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安徳王 高延宗 は実在?北斉を支え皇帝を名乗った皇族の最後とは

安徳王 高延宗は蘭陵王の弟です。

ドラマ『蘭陵王』をきっかけに安徳王に興味を持った方も多いのではないでしょうか。劇中ではお調子者ですが兄を慕う魅力的なキャラクターとして描かれていました。

安徳王 高延宗は実在の人物で北斉の滅亡に立ち会い最後まで戦い抜いた武人でもありました。

この記事では蘭梁王亡きあと、北斉を支えた史実の安徳王について紹介します。

 

この記事で分かること

  • 安徳王・高延宗の出自と、叔父・文宣帝から受けた溺愛
  • 若年期に問題視された行動と改心するまでの経緯
  • 兄・蘭陵王 高長恭との絆を現すの逸話
  • 北斉滅亡期に皇帝を名乗り責任を背負った理由と結末

 

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安徳王 高延宗の史実

  • 姓:高(こう)
  • 名:延宗(えんそう)
  • 称号:安徳王
  • 生年月日:544年
  • 没年月日:577年
  • 享年:34(数え歳)

 

文襄帝 高澄の第五子

高延宗は北斉の実質的な建国者である高澄の五男として生まれました。蘭陵王(高長恭)とは異母兄弟になります。

 

母親について

彼の母親は陳氏。陳氏は北魏の皇族・広陽王に仕えていた妓生(歌舞音曲で宴席を盛り上げる女性)でした。

高延宗の父・高澄が広陽王の家を訪れたときに彼女を見初めて側室にし。高延宗が産まれたと言われています。

文宣帝 高洋による養育

高延宗は、父である高澄が若くして亡くなったため、叔父にあたる初代皇帝・文宣帝 高洋に育てられました。

文宣帝は高延宗を自分の子のように可愛がりました。高延宗が12歳になるまで、文宣帝は彼を自分の手元に置き深い愛情を注いで育てました。

安徳王の家系図

北斉家系図

北斉家系図

 

驚きの溺愛エピソード

文宣帝は、幼い高延宗を自分の腹の上に乗せて遊ばせたり、時には高延宗の「おへそ」に尿をかけさせたりして楽しんでいた。

という、破天荒な記録が残っています。冗談がすぎるようにも思えますが、それだけ文宣帝が彼を甘やかしていたということでしょう。

皇帝に甘やかされて育った高延宗は、やりたい放題な振る舞いをするようになり。良くも悪くも物怖じしない性格に育ちます。

 

若年期の人物像:定州刺史時代の問題行動

成長して役職を与えられ、部下を持つようになった高延宗ですが。若いころの彼は、当時のエリート層からすれば眉をひそめたくなるような問題児でした。

「高貴な身分」を忘れた悪ふざけ

特に定州刺史として赴任していた時期には次のような悪ふざけが記録されています。

  • 楼の上からの狼藉:高い楼の上から排泄し、下にいる人に口で受け止めさせる。
  • 排泄物を使った嫌がらせ:蒸し料理に糞便を混ぜて部下に食べさせる。
  • 容赦ない暴力:自分の遊びに付き合わない者を鞭打ちに処す。
  • 自ら行う試刀:囚人を使い自ら刀の切れ味を試す。

なぜこれほど問題視されたのか?

ここで重要なのは「残酷だから」という理由だけで非難されたのではないという点です。

例えば罪人を使った「試し斬り」自体は戦乱の世では珍しいことではありません。しかしそうした汚れ仕事は下の者がやるべきこと。皇族という高貴な立場の人間が自ら進んで行うのは「あまりに下賤で品格がない」と見なされたのです。

糞尿を使った悪ふざけについても、ルーツである北方民族の古い習慣(排泄物を薬や儀式に使う文化)の名残とも考えられますが、漢化(中国風の洗練された文化を取り入れること)を進めていた当時の皇族としては絶対にあってはならない「野蛮で程度の低い振る舞い」でした。

 

処罰と改心:孝昭帝・武成帝の介入

高延宗のあまりのひどい行いに皇帝たちも黙ってはいられませんでした。

孝昭帝は高延宗を教育し直すために杖刑(杖打ち)にしました。

武成帝の行いについては諸説あり。『北斉書』では武成帝が直接彼を厳しく諫めたとありますが。『北史』では、高延宗と一緒に悪さをしていた彼の側近を見せしめとして処刑したと書かれています。

身近な者が命を落とすという現実に高延宗もようやく事の重大さを思い知り、ようやく改心したのでした。

 

