荘襄王(そうじょうおう)は中国春秋戦国時代の秦の国王。
本名は嬴異人(えい いじん)。嬴子楚(えい しそ)ともいいます。
始皇帝の父親です。ところが嬴異人は若い頃は敵国に人質に出され苦しい生活をしていました。商人の呂不韋と出会いが彼の運命を変えます。
呂不韋の強力で秦の太子(王位後継者)になり、やがて秦の王になります。
史実の荘襄王はどんな人物だったのか紹介します。
荘襄王の史実
プロフィール
名:異人 (いじん)→ 子楚(しそ)
称号:荘襄王(そうじょうおう)、太上皇(追尊)
国:秦
生年月日:紀元前281年
没年月日:紀元前247年7月6日
在位:紀元前250年11月14日~前247年7月6日
嬴異人は秦の国王
日本では弥生時代になります。
家族
母:夏姫
正室:趙姫
子供:嬴政(始皇帝)
おいたち
紀元前281年。秦の国で生まれました。
父は秦の太子(王位後継者)安国君(あんこくくん、後の孝文王)。
母は夏姫(かき)。
夏姫の本名や出身地はわかっていません。家柄はよくありません。安国君の妾になりましたが、異人を生んだあとに寵愛を失います。
安国君には20人の息子がいました。その中でも異人は低く見られていました。
当時の秦は趙と戦争していました。秦が人質を出すことになり、送られたのが異人です。
趙の首都・邯鄲で人質生活
人質になった異人は趙の首都・邯鄲(かんたん)に送られました。人質とはいっても王族ならそれなりの待遇で迎えられるものです。
ところが秦は国境を超えて趙と戦っていました。秦の人間に対する趙の人たちの感情はよくありません。趙の人たちは異人につらくあたり、衣服も粗末なものしか与えられませんでした。監視付きの生活をしていました。
そんな苦しい生活をしている異人に目をつけたのが商人の呂不韋(りょふい)です。呂不韋は異人に投資して秦の王にすれば出世できると考えたのです。
呂不韋は異人に資金援助しました。呂不韋の助言で異人はきれいな服装をして趙の社交界で人々と交流を深めました。
王位後継者の養子になる
その一方で、呂不韋は異人を太子にするため秦の国に行って裏工作をしていました。その結果、異人は華陽夫人の養子になりました。華陽夫人は安国君の寵愛を集める側室でしたが息子がいません。そこで賄賂を送って異人を養子にするように勧めたのです。
異人は子楚(しそ)と名前を変えました。華陽夫人が楚の国出身だったのでその子供という意味です。
嬴政(のちの始皇帝)の誕生
そのころ。呂不韋は趙姫(ちょうき)という舞姫をかこっていました。酒の席で趙姫を見た子楚はその可愛らしさに気に入ってしまいます。子楚は呂不韋に趙姫を妻にしたいと頼みました。このとき子楚は趙姫が呂不韋の妾だとは知りませんでした。
呂不韋は内心では怒りましたが、すでに財産の多くを子楚のために使っています。いまさらあとに引き返せません。子楚を失いたくない呂不韋は、趙姫と子楚の仲をとりもちました。
子楚は趙姫と結婚しました
紀元前259年。趙姫に男子が生まれました。正月に生まれたので「正」と名付けました(後に「政」と書くことが多くなります)。後の始皇帝です。
ところがこのころ趙と秦は大きな戦をしていました。趙で暮らす子楚一家にも危機が迫ります。
趙の国から脱出
紀元前258年。ついに秦は趙の首都・邯鄲を包囲しました。秦の国王・昭襄王(子楚の祖父)は孫が人質になっていてもおかまいなしに趙を攻めました。
首都を包囲された趙の人々は人質にしていた子楚を処刑しようとしました。危機を感じた呂不韋は監視している役人に賄賂を送り子楚を邯鄲の外に出して秦の陣地まで逃しました。
趙姫と政は逃がすのが間に合わなかったので呂不韋の知り合いの富豪の家(趙姫の実家という説もあります)にかくまってもらいました。
子楚は秦に戻りました。
紀元前252年。昭襄王が死去。安国君が即位しました。孝文王の誕生です。子楚は太子になりました。
子楚は趙にいた趙姫と政を秦に呼び寄せました。趙の孝成王は人質になっていた子楚が秦の王になったので驚きます。
すでにこのとき趙は秦には逆らえなくなっていました。趙姫と政は秦に無事送り届けられました。
秦の国王になる
紀元前250年。孝文王が死去。子楚が即位しました。荘襄王(そうじょうおう)の誕生です。
養母の華陽夫人が華陽太后。実母の夏姫が夏太后、趙姫が妃、政が太子になりました。
荘襄王は約束通り呂不韋を宰相としてとりたてます。
荘襄王は、祖父・昭襄王や父・孝文王の意志を引き継ぎました。重臣たちも多くが前の時代からいた人たちです。
荘襄王は魏・韓・趙との戦いを続け、東周を滅ぼして領土にしました。しかし東周の王族は生かしました。
河外の戦い
紀元前247年。秦に領土を奪われた魏が趙・韓・楚・燕と同盟して秦に攻めてきました。信陵君が率いる連合軍に秦は勝てません。函谷関まで追い詰められます。
荘襄王は信陵君がいるかぎり勝てないと考えます。そこで信陵君が王位を狙っていると嘘の噂を流しました。
もともと信陵君と仲のよくなかった安釐王は噂を信じて左遷しました。
こうして秦は助かりましたが紀元前247年5月。荘襄王は病で亡くなります。享年35。在位期間はわずか3年でした。
その後は太子の政が王位を引き継ぎました。そして政は中国を統一。始皇帝と名乗ります。
そして荘襄王には「太上皇」の称号が贈られました。
まとめ
荘襄王は若いころは趙で人質生活を送り、呂不韋の助けを借りて秦に帰国。太子・安国君の後継者となりました。その後、父の後をついで秦王となりました。短い在位期間でしたが魏・韓・趙との戦いを続け、秦の領土拡大に貢献しました。しかし、在位3年で病死。その志は息子の嬴政(始皇帝)に引き継がれました。
荘襄王は祖父や父の残した秦を守ってその路線を受け継ぎ、結果的に始皇帝へ王位をつなぐ役割を果たしました。王として活動した期間は短いですが秦にとっても重要な人物と言えます。
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