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平原君・趙勝|趙王を支え、秦に対抗した戦国四君のひとり

春秋戦国時代 8 春秋戦国

平原君・趙勝は古代中国春秋戦国時代の人物。趙の王族です。

春秋戦国時代の有名な政治家の一人。多くの逸話が伝わっています。

兄・恵文王や甥の孝成王を補佐しました。

斉の孟嘗君・田文、魏の信陵君・魏無忌、楚の春申君・黄歇とともに戦国四君と呼ばれます。戦国四君が健在な間は秦もなかなか勢力を拡大できませんでした。

史実の平原君はどんな人物だったのか紹介します。

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平原君の史実

プロフィール

名称:趙勝(ちょう しょう)
称号:平原君(へいげんくん)生年月日:不明
没年月日:紀元前251年

日本では弥生時代になります。

 

家族

父:武霊王
母:不明兄:恵文王

 

おいたち

紀元前298年(惠文王元年)。兄・恵文王が即位。平原君は相国(宰相)になりました。

その後も生涯の間に解任と任命を何度も繰り返し3度解任され3度宰相になりました。

あるとき趙奢(ちょう しゃ)という税を集める役人がいました。趙奢は相手が王族でも容赦しませんでした。平原君の領地を治めている代官が税を国に治めめるのを拒否。すると趙奢は法律通りその9人を処刑しました。平原君は怒りましたが趙奢に理路整然と反論され、趙奢の勇気と有能さに感心しました。

平原君は趙奢を恵文王に紹介。趙奢はその後、将軍になり秦の攻撃を撃退するなど活躍しました。

紀元前265年。恵文王が死去。甥の孝成王が即位しました。

あるとき、魏の宰相・魏斉が平原君に助けを求めてきました。魏斉は秦の宰相・范雎から命を狙われていました。そこで平原君は魏斉を匿いました。

秦の昭襄王は、平原君を秦に呼び出し魏斉を渡すように言いました。平原君は拒否したので幽閉されました。

かわりに昭襄王は趙の孝成王を脅しました。孝成王は魏斉を差し出そうと平原君の屋敷を捜索しましたが、宰相の虞卿が魏斉を救い出しました。魏斉は魏に脱出後、楚に亡命しようとしました。ところが魏に拒否されてしまいます。絶望した魏斉は自害。魏斉の首が秦に届けられたため、平原君は釈放されました。

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趙の宰相としての平原君

長平の戦い

紀元前262年。韓は秦に攻められ領土の一部を奪われました。韓の上党郡が孤立してしまったので、韓は上党郡を秦に譲り渡すと約束しました。ところが上党郡の人々は秦の者になるのを拒否。趙の領土になるかわりに趙に助けを求めてきました。

孝成王は宰相の平原君と平陽君に相談しました。弟の平陽君は「秦と戦争になるのでやめたほうがいい」と言いました。平原君は「領地が得られるのだから国の利益になる」と賛成しました。

孝成王は上党郡に平原君を派遣。平原君は趙軍を率いて上党郡に行きました。

秦の昭襄王は怒って上党郡に攻めてきました。上党郡の人々は趙に避難しました。上党郡は秦に占領され、秦軍は趙の長平まで攻め込まれました。孝成王は廉頗を総大将にして軍を派遣。廉頗はまともに戦うと趙軍の被害が大きくなるので守備に専念。持久戦にもちこんで秦の兵たちの疲労を待ちました。

紀元前260年。持久戦になって2年。焦った秦は嘘の情報を流しました。嘘の情報を信じた孝成王は廉頗を解任して趙括を総司令にしました。趙括の指揮で戦った趙軍は大敗。多くの将兵を失いました。

平原君の意見で秦との戦争になったので平原君の判断を批判する歴史家もいます。その一方で、趙軍が大敗した直接の原因は廉頗を解任して趙括に指揮を任せたこと。孝成王の判断ミスに原因があるという歴史家もいます。

しかし勝った秦も疲弊しているのですぐには攻めてきませんでした。

秦の包囲から邯鄲を救う

紀元前259年。秦は趙の都・邯鄲を包囲しました。困った孝成王は楚に援軍をもとめるため平原君を派遣しました。平原君は楚の考烈王と会見しました。しかし考烈王は趙との同名になかなか賛成しません。そこで趙からつれてきた食客の一人・毛遂に交渉させました。毛遂は考烈王の説得に成功しました。

同じ頃。平原君は魏に部下を派遣して魏にも援軍を派遣するように求めました。このとき魏の信陵君の助けを得て魏王を説得できました。平原君の妻は信陵君の姉妹だったこともあり協力を取り付けることができたのです。

平原君が都の邯鄲に戻ってみると邯鄲は攻撃されていました。平原君は部下の李談の意見を聞いて私財をなげうち食料を軍に届け兵士たちに配りました。死を覚悟して戦う3000人の兵士を集めました。

李談はそれらの兵たちを率いて秦軍に突撃。秦軍は後方に下がらざるを得なくなりました。李談は戦死しましたが、そこに魏と楚の援軍が到着。趙・魏・楚の連合軍は秦軍を撃退しました。この戦いのあと、李談の父に爵位を与えて功績に報いました。

この戦いは秦にとっては大きな敗北でした。秦の天下統一が30年遅れたといわれます。この勝利で趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君の三君の名声が高まりました。

紀元前251年(趙孝成王15年)。平原君が死去しました。

食客三千人

平原君は有能な人を多く雇っていました。個人の能力をもって雇われている人を食客といいます。平原君は食客3千人と歴史書に書かれています。中国の書物は誇大表現が多いのでそのままでは信用できませんが。三千は「非常に多い」という意味と考えればいいでしょう。当時としても大勢の食客を雇っていたのは確かなようです。

有能な食客をもっていた平原君は様々な場面で食客を使い趙の政治や外交を助けました。

 

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まとめ

平原君は戦国四君の一人、政治手腕と人徳は後世に語り継がれています。趙の宰相として数々の危機を乗り越え、趙国の繁栄に貢献しました。しかし長平の戦いでの趙の敗北は、平原君の判断ミスと捉えられ、歴史的な評価は複雑です。

しかし平原君の死後もその名声は人々の心に深く刻まれ続け、戦国四公子の一人として語り継がれています。

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