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樗里疾の生涯・秦の三人の王を支えた戦う知恵袋

春秋戦国時代 8 春秋戦国

樗里疾(ちょり・しつ)は古代中国の秦の王族。

本名は 嬴疾(えい・しつ)

樗里という場所に屋敷があったので樗里疾(ちょりしつ)とか樗里子(ちょりし)と呼ばれます。

頭がよく弁舌も上手だったので秦の人々は樗里疾を「知袋」と言いました。「力は任鄙、智は樗里」といわれたともいいます。

樗里疾は軍団を率いて戦うことも多かったので武将としての活躍も目立ちます。

恵文王の弟で、武王・恵文王の時代になっても王室の重鎮として大きな存在感をもちました。

史実の樗里疾はどんな人物だったのか紹介します。

 

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樗里疾の史実

樗里疾のプロフィール

姓 :嬴
名称:疾

国:秦
地位:将軍・丞相

生年月日:不明
没年月日:紀元前300年

日本では弥生時代になります。

 

家族

父:孝公 ・嬴渠梁(えい・きょりょう)
母:不明・韓の国出身
異母兄:恵文王

 

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樗里疾の生涯

樗里疾が生まれた年は不明。

父は秦の君主・孝公 嬴渠梁(えい きょりょう)
母は孝公の側室。名前は不明ですが韓の国出身です。

彼は恵文王の異母弟。

恵文王の時代・戦場で功績をあげる

五カ国連合軍を撃退

紀元前318年。
楚・韓・趙・魏・燕が連合して秦に攻めてきました。

樗里疾は軍を率いて函谷関の戦いで公孫衍率いる五カ国連合軍を撃退。8万あまりの敵兵の首をとり、敵の諸侯に衝撃を与えました。

その後、樗里疾は右更に任命されます。

紀元前314年。
魏の曲沃(山西省臨汾盆地南端)と焦邑を攻め、曲沃の住民を魏に追放して秦の領土にしました。

その後、韓軍を攻め岸門で撃破。敵兵8万の首をとりました。

楚に勝って、秦と楚の勢力を逆転させる

紀元前313年。
元帥に任命されて趙を攻めました。趙の将軍・荘豹を捕え藺邑を占領しました。

紀元前312年。
楚が秦に攻め込んで来たときには、魏章を支援しました。

樗里疾は楚の武将たちが協力できないように妨害工作。丹陽で楚軍を迎え撃ちました。この戦いで敵将70あまりを捕虜にして敵兵8万あまりを打ち取ります。

楚の楚懷王を撃破

その後、秦軍は楚の漢中を攻めて占領しました。

敗北に我慢できない楚懷王は全軍を率いて秦を攻撃樗里疾は秦軍を率いて咸陽近くの藍田の戦いで楚軍を撃破しました。

楚が秦に敗れたのを知った韓と魏は楚に攻め込みました。楚懷王は秦と和平するしかなくなり2つの街を秦に渡して撤退しました。

この戦いは秦と楚の力関係が逆転するきっかけになりました。

樗里疾は戦いの功労者として恵文王から厳県を与えられ。厳君と呼ばれるようになります。

魏の援軍になって斉・宋に勝利

同年。恵文王は斉・宋の連合軍に侵攻されていた魏の救援要請を受けて援軍を派遣。

樗里疾は恵文王の命で到満と共に魏・韓と連合して斉・宋の連合軍と戦いました。この戦いに勝利して斉将の匡章を敗走させ副将の田声を討死(あるいは捕虜)させました。

紀元前311年。
恵文王が死去。太子の蕩が秦武王になりました。

武王の時代・丞相になる

甘茂との対立

紀元前309年。
樗里疾右丞相に任命されました。甘茂が左丞相になります。

このとき秦で初めて「丞相」の官名が使われました。

紀元前307年。
武王は甘茂に韓の宜陽を攻めさせました。

このとき甘茂は作戦を邪魔されないように武王に樗里疾と公孫奭が批判をしても聞かないように約束してもらいます。

甘茂は「韓に肩入れする樗里疾と公孫奭が作戦に反対したら武王は樗里疾たちの言うことを受け入れてしまうだろう」と心配していたのです。

樗里疾と公孫奭の母は韓出身。

 

ところが甘茂は5カ月経っても宜陽を落とせません。

すると樗里疾と公孫奭は甘茂を批判しました。武王は甘茂を呼び戻そうとします。

すると甘茂は王との約束を持ち出し、武王は思い直して全軍を動員して甘茂を援護させました。甘茂は宜陽を攻め落としました。

周に使者として向かう

あるとき、樗里疾は武王の命令で戦車100台を率いて周に向かいました。は樗里疾の周囲に護衛をつけて丁重に迎え入れます。

楚の懐王は周が秦を丁重に迎え入れるのが面白くありません。

一番伝統のある周は諸国の盟主的存在。周王の力は衰えても権威はありました。

でも家臣の游騰が「秦は虎狼のような貪欲な国です。周は秦を警戒しているのです。あれはもてなしているのではありません、樗里疾の動きを封じ込めているのです」といって楚懐王をなだめました。

それを聞いて楚懐王は機嫌を直しました。

昭襄王の時代・最後の戦い

紀元前307年。
武王が急死。昭襄王が即位。

秦では昭襄王の即位に反対する人が多かったのですが。樗里疾は賛成

昭襄王は少年時代、燕の人質になっていました。趙の介入で即位した経緯があります。

昭襄王の即位に協力した樗里疾は昭襄王の時代になるとますます頼りにされました。

紀元前306年。
衛の蒲を攻撃。蒲の衛軍は秦軍を恐れ、胡衍をとおして和平を持ちかけてきました。胡衍の説得で樗里疾は包囲を解きました。

蒲の包囲を解いた後、魏の皮下を攻めました。ところが魏の将軍・翟章の反撃にあって撤退。

紀元前300年。
死去。

渭水の南、章台の東に葬らました。

 

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樗里疾の予言

樗里疾の遺言に「100年後。私の墓に、天子の宮殿が来る」とあります。

100年後。の時代になって長楽宮と未央宮ができました。

地形の特徴を読んで吉凶を占う風水師としても有名になっていたともいいます。

知恵者として知られますが、本人も軍を率いて戦うことがあり、いくつもの手柄を立てています。

一方では、いくつかの逸話で引き立て役になってることもあります。

それだけ存在が知られていたということなのでしょう。

 

ドラマ

ミーユエ 2015年、中国 演:宋佳倫
昭王・大秦帝国の夜明け 2017年、中国 演:周波

 

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