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蘭陵王との関係が見える逸話

高延宗と蘭陵王 高長恭にはいくつかのエピソードがあります。彼がどれほど兄を特別な存在として見ていたかを物語っています。

 1. 芒山の戦い:兄にさらなる高みを求める

北斉が北周を打ち破った有名な芒山(ぼうぜん)の戦いの後、勝利に沸く兄弟たちの間でこんなやり取りがありました。

兄の蘭陵王 高長恭が「北周の軍勢は恐るるに足りず」と戦況を語ると、他の兄弟たちは高長恭の武勇を称えました。でも高延宗だけは違いました。「なぜ勝ちに乗じてそのまま敵を押し切らなかったのですか!」とむしろ兄の詰めの甘さを責めたのです。

これは兄を批判した訳では無いでしょう。高延宗にとって、兄・蘭陵王は「勝って当然、さらに大きな勝利を掴めるはずの英雄」だからこそ、中途半端な勝利に満足できなかったのではないでしょうか。

 

2. 蘭陵王の死後:遺された妻への配慮

蘭陵王が非業の死を遂げた後、妻の鄭氏は夫の菩提を弔うために大切な首飾りの珠を仏に捧げようとしました。

これを見た親族の広寧王は「生活が困窮するのでは」と心配し、珠を買い戻して彼女に返そうとします。

でも高延宗は広寧王へ手紙を送りその行動を止めさせました。

「彼女は夫への愛ゆえに捧げようとしているのだから、その思いを尊重すべきだ」と説得したのです。

その手紙は高延宗自身の涙で濡れていたと伝えられています。兄の供養を誰よりも大切に思っていたからこそ、遺された妻の愛を邪魔させたくなかったのでしょう。

 

3. 草人形の復讐:兄を殺した体制への怒り

『北斉書』には彼の激しい情熱を示す少し不気味で切ない逸話が残っています。

蘭陵王を死に追いやった皇帝 高緯への怒りが収まらなかった高延宗は、皇帝に似せた草人形を作り激しく鞭で打って「なぜ兄を殺したのだ!」と問い詰め続けたといいます。

しかしこの行いは皇帝に知られてしまいます。皇帝は馬鞭で高延宗を200回打ち、高延宗は死にそうになるほどの怪我を負います。

皇帝 高延宗に知られても命があっただけ高延宗がそこまでして激しく怒ったのは、兄のことを大切に思っていたとしか考えられません。

しかし高延宗はその後、司徒、太尉という重要な軍の要職を歴任。高緯も高延宗を外すことはできなかったのです。

 

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北斉滅亡局面:晋陽で帝を称した理由

皇帝 高緯の時代。数々の失態により北斉の勢力は衰えてゆき。北周の軍勢が迫っていました。

晋陽防衛戦

皇帝 高緯は自ら大軍を率いて平陽での戦いに挑みました。両軍は激しく戦い、高延宗は数度の突撃を行います。北周軍に高延宗を止められる者はいません。しかし北斉の他の部隊は敗退。北周軍と対等に戦えるのは高延宗の部隊だけになっていました。

すると皇帝 高緯は怯えて晋陽に戻ろうとします。高延宗はこのまま踏みとどまるよう進言しましたが。高緯は并州の晋陽まで撤退します。

 

逃げ出す皇帝と、残された延宗

ところが周軍が迫っていると聞くと皇帝 高緯は「并州は兄上が取れ、私は去る」と言うと高延宗を相国(宰相)・并州刺史に任命。山西一帯の防衛を任せ自分は晋陽を捨てて逃げようとします。

高延宗は止めようとしましたが、臣下の駱提婆が「陛下は決断されたのです。王が妨げてはなりません」と高延宗を遮ります。

高延宗は涙を流して命令を受け入れると高緯は都の鄴へ逃走しました。なお駱提婆はこのあと高緯を見捨てて北周に寝返りました。

 

皇帝になってほしいという兵士の声

皇帝に見捨てられ晋陽の将兵たちは高延宗にこう言いました。「王が天子にならないのであれば、私たちは命を懸けて戦うことはできません」と、彼を皇帝に担ぎ上げることにしたのです。

 

わずか数日の皇帝即位

覚悟を決めた高延宗はついに帝位に就くことを受け入れました。彼は年号を徳昌と改め、ここに「安徳王」ではなく「皇帝・高延宗」が誕生しました。

即位した彼は国の倉庫を開けて金銀財宝をすべて兵士たちに分配し、後宮に残された宝飾品や美女たちまでも分け与え、絶望していた兵士たちの士気を一気に高めました。

 

