ドラマ「溥儀の料理番~紫禁城 最後の日々~」に登場する端康太妃は実在した人物です。
モデルは光緒帝の妃だった他塔喇氏。光緒帝在位中は「瑾妃」と呼ばれ、その後は端康皇貴太妃となりました。さらに死後は「温靖皇貴妃」の称号を贈られています。
『溥儀の料理番』で永和宮に暮らし溥儀にも意見を言う端康太妃は、実在の人物をもとに描かれています。
この記事では、最初にドラマ「溥儀の料理番」の端康太妃について紹介し、そのあとで実在した温靖皇貴妃・瑾妃の生涯を見ていきます。
この記事で分かること
- 端康太妃のモデルになった実在人物・瑾妃とは誰なのか
- 端康太妃と溥儀、婉容との史実上の関係
- 容児や薬をめぐる事件は史実なのか
- 瑾妃が永和宮で過ごした生涯と1924年の最期
「溥儀の料理番」の端康太妃は実在する?
ドラマ『溥儀の料理番』に登場する端康太妃(たんこうたいき)は実在した人物。
清の光緒帝(こうしょてい)の妃だった他塔喇(タタラ)氏です。光緒帝の時代には瑾妃(きんひ)と呼ばれていました。
瑾妃は光緒帝が亡くなった後も紫禁城に残り続けました。宣統帝(せんとうてい)溥儀の時代になると、先帝の妃として溥儀にとって母の世代にあたる立場になります。
その後、清朝が滅亡した後の1913年に「端康」という徽号(尊号)を受けました。そのため、ドラマの舞台となっている1920年代には「端康皇貴太妃(たんこうこうきたいき)」、あるいは「端康太妃」と呼ばれていたようです。
また、ドラマの中で端康太妃が暮らしている「永和宮」も、史実の瑾妃が長年暮らした宮殿そのものです。単に名前だけを借りたキャラクターではなく、実在した瑾妃の経歴や居所をしっかり取り入れて描かれているのですね。
ドラマ「溥儀の料理番」の端康太妃
端康太妃を演じるのは曾黎
ドラマ『溥儀の料理番』で端康太妃(たんこうたいき)を演じているのは、女優の曾黎(ズン・リー)さんです。
作中での端康太妃は、清朝が滅亡したあとも紫禁城の永和宮で暮らし続ける先帝の妃として登場します。
溥儀や皇后の婉容、主人公の宮女・容児(ようじ)たちよりも一世代上の人物にあたります。光緒帝の妃だったため、親代わりとなり旧皇室のしきたりをよく知る女性として、溥儀にも遠慮なく意見を言える立場にありました。
ドラマ序盤では紫禁城の外へ抜け出そうとする若い溥儀を端康太妃が引き留めました。皇帝の座を失った溥儀は早く城外へ出たいと考えていましたが、端康太妃は「しばらく我慢するように」と諭します。
長年この紫禁城で生きてきた端康太妃と若い溥儀とでは、宮中での暮らしに対する考え方にも大きな違いがあったのかもしれません。
容児と端康太妃
ドラマ後半には端康太妃と容児の関係が少しずつ深まっていきます。
第27話では栄恵太妃と容児が永和宮へ薬膏を届ける場面がありました。このとき端康太妃は容児が以前の家宴にいた宮女だと思い出します。そこから容児のことをすっかり気に入って自分のそばに置いて話し相手にするようになりました。
端康太妃の死が事件になる
ドラマでは27話で端康太妃が亡くなってしまいます。
もともと体調を崩していた端康太妃ですが容児たちが届けた薬を使っていたため、「その薬が原因で亡くなったのではないか」という疑いが持ち上がりました。
さらに、裕得福が薬の残りをこっそりすり替え容児に疑いが向くよう罠を仕掛けます。その後の調査で容児が作った「十全大補膏」に使われた黄芩(おうごん)の量が問題視されました。本来は「一銭」と書かれるべき処方が、「十銭」に書き換えられていたことが判明したのです。
この改ざんのせいで容児は誤った薬を作って太妃を死なせた犯人だと疑われることになりました。ところが、さらに調べが進むと、薬自体は端康太妃の直接の死因ではなかったことがわかり容児への疑いもなくなりました。
端康太妃が1924年に亡くなったこと自体は史実通りの出来事です。でも容児は架空の人物ですし、その薬をきっかけに殺害疑惑が巻き起こるのもドラマオリジナルのストーリーとなっています。
史実の温靖皇貴妃・瑾妃とは
次に歴史上に実在した温靖皇貴妃 他塔喇(タタラ)氏を紹介します。
プロフィール
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姓:他塔喇氏
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通称:瑾妃
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徽号:端康
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旗籍:満洲鑲紅旗
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生年:1873年
