献帝 劉協は後漢 最後の皇帝です。
幼い頃から様々な出来事に巻き込まれ、波乱の人生を送ることになりました。父親の死後、叔父が皇帝になりますが、まもなく強大な力を持つ董卓によってその座を追われてしまいます。そして、献帝が皇帝の座につくことになったのです。
しかし、献帝は名ばかりの皇帝。実質的な権力は董卓をはじめとする有力者に握られていました。その後も曹操などの英雄たちの間で争いの的となり、翻弄され続けます。
献帝の人生は 「乱世の波に翻弄された皇帝」でした。
この記事では、そんな献帝の人生を詳しく紹介。彼の魅力や歴史的な意味について迫ります。
- 劉協のプロフィールと家族
- 皇帝になった経緯
- 董卓や曹操との葛藤
- 伏皇后の廃位
- 漢滅亡後の劉協
献帝 劉協の史実
プロフィール
姓 劉(りゅう)
名称:協(きょう)
国:漢(後漢)
地位:皇帝
称号・呼称:献帝
生年月日:181年4月2日
没年月日:234年4月21日
日本では弥生時代になります。
家族
母:王美人
妻:伏皇后、曹皇后
劉協の生誕と家族背景
父・霊帝と母・王美人
劉協は光和4年2月23日(西暦181年)に生まれました。
父は後漢第11代皇帝である霊帝 劉宏。
母は王美人(王栄)です。
当時の後漢は政治的な乱れや権力闘争が頻発し、王朝の威信も低下していく中で劉協は生を受けました。
母の王美人は霊帝の寵愛を受けた女性の一人。でも何皇后の嫉妬を受けて毒殺されるという悲劇的な運命をたどりました。
劉協は生後わずか数ヶ月で母を失い、その後は嗇夫の朱直に養育されることになりました。さらにその後、董太后の元で育てられ「董侯」と呼ばれるようになったのです。
兄・少帝劉辯との関係
劉協には劉辯(少帝)という異母兄がいました。
劉辯の母は何皇后。霊帝の長男で皇后の子ですから本来なら劉辯が皇太子になってもおかしくはありません。
でも、霊帝は劉辯があまり利口ではなかったのと、劉協が愛する美人 王栄(おうえい)の子だったので、劉協を後継者にしたいと思っていました。
もちろん何皇后や皇后の兄で大将軍 何進(かしん)も認めるはずがありません。結局、霊帝の在位中には皇太子は決まりませんでした。
霊帝は病になり上軍校尉の蹇碩(けんせき)に劉協を託しました。蹇碩は何進を暗殺しようとしましたが失敗。蹇碩は殺害されてしまいます。
帝位継承の過程
霊帝の死と少帝の即位
中平6年(西暦189年)、霊帝が崩御。
大将軍 何進と何皇后は劉弁を即位させました。少帝の誕生です。
劉協は「勃海王」とりましたが、後に陳留王になります。
この時期、朝廷内部では外戚の何進が権力を握り、張譲・趙忠たち十常侍(じゅうじょうじ)と呼ばれる宦官勢力と対立していました。
董卓の台頭と劉協の即位
何進は袁紹と協力、諸侯を集めて宦官勢力を排除しようとしました。ところが董卓たち諸侯が到着する前に、何進が十常侍ら宦官に殺害されてしまいます。怒った袁紹が挙兵して宮殿に突入。
宦官たちは少帝と劉協を連れて逃げましたが、宦官たちは追手に討たれ。少帝と劉協は保護されました。
宮殿に戻った少帝と劉協を出迎えたのは董卓でした。このとき14歳の少帝は怯えましたが、9歳の劉協はしっかりとした受け答えをしました。
董卓は劉協が有能そうだったことと、劉協を育てた董太后が自分と同族だったので劉協を皇帝にしようと考えます。
董卓は朝廷を掌握すると少帝を廃位して弘農王にすると。
中平5年8月(西暦189年9月27日)。劉協は董卓に担がれ皇帝となりました。献帝(けんてい)の誕生です。
その後、董卓によって弘農王は殺害されました。
「後漢紀」によれば。献帝 劉協は兄の死を聞くと玉座から降りて嘆き悲しんだと言います。
皇帝としての試練の日々
董卓の専横と宮廷の混乱
献帝 劉協は皇帝とはいえ9歳の子供。
董卓は武力で朝廷を支配し、皇帝の権力を握っていました。董卓の支配下では、劉協はその存在すら薄れ、お飾りになっていました。
その後、董卓とその軍勢は都でやりたい放題。董卓の暴政は多くの貴族や官僚だけでなく、一般市民にも深刻な影響を与えました。
董卓に反発する袁紹ら諸侯が挙兵。すると朝廷は初平元年(190年)。長安に遷都しました。
初平2年(191年)3月5日。劉協は長安に到着。
