ドラマ「溥儀の料理番」には、清朝最後の皇帝・溥儀の身近にいる女性として荣恵太妃が登場します。
「太妃」という呼び方や宮廷での立場を見ると、ドラマのために作られた人物なのか、それとも実在した皇族なのか気になる人もいるでしょう。
荣恵太妃には、史実上の人物にあたる女性がいます。同治帝の妃だった西林覚羅氏です。彼女は清朝時代には「瑨貴人」「瑨嬪」「瑨妃」などと呼ばれ、清朝滅亡後の1913年に「栄惠皇貴妃」、のちに「栄惠皇貴太妃」となりました。
亡くなった後に贈られた諡号が「敦惠皇貴妃」です。
この記事では、ドラマに登場する荣恵太妃と、史実に残る敦惠皇貴妃について紹介します。
荣恵太妃は実在する?
ドラマ「溥儀の料理番」に登場する荣恵太妃は実在した人物をもとにしています。荣恵太妃は同治帝の妃だった西林覚羅氏でした。
荣恵太妃は生涯のあいだに何度も称号が変わりました。清朝時代には「瑨貴人」「瑨嬪」「瑨妃」、溥儀が即位すると「皇考瑨貴妃」と呼ばれています。
清朝が滅びた後の1913年には「栄惠皇貴妃」、さらに溥儀の結婚後には「栄惠皇貴太妃」となりました。
ドラマで使われる「荣恵太妃」という名前は、この「栄惠皇貴太妃」に由来します。1933年に亡くなった後、「敦惠皇貴妃」されたため歴史上では「敦惠皇貴妃」と呼ばれます。
そのため溥儀が紫禁城で暮らしていた時代を描くドラマでは「荣恵太妃」、人物の生涯を歴史上の名前で紹介するときには「敦惠皇貴妃」と紹介されることが多いのです。
この記事では、ドラマに登場する荣恵太妃のモデルになった西林覚羅氏がどのような女性だったのか、同治帝の妃になってから溥儀の時代までを紹介します。
荣恵太妃とは
プロフィール
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名 前:西林覚羅氏
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清朝時代の称号:瑨貴人、瑨嬪、瑨妃、皇考瑨貴妃
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民国時代の称号:栄惠皇貴妃、栄惠皇貴太妃
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諡 号:敦惠皇貴妃
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生 年:咸豊6年8月8日(1856年9月6日)
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没 年:民国22年4月24日(1933年5月18日)
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出 身:満洲鑲藍旗
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墓 所:双山峪・惠陵妃園寝
家族
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父:羅霖
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祖父:吉卿
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夫:同治帝・載淳
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夫の父:咸豊帝・奕詝
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夫の母:慈禧皇太后
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夫の嫡母:孝徳顕皇后、慈安太后
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同治帝の皇后:孝哲毅皇后
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同治帝のほかの妃:淑慎皇貴妃、庄和皇貴妃、献哲皇貴妃
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養子:溥儀
敦惠皇貴妃のおいたち
敦惠皇貴妃は咸豊6年8月8日、1856年9月6日に生まれました。
西林覚羅の一族で、満洲鑲藍旗に属する家の出身です。
父の羅霖は主事、祖父の吉卿は筆貼式でした。
同治帝の後宮に入った女性たちの中では家柄が低く、最初に与えられた位は「貴人」でした。同治11年(1872年)2月3日、西林覚羅氏は「瑨貴人」になっています。
同年9月13日には瑜嬪、珣嬪とともに宮廷へ入り、瑨貴人は慧妃と一緒に永和宮で暮らしました。
同治帝の妃になる
西林覚羅氏の夫は、清朝第10代皇帝の同治帝・載淳です。
同治13年(1874年)11月15日、西林覚羅氏は両宮皇太后の懿旨によって「瑨嬪」に昇進。その後に同治帝は亡くなりました。西林覚羅氏は若くして夫を失い、その後も清朝の宮廷で生活を続けたのです。
光緒帝の時代に瑨妃へ
同治帝の後を継いだのは光緒帝でした。11代 光緒帝の時代になっても西林覚羅氏は宮廷に残りました。