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父:長叙
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母:趙氏
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夫:光緒帝・載湉
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妹:珍妃
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居所:紫禁城・永和宮
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位号:瑾嬪→瑾妃→瑾貴人→瑾妃→兼祧皇考瑾貴妃→端康皇貴太妃
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没年:1924年9月24日
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墓所:崇陵妃園寝
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死後の諡号:温靖皇貴妃
家族
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父:礼部侍郎・長叙
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母:趙氏
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夫:光緒帝
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光緒帝の皇后:孝定景皇后・葉赫那拉氏
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妹:珍妃
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同母弟:志錡
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継子にあたる皇帝:宣統帝・溥儀
光緒帝の時代には「瑾妃(きんひ)」と呼ばれていました。光緒帝が亡くなった後も紫禁城に残り続け。端康皇貴太妃、あるいは端康太妃と呼ばれていました。
ドラマで端康太妃が暮らしている永和宮も、史実の瑾妃が長く暮らした宮殿です。
瑾妃の生涯
出身はタタラ氏
温靖皇貴妃は、満洲鑲紅旗に属する他塔喇(タタラ)氏の出身です。
瑾妃の他塔喇氏は清朝の初期にドルゴンに仕えた重臣イングルタイ(英俄爾岱)と同じ他塔喇氏です。韓国ドラマではヨンゴルテとして登場する人物のでおなじみの人のいるかも知れません。
しかも両者とも扎庫木地方出身の一族でした。ただし瑾妃はイングルタイの直系子孫というわけではなく別の家系です。大きな氏族としては同じだけど、家系は違うというわけですね。
生い立ちと光緒帝の妃になるまで
父の長叙は礼部侍郎を務め、母の趙氏は長叙の妾でした。妹の珍妃も後に光緒帝の妃となっています。
瑾妃は北京の白廟胡同にあった実家で生まれました。同じ祖父を持つ従姉妹まで含めると十番目、より近い姉妹の中では第四女だったとされ、妹の珍妃は第五女でした。
生年月日については8月15五日という説と8月22日という説があります。
瑾妃は10代になると光緒帝の后妃を決める選秀に参加しました。『八旗都統衙門全宗档』によると、光緒12年2月19日に最初の選秀を受け、その後も光緒13年、14年と審査を受けています。
光緒帝の大婚に向けた選秀は数年にわたり、候補として残った女性たちは何度も選考を受けました。そして光緒14年(1888年)10月、姉妹はそろって「嬪」に選ばれ、姉は瑾嬪、妹は珍嬪となります。
翌光緒15年1月26日、二人は実家から紫禁城へ入りました。瑾嬪は東六宮の永和宮、珍嬪は景仁宮で暮らすことになります。ドラマで端康太妃が永和宮の主人として登場するのは、このころから続いた居所を取り入れたものです。
妹・珍妃の存在と波乱の宮中生活
妹の珍妃は光緒帝から寵愛を受けた妃として知られています。一方で瑾妃は、妹ほど光緒帝の寵愛を受けなかったとされています。
光緒20年(1894年)1月、慈禧皇太后が60歳を迎える年に、瑾嬪と珍嬪はそろって昇進しました。姉は瑾妃、妹は珍妃となります。
ところが同じ年の10月、二人は慈禧皇太后によって貴人へ降格されてしまいました。後宮から政治に関わる発言をしたことや、皇帝へ私的な願いを伝えたことなどが理由とされています。
