫貴妃に集中しました。
そして1428年。孫貴妃は息子である朱祁鎮(後の正統帝・英宗)を出産します。念願の男子の誕生に宣徳帝は大いに喜びました。宣徳帝は長男の朱祁鎮を皇太子にしたいと強く願うようになります。
そのため胡善祥を「病気で男子がいない」という理由で廃位出家させて道教の司祭にします。
こうして宣徳帝は孫貴妃を皇后にしました。孫氏の父である孫愚も「会昌伯」の爵位を与えられ姓を孫忠と改めます。
英宗の生母は誰?孫皇后の生涯に残る謎
孝恭章皇后 孫氏の生涯には一つ大きな謎があります。それは彼女の息子である朱祁鎮の本当の生母が誰なのかという問題です。「明実録・英宗実録」という古い記録には朱祁鎮の生母は孫氏であると明確に書かれています。
しかし後に書かれた歴史書である「明史・列傳・后妃」には「孫氏には子がいない。宮女が生んだ子を孫氏の子とした。それが英宗(朱祁鎮)である」と記されているのです。なぜこのように異なる記述が生まれたのか諸説あります。
一説には廃位された胡善祥を哀れに思った人々がこのような記述を残したとも言われます。また宣徳帝が嫌っていた胡善祥を廃位させるため宣徳帝と寵愛する孫氏が共謀し宮女が生んだ子を孫氏の子としたという考え方もあります。
しかし真相は定かではありません。現在の定説ではより古い記録である「明実録」に書かれていることから朱祁鎮は孫氏の実子であろうと考えられています。
この謎はドラマにも影響を与えています。例えば『女医明妃伝~雪の日の誓い~』では「明史」の説が採用され『大明皇妃』では「明実録」の説が採用されています。
『尚食』と史実の孫皇后:ドラマが描くフィクションと史実の交錯
料理の才能は作り話?ドラマと史実の主な違い
ドラマ『尚食』では姚子衿が料理の才能を活かし持ち前の聡明さで宮廷を渡り歩く姿が描かれています。彼女が皇帝の心を掴む過程も料理という特殊な才能を通して描かれています。
でも史実の孝恭章皇后 孫氏は宮女として料理の腕を振るったという記録はありません。彼女は幼い頃からお妃候補として教育を受けその美しさと聡明さで宣徳帝の寵愛を得ました。
ドラマと史実の最も大きな違いは姚子衿が「偽名」を使い宮廷の料理人として描かれている点でしょう。これはエンターテイメントとして物語を面白くして視聴者に感情移入させるための脚色です。
尚食以外にも登場!孫皇后の物語が描かれた作品たち
孝恭章皇后 孫氏の波乱に満ちた生涯はドラマの題材として非常に魅力的です。そのため『尚食』以外にも数多くの中国ドラマに登場します。
- 『女医明妃伝~雪の日の誓い~』 (2015年 中国)
演:何晴(ホー・チン)
役名:孫太后
このドラマでは英宗の生母が孫氏ではないという説が採用されています。 - 『大明皇妃』 (2019年 中国)
演:湯唯(タン・ウェイ)
役名:孫若微(そん じゃくび)
このドラマでは孫氏が英宗の実母として描かれています。
これらのドラマはそれぞれ異なる視点から孫氏の人生を描いています。『尚食』で姚子衿という架空の人物を通して彼女の生涯に触れた方はこれらのドラマも見比べてみるといいでしょう。より深く孝恭章皇后 孫氏という人物を知ることができると思いますよ。
激動の明を生きた孝恭章皇后 孫氏の政治手腕
ここからは尚食では描かれない。孫皇后のその後の人生を見ていきましょう。
幼い息子を支えた皇太后時代
1435年。夫の宣徳帝が死去するとわずか8歳の息子朱祁鎮が正統帝として即位。孫氏は皇太后となりました。この頃の明朝は太皇太后の張氏や宣徳帝時代の有能な臣下たちがいたため政治は比較的安定していました。
張太皇太后は宦官の王振の横暴を嫌い度々叱りつけていたため王振もあまり勝手なことはできませんでした。