光緒20年(1894年)、慈禧皇太后が60歳を迎えると、妃嬪たちの昇進が行われました。
西林覚羅氏もこのとき「瑨妃」に昇進して寿頭所で暮らしました。
溥儀の即位で皇考瑨貴妃になる
光緒34年(1908年)。光緒帝と慈禧皇太后が相次いで亡くなり、溥儀が宣統帝として即位しました。
同年10月25日、西林覚羅氏は宣統帝から「皇考瑨貴妃」の尊号を受けています。
溥儀は同治帝と光緒帝の双方の後継者となる形で皇位を継ぎました。そのため同治帝の妃だった女性たちも溥儀にとって母親の世代にあたる立場になりました。
このころ、同治帝の遺妃と光緒帝の遺妃との間では宮廷内の主導権をめぐる争いがありました。瑨貴妃は仏事に力を入れ、瑜皇貴妃に従う立場にあったようです。
清朝滅亡後に「栄惠皇貴妃」となる
1912年、清朝は滅亡しました。溥儀は皇帝として国を治める立場を失いましたが、旧清朝皇室の人々はしばらく紫禁城で生活を続けています。
民国2年2月5日(1913年3月12日) 西林覚羅氏は「栄惠皇貴妃」となりました。
その後、民国11年に溥儀が結婚すると、西林覚羅氏は「栄惠皇貴太妃」と呼ばれます。
溥儀との関係
溥儀は西林覚羅氏の養子となりました。西林覚羅氏の夫は同治帝でしたが、同治帝に実子の後継者はいませんでした。
その後に即位した溥儀は、同治帝と光緒帝の双方を継ぐ皇帝という立場になりました。そのため、同治帝の妃だった女性たちは、溥儀の母親にあたる立場になっています。
ドラマで荣恵太妃が溥儀の近くにいる年長の女性として描かれる背景には、この皇室内での関係があります。
1924年に溥儀とともに紫禁城を出る
民国13年10月25日、1924年11月21日、溥儀は紫禁城を追われました。栄惠皇貴太妃も溥儀に従って宮廷を出ています。
西林覚羅氏が同治帝の妃として入宮したのは1872年でした。それから約半世紀、同治帝、光緒帝、宣統帝の時代を宮廷の中で過ごし、清朝が滅亡した後も旧皇室の一員として暮らしていました。
荣恵太妃の最期
民国22年4月24日、1933年5月18日の午後7時、西林覚羅氏は旧栄寿固倫公主府で亡くなりました。死後に贈られた諡号が「敦惠皇貴妃」です。
棺は麒麟碑胡同5号の邸宅に置かれ、民国24年2月11日、1935年3月15日に献哲皇貴妃の棺とともに双山峪の惠陵妃園寝へ葬られました。
敦惠皇貴妃は、中国の伝統王朝で正式に冊立された妃嬪の中で最後に亡くなった人物とされています。1856年に生まれ、清朝の宮廷に入り、その清朝が滅亡した後の1933年まで生きました。
ドラマ「溥儀の料理番」の荣恵太妃
ドラマでは「荣恵太妃」の名前で登場します。胡杏児が荣恵太妃を演じています。
史実の西林覚羅氏も「栄惠皇貴妃」「栄惠皇貴太妃」という称号を実際に使っていました。荣恵太妃の呼び方はそこからつけられています。
ドラマ「溥儀の料理番」の荣恵太妃は3人いる太妃のひとり。重華宮で暮らして溥儀の心配をする人物として描かれています。重華宮に仕える寿喜や容児のことも温かく見守っていました。
ドラマ序盤では荣恵太妃は自分自身の体調が優れないときでも、溥儀の食事をしっかり準備するよう周囲に指示を出していました。溥儀にとって母親のようなそんざいといえます。
容児との関わりが深まったきっかけは、容児の顔に赤い発疹が出た事件でした。当初は伝染病が疑われ、容児は太監たちに連れ去られそうになります。ところが、寿喜が「花粉が原因だ」と必死に訴えました。荣恵太妃はその言葉を聞いて容児を重華宮へ引き取らせます。その後、容児は重華宮の御膳房で働くことになりました。
また、寿喜が亡くなったときにも荣恵太妃は容児を助けました。太監たちが寿喜の部屋から荷物を運び出そうとしたところ、荣恵太妃はそれを止めて容児に遺品を保管するよう命じました。
その後、荣恵太妃は容児を連れて端康太妃のもとを訪ねることもありました。宮中の太妃たちの間を行き来する中で、容児が宮廷の人々と関わりを深めていくきっかけを作っていたのかもしれません。
1924年に溥儀が紫禁城を追われるときには、荣恵太妃は自分の命を絶つことまで覚悟しました。ところが、駆けつけた容児が懸命に説得して思いとどまらせます。
その後、ドラマの中の荣恵太妃と敬懿太妃は紫禁城に残る決断をしました。溥儀も二人の太妃の行き先が決まるまでは協定に署名せず、容児もそのまま二人の身の回りの世話を続けていきます。
実はこの展開は実際の歴史とは少し異なっています。史実の榮惠皇貴太妃は、1924年に溥儀が宮殿を去るときに一緒に紫禁城を出ていました。
ドラマでは紫禁城との別れをより印象的に描くために、あえて荣恵太妃の行動を変更したようです。
ドラマ後半でも、二人の交流は続いていきます。容児は宮中で起きた宝物の盗難事件について荣恵太妃に報告していました。終盤で李琪との結婚を決めたときも容児はまず荣恵太妃のもとへ向かいます。
そこで容児が荣恵太妃を優しく抱きしめる場面があって主従関係を超えて、長い年月をともに過ごしてきた特別な絆が感じられました。
ドラマに登場する荣恵太妃は溥儀を支える母親のような立場でした。それと同時に寿喜や容児を守って重華宮の人々を大切に思う存在だったと言えますね。
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