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トルイとは?チンギス・カンの四男の生涯と最後

チンギス・カンの四男トルイは、父の本拠地に近いモンゴル本土を受け継ぎ大きな力を持っていましたが、皇帝にはなりませんでした。

ホラズム遠征や金との戦いで功績を重ね、子のモンケ、クビライ、フレグらが後に帝国の中心勢力となる基礎を作ります。トルイの存在感は後のモンゴル・大元にとっても大きなものだったのです。

トルイとはどのような人物だったのか紹介します。

この記事で分かること

  • トルイの生涯ととチンギス・カン家の中での立場
  • 幼少期の逸話や妻・子どもたちとの関係
  • ホラズム遠征、金遠征でのトルイの働き
  • トルイの死後に家系がモンゴル帝国の中心となった経緯

 

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トルイとは

トルイがどのような家庭環境で育ったのか、プロフィールと家族構成を箇条書きで紹介しておきますね。

プロフィール

  • 名前:トルイ(漢字表記:拖雷、圖壘 / モンゴル文字:ᠲᠤᠯᠤᠢ)
  • 別表記:Toli、Tuluy など
  • 名前の意味:鏡
  • 生年:1191年ごろ、または1192年ごろ(1180年代後半とする説もあります)
  • 没年:1232年
  • 家名:ボルジギン家
  • :チンギス・カン
  • :ボルテ・ウジン
  • 廟号:睿宗
  • 諡号:英武皇帝、のち景襄皇帝

家族構成

  • :チンギス・カン
  • :ボルテ・ウジン
  • :ジョチ、チャガタイ、オゴデイ
  • 姉妹:コジン、チェチェイゲン、アラカ、トゥメルン、アルトゥン
  • :ソルコクタニ・ベキ、ドクズ・ハトゥン、リンクン
  • :モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケ、クトゥクトゥ

 

トルイは、チンギス・カンの四男です。当時のモンゴルには末子が父の本拠地や財産を受け継ぐ考え方がありトルイも父の死後、モンゴル本土に近い領地を受け継ぐ立場にありました。ただし末子相続は個人が築いた財産に限られ社会的な地位は受け継ぐことはできません。

 

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トルイの出身と一族

トルイは、チンギス・カンと正妻ボルテのあいだに生まれました。

父のチンギス・カンは、テムジンという名で知られた人物です。1206年のクリルタイ(部族長たちの集まり)でチンギス・カンの称号を得てモンゴル高原の諸部族をまとめました。

母のボルテは、チンギス・カンの最初の妻です。トルイの兄には、ジョチ、チャガタイ、オゴデイがいました。ジョチは1184年ごろ、チャガタイは1185年ごろ、オゴデイは1186年ごろの生まれとされます。

トルイの生年にはいくつかの説があります。歴史家のクリストファー・アトウッドは1191年または1192年ごろとみています。一方で、フレデリック・W・モートやポール・ラチネフスキーは1180年代後半としました。はっきりした年は不明です。

 

幼いころのトルイ

トルイの幼少期に誘拐されかけた話が伝わっています。

チンギス・カンがまだテムジンと呼ばれていたころ、1196年ごろにタタル部を攻めました。その少し後に幼いトルイがさらわれそうになったという話が『元朝秘史』とラシード・ウッディーンの『集史』に出てきます。ところがトルイの救出場面は史料によって違います。

  • 『元朝秘史』:5歳のトルイを救ったのは、将軍ボロクルの妻アルタニ。アルタニがタタルの誘拐者をつかまえて離さず、そのあいだに別のモンゴル人が誘拐者を討ったとされます。
  • 『集史』:トルイを救った人物はチンギス・カンの養子シギ・クトク。シギ・クトクはまだ若く、近くにいたモンゴルの牧羊犬の助けもあったと語られます。

 

トルイの妻と子どもたち

1203年。ケレイトの王トオリル・カンが敗れて死ぬと、トルイはトオリルの姪ソルコクタニ・ベキと、孫娘ドクズ・ハトゥンを妻に迎えました。

ソルコクタニ・ベキとドクズ・ハトゥンは、どちらもネストリウス派キリスト教徒でした。

トルイとソルコクタニのあいだには1209年にモンケが生まれました。その後、1215年にクビライ、1217年にフレグが生まれます。末子のアリクブケはそれから十年以上あとに生まれました。

モンケは第4代皇帝、クビライは第5代皇帝となり、フレグは西アジアにイルハン朝を開きました。アリクブケも後にクビライと帝位を争うことになります。

 