しかし張太皇太后が亡くなると王振の横暴が目に余るようになります。残念ながら孫皇太后は王振に対して厳しい態度をとらず彼の横暴を許してしまいます。
「土木の変」の変で息子が捕虜になる
そして1449年明とオイラトの間に戦争が勃発します。
この戦争も王振の独断専行が問題を大きくしていました。正統帝・朱祁鎮は50万もの大軍を率いて出陣しますが土木の変(どぼくのへん)でオイラトの捕虜となってしまいます。オイラトは身代金を要求しました。
孫皇太后と錢皇后(正統帝の正室)はすぐに身代金を用意し金と馬をオイラトに送りました。でもオイラトは正統帝を釈放しませんでした。
朱祁鈺の即位を認める
同年8月18日。孫皇太后は郕王・朱祁鈺を監國(皇帝代理)に任命します。さらに8月21日には于謙を兵部尚書に任命し戦いの準備と防衛を任せました。
8月20日。孫皇太后は正統帝・朱祁鎮の息子でわずか2歳の朱見深を皇太子にしました。そして9月上旬重臣たちは孫皇太后と錢皇后に郕王・朱祁鈺を皇帝にするよう強く求めます。
孫皇太后と錢皇后は状況を鑑みてこれを認めます。こうして景泰帝として朱祁鈺が即位しました。孫皇太后は「上聖皇太后」と呼ばれるようになります。
「奪門の変」で息子を救う
その後に朱祁鎮がオイラトから釈放され明に帰還します。でも景泰帝によって幽閉されてしまいました。
孫皇太后は幽閉された息子の朱祁鎮が寒さで凍えないように何度も綿の服を送ったと言われています。
1456年。景泰帝が病で寝込むようになります。すると石亨、徐有貞、曹吉祥らが結託し朱祁鎮を助け出して手柄を立てようと企てます。
彼らは仲間を集めて決起しました。このとき孫皇太后は彼らに「上皇(英宗)の聖徳は欠けてはいない。天の意志は我らにある」という勅命を与えこの反乱に正当性を与えました。
1457年1月16日。夜石亨たちは紫禁城を襲撃し門を占領。幽閉されていた朱祁鎮が救出されました。そして景泰帝派の于謙、王文、太監の王誠らが逮捕され処刑されました。孫皇太后は朱祁鎮を再び皇帝に任命します。この二度目の即位では「天順帝」と呼ばれます。
皇帝の呼び方が二つあるのは煩わしいので廟号の「英宗」で呼ばれることもあります。景泰帝は郕王に降格され幽閉されてまもなく死去しました。
1462年。孫氏は死去。彼女には「孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后」という長い諡が与えられました。これを省略して「孝恭章皇后」と呼ばれています。
有能とはいえなかった孫太后
史実の孫氏は張太皇太后が嫌った王振を咎めることはなく朱祁鎮と王振の横暴を許してしまいました。息子がオイラトの捕虜になった際は言われるがままに身代金を用意。
でも朱祁鈺が病になると反朱祁鈺派の重臣たちと結託し于謙たちを粛清。息子の朱祁鎮を再び即位させています。
「大明皇妃」などドラマに描かれるような有能な皇太后とはいえません。
まとめ
中国ドラマ『尚食』の主人公姚子衿は残念ながら実在の人物ではありません。
でも彼女のモデルになったのは明の時代に生きた孝恭章皇后 孫氏(孫皇后)という実在の女性です。
ドラマでは彼女の出自や宮廷での立場が脚色されていますが、これは物語をより魅力的にするための演出です。
孫皇后は宣徳帝の寵愛を一身に受け皇后となりその後は幼い息子である英宗の母として激動の政治の中心にいました。「土木の変」や「奪門の変」といった歴史的事件にも深く関わっています。
史実の彼女はドラマのように完璧な人物ではなかったかもしれませんがその生涯はドラマや小説を通して私たちに歴史の奥深さを教えてくれます。
『尚食』をきっかけにぜひ史実の孝恭章皇后 孫氏についてもっと知ってみてください。
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