ところが初平3年(192年)には董卓が呂布に暗殺され。王允が朝廷を仕切ろうとしましたが、宦官勢力の生き残り李傕や郭汜に長安が攻め落とされます。しかし李傕と郭汜も対立。
政権は不安定になり、国全体が混乱してしまいます。諸侯たちも自分の領土に戻りました。
劉協にとってこの期間はまさしく試練の日々であり、祖先から受け継がれた漢王朝の名声を守ることがどれほど難しいかを痛感した時期でした。
曹操との対立と協力
献帝は楊奉・韓暹らに守られて長安を脱出。洛陽に戻りました。
洛陽で劉協を保護したのは曹操でした。
曹操の援助で許昌に遷都。曹操は劉協を保護しながらもその権力を利用することで自身の地位を強化しようと考しました。
しかし曹操は劉協の馴染の者を排除、曹操の息のかかったものを皇帝のそばに起きました。曹操の意図に気づいた献帝 劉協は深い対立感を抱くようになります。
まさに曹操にとって献帝は「虎に翼」。実力者の曹操は献帝の権威を利用。献帝の名前で勅書を出し、曹操は自分の思い通りの政治を行います。
そこで献帝は曹操に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と言います。譲位するというのです。さすがに曹操もこれには驚いたようで、宮中に訪れる回数も減りました。
それでも曹操の影響力は日に増しています。
曹操暗殺事件
献帝は密かに曹操を排除しようと考えました。
建安5年(200年)正月。董太后の甥で車騎将軍の董承、偏将軍の王服・越騎校尉の种輯に密詔を出し曹操暗殺を命令。許昌に来ていた劉備も加わりました。
しかし計画は曹操に漏れて董承は殺害され、劉備は逃亡。
献帝は曹操の支配を我慢するしかありません。
伏皇后の廃位
伏皇后は横暴な曹操を排除したいと考えていましたが、なかなか実行に移せませんでした。
建安19年(214年)11月。伏皇后が一族とともに曹操を殺害しようとしたことが発覚。
怒った曹操は献帝に伏皇后の廃位を要求。曹操の部下たちが宮殿に押し入り伏皇后を連行しました。
このとき、
伏皇后が「陛下、また御一緒に過ごすことができるでしょうか」というと。
献帝も「私の命もいつまで保てるかわからない」と答えたと言います。
伏皇后は廃位され処刑されてしまいます。伏皇后の生んだ2人の子も殺害。数百人の伏一族も処刑されました。
その後、献帝の側室になっていた曹節が皇后になりました。曹節は曹操の娘です。
曹操は外戚としての地位を硬め、献帝には逆らう力も意思も残っていませんでした。
劉協の退位とその後の人生
曹丕への禅譲と魏の成立
建安25年(220年)。曹操が死去。子の曹丕があとをついで魏王になりました。
丞相となった曹丕は実権を握ると、その年の秋には献帝に退位を迫りました。
献帝には逆らう力は残されてなく、献帝は曹丕に帝位を譲ります。こうして後漢は滅亡しました。
曹丕は皇帝となって「魏(曹魏)」を建国。
その後、劉協が死んだと思った劉備も皇帝を名乗り「漢(蜀漢)」を建国。
中国は三国時代へと突入。魏・蜀・呉の三国が覇権を争う時代が始まりました。
隠遁生活と晩年の劉協
退位後、劉協は「山陽公」の称号が与えられ。その生活は非常に静かで隠遁的なものとなりました。
曹丕は形式上は劉協を尊重して一定の領地と生活の保障を与えましたが、実際には皇帝の権威は完全に失われました。
劉協はそうじた状況で余生を過ごすこととなり、政治からは離れた生活を送ることになります。
劉協の晩年は非常に孤独なものでした。
234年。劉協はこの世を去りました。
彼の死後、魏からは「孝献皇帝」、蜀漢からは「孝愍皇帝」の諡号が贈られ、その存在は歴史に刻まれることになったのです。
まとめ: 乱世に翻弄された皇帝の命運
歴史に残る劉協の評価と影響
献帝こと劉協は中国の歴史上でも特に波乱に満ちた時代に生きた皇帝といえます。皇帝としての彼の評価は決して高くはありませんが、その背景には董卓や曹操といった圧倒的な権力者たちに翻弄された姿が大きく影響しています。
劉協は董卓の専横や、曹操の傀儡として政治的に動かされる日々を送りました。後漢王朝最後の皇帝として歴史に名を残すことになりました。
そのため、劉協は後漢から三国志の時代へと続く重要な過渡期として認識されているのです。
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