秦王 趙廷美(ちょう・ていび)は宋(北宋)の皇族。
初代皇帝・趙匡胤(宋太祖)や、2代皇帝 趙光義(宋太宗)の弟です。
北宋の初期、皇位を巡る確執は兄弟間にも及びました。趙廷美はなぜ「謀反の疑い」で歴史の表舞台から消えたのでしょうか。
彼の生涯は、金匱の誓いや陰謀、そして兄弟間の微妙な力関係によって大きく左右されました。この記事では史実に基づいて趙廷美の人生を紹介します。
この記事で分かること
- 趙廷美が北宋初期に果たした政治的役割と地位
- 金匱の誓い」にまつわる真偽と影響
- 太宗・趙炅との関係や謀反疑惑の背景
- 趙廷美の死後に受けた評価やその後の変遷
秦王 趙廷美の史実
いつの時代の人?
- 姓 :趙(ちょう)
- 名称:廷美(ていび)
- 称号:秦王
- 国:宋(北宋)
- 生年月日:947年
- 没年月日:984年
- 父:趙弘殷(ちょう・こういん)
- 母:昭憲太后杜氏
太宗 趙光義の乳母陳国夫人耿氏の噂もあり。 - 兄:趙匡胤(宋太祖)、趙光義(宋太宗)など
- 妻:楚国夫人
- 子供:高密郡王趙德恭など
10男、4女
彼が生きたのは北宋の初代太祖~2代太宗の時代 です
日本では平安時代になります。
おいたち
趙廷美は947年に誕生。
父は趙弘殷
趙弘殷は五代十国時代の武将。後漢や後周に仕えました。
母は杜氏
宋太宗の乳母だった 陳国夫人耿氏が生母という説もあります。
趙廷美は趙弘殷の四男。
異母兄には後に宋を建国する趙匡胤がいます。趙匡胤は927年生まれなので20歳離れています。
父・趙弘殷は後周で禁軍(宮殿を守る軍隊)の司令を務めていました。
956年。趙廷美が8歳のとき父が死亡。その後は兄に育てられました。
960年。兄・趙匡胤が宋を建国。
このとき趙廷美は13歳。
魏王になり、張令鐸の娘と結婚しました。
開宝9年(976年)太祖・趙匡胤が死去。
趙匡胤の弟・趙光義が皇帝に即位しました。
太宗 趙炅の時代
趙光義は即位して趙炅に改名しました。太宗 趙炅の誕生です。ところが趙炅の即位は当時から「正統な即位なのか?」と思われていました。
その理由は。
- 太祖・趙匡胤には成人した息子二人がいたのに弟の趙光義が即位し。
- 危篤状態の太祖の寝室に趙光義が入った後、太祖の死去が伝えられた。
などの理由から「趙光義が太祖を殺害して皇位を奪ったのではないか」と疑いを持たれました。
「金匱の誓い」で立場が危うくなる
そこで太宗 趙炅は母の昭憲太后の遺言「金匱の誓い」を持ち出して即位を正当化しました。
金匱の誓いの内容は以下の通り。
「趙匡胤は弟の趙光義に譲り、趙光義は趙廷美に譲る」
ただしこの誓い本物かどうかは分かっていません。後世には「太宗や趙普が都合よく作った話ではないか」という見方もあります。
ここで大事なのは、
金匱の誓いがあったという話が広まるほど、趙廷美は次の皇帝候補の可能性が高まることです。
でも太宗 趙炅は自分の子に皇位を継承させたいと思ったようです。こうなると太宗 趙炅にとって趙廷美は目障りな弟になってしまいます。
秦王になる
太平興国4年(979年)。太宗 趙炅 は北漢に出兵。趙廷美は遠征軍に加わるのを希望しましたが、太宗 趙炅は趙廷美を留守京師(首都の防衛担当)にしました。
11月。「秦王」になりました。『宋史·本紀第六』
この時点ではまだ趙廷美は完全に排除されたわけではありません。
趙廷美が謀反の疑いで失脚するまで
不審な皇族の死が続く
太平興国年間。太宗の兄弟 趙徳昭 は自殺に追い込まれ。趙徳芳は謎の死をとげました。
趙徳芳の死から半年後。
側近たちが「謀反を企んでいる」と告げ口
太平興国6年(981年)9月。太宗の腹心の柴禹錫たちが「秦王 趙廷美は傲慢で謀反を企んでいます」と報告。このときは趙廷美が謀反を企んだという証拠はありません。
太宗が趙廷美を遠ざけるようと決心
太宗はすでに現役を退いていた元宰相の趙普(ちょう・ふ)を呼び出し「金匱の誓い」を引き合いに出してどうしたらいいか相談しました。
すると趙普は「既に太祖は過ちを犯しました、陛下まで過ちを犯すのですか」と返事。つまり兄から弟へ引き継がれるものではなく親から子へ引き継がれるのが正しいと言ったのです。