慈禧皇太后は宮中に規則を掲げ、二人に衣服や装飾品を宮中の決まり通りにすること、年節以外には皇帝へ珍しい品物や衣服などを私的に渡さないことを命じました。さらに皇后に対しても、妃嬪が皇帝の前で政治に関わる発言をした場合には調査するよう命令を出しています。その後、翌光緒二十一年になると、瑾貴人と珍貴人は再び妃の位へ戻されました。
光緒26年(1900年)、八国連合軍が北京へ侵攻してきます。慈禧皇太后は光緒帝や宮中の人々を連れて紫禁城から避難し、瑾妃もその一行に加わりました。
ところが妹の珍妃は紫禁城に残り、このときに亡くなってしまいます。姉妹で同じ日に後宮へ入り、昇進と降格も一緒に経験した二人でしたが、1900年を境に人生が大きく分かれることになりました。瑾妃はその後も生き続け、光緒帝と慈禧皇太后の死、溥儀の即位、辛亥革命、清朝滅亡までを経験していきます。
清朝滅亡後の立場と溥儀との関係
光緒34年(1908年)、光緒帝が亡くなり、幼い溥儀が宣統帝として即位しました。
瑾妃は「兼祧皇考瑾貴妃」と尊ばれ、引き続き永和宮で暮らします。溥儀は皇室の系譜上、光緒帝の後継者でもあったため、光緒帝の妃だった瑾妃は溥儀から見れば母の世代にあたりました。ドラマで端康太妃が溥儀に意見を言い、宮中の年長者として接している背景には、こうした皇室内での立場があったのですね。
1912年に宣統帝溥儀が退位し、清朝は滅亡しました。ただし溥儀や旧皇族たちはすぐに紫禁城を離れたわけではなく、清室優待条件のもとで宮中生活を続けています。
1913年3月、瑾妃には「端康」の徽号が贈られ、端康皇貴太妃と呼ばれるようになりました。ドラマ『溥儀の料理番』は清朝滅亡後の紫禁城を舞台にしているため、瑾妃よりもこの時代の呼び名である端康太妃が使われています。
端康太妃と溥儀は皇室制度上、母子に近い関係にありました。ただし二人がいつも親しく過ごしていたとは言い切れません。1921年には、溥儀の実母である醇親王嫡福晋・瓜爾佳氏が端康太妃から叱責を受け、その後に阿片を飲んで自害するという事件も起きています。
当時の紫禁城には、同治帝と光緒帝の妃たちが残っていました。溥儀は法統上、同治帝と光緒帝の双方を継ぐ皇帝とされたため、それぞれの先帝の妃たちが溥儀に対して母の立場を持っていたのです。清朝がなくなった後も、紫禁城内部では旧皇室の序列や人間関係が続いていました。
また、溥儀の結婚相手を決める話が進んだとき、端康皇貴太妃は郭布羅婉容を支持しました。婉容は軽車都尉・栄源の娘で、西洋式の教育を受けた女性です。その後、婉容は溥儀の皇后となりました。端康太妃は先帝の妃として宮中に暮らしていただけでなく、溥儀の結婚相手を決める場面にも関わっていたことになります。
風流と美食を愛した暮らし
端康太妃は永和宮で書画を楽しんでいました。瑾妃が描いた『雲中九桃図』も残されており、絵を描くことを趣味としていたようです。
永和宮には瓶や皿、盆景などが置かれ、時計や花鳥、人物を取り入れた装飾品もありました。清朝が滅亡した後も、宮中で自分なりの暮らしを続けていた様子がうかがえますね。
さらに食べ物も好み、北京の天福号から醤肘子を買わせて朝食にすることがあったといわれています。永和宮の小膳房の料理人は腕がよく、旧王公や旧臣たちも端康太妃から振る舞われる料理を好んだとされていました。料理人たちを描く『溥儀の料理番』に登場する人物として見ると、実際の端康太妃にも食にまつわる話が残っているのは面白い部分です。
端康太妃の最期と紫禁城の終焉
1924年、端康太妃は実母・趙氏の七十歳を祝うため実家へ帰りました。その後、溥儀や旧皇族たちと中秋節を過ごしています。
ところがまもなく端康太妃は「脹症」を患い、同年九月二十四日の丑時、永和宮で亡くなりました。その年の十二月、光緒帝の崇陵妃園寝に葬られています。
翌年、溥儀から「温靖皇貴妃」という諡号が贈られました。そのため、光緒帝の時代の「瑾妃」、清朝滅亡後の「端康皇貴太妃」、死後の「温靖皇貴妃」という三つの名前が現在まで使われています。
端康太妃が亡くなったのは1924年9月ですが、同じ年の11月には馮玉祥による政変が起こり、溥儀は紫禁城から退去させられました。端康太妃が亡くなってから一か月余り後のことです。
1889年に瑾嬪として紫禁城へ入り、光緒帝の妃として暮らした他塔喇氏は、清朝滅亡後も永和宮に残りました。そして彼女が亡くなった直後、溥儀も紫禁城を去ることになります。ドラマでは端康太妃の死が容児をめぐる事件として描かれますが、史実を追うと、実在した端康太妃の最期は、旧清朝皇室による紫禁城での生活そのものが終わる直前の出来事だったようです。
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