晋陽攻防戦:勝利寸前

「皇帝」高延宗率いる斉軍と北周の皇帝・武帝が率いる大軍は晋陽の北門で激突しました。

高延宗は自ら大矛を振るい、先頭に立って敵軍の中に斬り込みました。皇帝自らが命を懸けて戦う姿に士気が極限まで高まった斉軍は、圧倒的な数で押し寄せる北周軍を次々と撃破していきます。

その勢いは凄まじく、敵の総大将である周武帝 宇文邕の周囲まで迫り。武帝が命の危険を感じて撤退するほどの窮地に追い込んだのです。

油断から軍の規律が乱れる

北周軍は撤退しました。しかしここで斉軍に致命的な油断が生まれます。死力を尽くして戦い、敵を退けた喜びと安堵から将兵たちは酒を飲み、寝込んでしまいました。勝利に酔いしれた彼らの軍紀と統制は一気に崩壊し、高延宗は彼らを止めることはできませんでした。

北周の再攻撃で捕らえられる

北周 武帝 宇文邕は撤退を考えましたが。斉王 宇文憲と柱国 王誼が再度の攻撃を進言。武帝 宇文邕は軍を立て直すと明けに再攻撃を仕掛けます。

泥酔して眠りこけていた斉軍はまともな抵抗ができず、戦況は混乱状態に陥りました。

高延宗は抵抗を試みますが最後は力尽きて北周軍によって捕らえられてしまいます。

 

捕縛後:周武帝との応対と鄴攻略の助言

北周に捕らえられた高延宗は、周武帝 宇文邕の前に連行されました。

「死人の手」が語る覚悟

周武帝は馬を下りて高延宗のもとへ歩み寄ると、その手を取ろうとしました。しかし高延宗はそれを拒みます。 彼は自分をすでに死んだも同然の存在と定め、

「死人の手が、どうして至尊(皇帝)に触れられましょうか」 と述べて辞退したのです。

武帝 宇文邕 は怒るどころか彼の態度を尊重しました。「戦は民のためであり、あなた個人に恨みはない。命を奪うつもりもない」と伝え彼を捕虜としてではなく、一国の皇族として手厚くもてなしました。

鄴攻略への沈黙と助言

その後、高延宗は長安へ送られますが、周武帝から「北斉の都・鄴をどう攻めるべきか」と問いかけられました。

最初、彼は答えを拒否します。しかし重ねて問われた末に、彼は次のように言いました。

  • 任城王・高湝が救援に来る場合は北周といえども攻略は一筋縄ではいかない。
  • 皇帝・高緯が自ら守る場合は鄴を簡単に手中に収めることができるだろう。

彼は部隊の配置や城壁の弱点といった軍事的な情報は言いません。言ったのはもはや隠しようのない身内の内情です。その言葉の裏には自国の腐敗への皮肉と、それでも高湝のような有能な一族が残っているという、わずかばかりの自負が透けて見えるようです。

しかし現実は更に酷い有様で。高緯は8歳の高恒に譲位すると都を捨てて逃走。鄴は北周に占領され、高緯も捕らえられました。ここに北斉は滅亡。北斉の皇族は北周の都・長安に移されました。

 

北斉皇族の受けた屈辱

長安へと連行された高延宗を待っていたのは、戦場よりも残酷な屈辱でした。

北周の武帝・宇文邕は北斉の皇族や臣下と招いて酒宴を催し、高緯に舞を踊るよう命じたのです。

一国の主であった者が敵の前で舞わされる。その無惨な光景に延宗は込み上げる悲しみを抑えることができず、毒を仰いで自害しようと何度も試みます。しかし侍女が必死に彼を止めたのでした。

 

高延宗の最後

穆提婆の謀反に連座

その後、北斉から降伏して北周の臣下になっていた穆提婆(ぼくていば)が謀反を計画。この計画は阻止されましたが、武帝 宇文邕は高緯や延宗ら北斉の皇族もその反乱に関わったとして死罪を命じました。

多くの者が「そのような事実はない」と必死に無実を訴えましが、延宗だけは違いました。彼は言い訳を並べる代わりに、袖をまくり上げ、ただ激しく涙を流しながら沈黙を守ったのです。

悲劇的な幕切れ

処刑の際、彼らは口の中に「椒(はじかみ)」を詰め込まれ、声を出すことさえ許されずに絶命しました。かつて北斉の勇将として名を馳せ敵軍を震え上がらせた安徳王の最期としては、あまりに凄惨なものでした。

延宗の死後、翌年になってようやく、妃の李氏がその遺体を引き取り、葬儀を執り行いました。

 

高延宗という男の生涯を振り返ると、北斉という国がいかにして崩壊したか、そしてその中で抗おうとした個人の意志がいかに翻弄されたかがよくわかります。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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