それを聞いて太宗は趙廷美の排除を決意しました。
都から追い出される
太平興国6年(981年)。金明池の水心殿が完成。その式典の場である者が太宗に「趙廷美は謀反を起こすつもりです」と報告。それを聞いた太宗は「もう我慢できない」と言って開封尹(都知事)を解任。西京(洛陽)留守に任命しました。そして金や絹などを与えて西京に送り出しました。
その後、趙廷美と交流のあった者たちが次々と逮捕されました。
趙廷美は都から遠ざけられました。趙廷美は左遷されたのが不満だったらしく、不満を漏らしていました。もともと言動はよくなかったのかもしれません。すると太宗に仕えるもの達から「言動が悪い」と非難されます。
さらに降格される
不安になった趙廷美は親しい者たちと連絡を取り合いました。でもそれは太宗の思うツボでした。趙廷美は兵部尚書の盧多遜と結託していたことがわかり、「涪陵県公」に降格。房州(湖北省房県)に流罪になりました。
趙廷美の最後
雍熙元年(984年)。流刑先の房州で趙廷美が死亡。享年37歳。
太宗は趙廷美に「涪王」の爵位を与えました。
死後の扱い:太宗の容赦ない仕打ち
太宗は趙廷美の死を悲しむ息子まで廃する
太宗の太子・趙元佐は趙廷美と親しかったといわれます。
趙元佐は叔父の趙廷美の死を知って泣き続け、精神が不安定になってしまいました。すると太宗は激怒。趙元佐を廃して庶人に落してしまったのです。
生母を別人に変えられてしまう
太宗は趙廷美の死後。宮廷の臣下たちにこう言いました。
「廷美は若いころから強情で、成長して凶悪な性格になった。でも 私は彼に親しみを感じていたので、彼を法で裁くのは忍びなかったのだ。反省してほしいと思っていたのに死んでしまうとは、なんとも痛ましい」と言いました。
太宗は廷美の死を悲しむ息子を罰しました。太宗が廷美の死をそんなに悲しんでいたとは思えません。
さらにこんな事も言いました。
「趙廷美の生母は私の乳母だった陳国夫人 耿氏なのだ。その後、耿氏は趙氏の者と結婚して趙廷俊を生んだのだ」と言いました。
宋の公式記録では趙廷美の生母は昭憲太后です。
でも太宗はわざわざ実の弟の生母は違うと言ったのです。これは昭憲太后杜氏の遺言「金匱の誓い(王位は弟に継がせよ)」を無効にするため。
太宗は自分の息子に皇帝の座を継がせるために次々に兄弟を粛清しました。趙廷美もその犠牲になり、生母まで違う人にされたのでした。
結局、趙廷美は“悪人”だったのか?
趙廷美の言動は粗暴だったのかもしれませんが。謀反を企んだかどうかはわかりません。
「金匱の誓い」そのものも趙光義と趙普の偽造と考える研究者もいます。趙光義が兄から皇帝の座を奪うため「金匱の誓い」をでっちあげ、自分が即位した後は弟たちを殺害した。と言われます。
趙廷美の死後。
真宗の時代に「秦王」の爵位が復活。
徽宗は「魏王」の爵位を与えました。
ドラマ『大宋宮詞』での描かれ方
大宋宮詞 2021年、中国 演:趙文瑄
ドラマ『大宋宮詞』では1~3話で登場。
皇位継承に不満を抱く立場で登場
- 太宗は息子に継がせたいが、秦王も後継者候補
朝廷内に「旧来のしきたりなら、弟・秦王が皇位を継ぐべき」という意見が話が残っているため、太宗(趙光義)は早い段階から彼を警戒しています。 - 秦王・趙廷美は「本来は自分が皇位を継ぐはずだった」と考えている様子がうかがえ、兄弟間の火種が存在しています。
謀反の計画と実行
- 2話あたりでは秦王府の宴席が描かれ「敵対勢力と密かに接触しているのでは?」と感じさせる描写が多くなります。
- 実際に盧多遜らと接触しており、太宗はますます警戒心を強めていきます。
- 4話:クーデター未遂
宮中の宴に秦王の配下が舞姫に扮して潜入、刃物を抜いて太宗の殺害を試みます。
太宗自らによる裁き
謀反が未遂に終わったあと秦王は逮捕。
牢の中で太宗と兄弟の最後の対話があり、太宗は自ら弟を殺害しました。
史実では遠方に左遷でしたが、ドラマでははっきりと謀反人として描いているのが大きな違いです。

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