なお、トルイには、ナイマン部の王子クチュルクの娘リンクンという妻もいました。リンクンとのあいだには、クトゥクトゥという子がいたとされます。

 

父と共に遠征で経験を重ねる

成人したトルイは、チンギス・カンの息子たちの中でもすぐれた戦士とみなされるようになります。金への遠征では父のもとで軍を率いました。

1211年から1215年にかけてモンゴル軍は金へ侵攻。チンギス・カンが西京(現在の大同)を包囲していたときに矢を受けて負傷します。そのときトルイは包囲軍の指揮を任されました。

1213年の秋には義兄チグとともに徳興の城壁を攻撃しました。こうしてトルイは、父の遠征の中で実戦経験を積んでいきます。

 

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ホラズム遠征とトルイ

1219年。モンゴルは西方の大国ホラズム・シャー朝との開戦を決定。チンギス・カンは遠征を始めました。

トルイは最初は父の軍と共に行動しました。モンゴル軍は1220年の初めには大都市ブハラとサマルカンドへ向かいます。ブハラは2月に陥落、サマルカンドも数か月後に陥落しました。

その後、チンギス・カンはトルキスタン山地に移り夏のあいだ軍を休ませます。将軍ジェベとスブタイはさらに西へ進み、息子たちも各地で作戦を進めました。

1220年の秋、チンギス・カンはテルメズを攻めて占領しました。トルイは父とともに現在のタジキスタンにあたるヴァフシュ川上流の反乱に対応しながら、1220年から1221年の冬を過ごしました。

ところがいったん服属したホラーサーン地方の諸都市が反抗的な動きを見せるようになりました。1220年11月には、ニシャプールでチンギス・カンの娘婿トクチャルが反乱の中で殺されます。

1221年の初めチンギス・カンはバルフを攻略、タリカンの包囲を続けていました。トルイはホラーサーン地方の諸都市を従わせるため派遣されることになりました。

 

メルヴの攻略

トルイの軍はモンゴル遠征軍全体の十分の一ほどだったとされます。そこにホラズム側から加わった兵もいました。歴史家カール・スヴェルドルップは、その兵力をおよそ7,000人と推定しています。

トルイはバルフから西へ進み、現在のアフガニスタンとトルクメニスタンの国境付近を通って、メルヴへ向かいました。1221年2月24日の夜には、トルクメンの部隊を奇襲しています。モンゴル軍の攻撃を受けた者は討たれ、川で溺れ、または散り散りになりました。

翌日、モンゴル軍はメルヴに到着しました。トルイは6日間にわたって都市を観察し長期包囲に耐えられる城だと判断します。

7日目、モンゴル軍は総攻撃をかけました。住民は二度出撃を試みましたが、うまくいきません。やがてメルヴの人々は降伏し、モンゴル軍は公平に扱うと約束しました。

しかしトルイはその約束を守りませんでした。住民は平原へ追い出され、少数の職人や子どもを除いて殺されたと伝わります。

 

ニシャプールの攻略

メルヴのあとトルイは南西へ進みニシャプールへ向かいました。

ニシャプールは抵抗を続け。その戦いの最中にチンギス・カンの娘婿トクチャルが戦死。これはモンゴルにとっても衝撃的な出来事でした。

1221年4月7日。トルイがニシャプールに到着。住民はトルイの軍の規模を見て、すぐに降伏条件をまとめようとしました。ところが、トクチャル殺害の件があったためモンゴル側は提案を退けます。

その日のうちに攻撃が始まり、4月9日に城壁が破られ、翌日に都市は落ちました。

ジュヴァイニーによると、トクチャルの未亡人が住民殺害を監督したとされます。400人の職人を除き、子どもも含めて殺されたと伝わります。モンゴル軍にとってニシャプールの攻撃はトクチャルの報復の意味もあったようです。

 

ホラーサーンの諸都市とヘラート攻略

トルイはホラーサーン攻略を進めるあいだ、周辺の都市にも部隊を送りました。アビワルド、ナサ、トゥース、ジャージャルムなどがその対象になりました。

ヘラートではモンゴルの使者が処刑されたため、怒ったトルイは8日間にわたって攻撃を行い都市のマリク(総督)が戦死しました。

トルイは城の堀の外から降伏すれば住民は助けると告げました。メルヴのときとは違い、このときモンゴル軍は約束を守り、都市守備隊の1万2,000人だけを殺したとされます。

トルイはモンゴルの監督官を置き、1221年半ばに父のいるタリカンへ戻りました。

西夏への遠征

その後、1225年からはじまる西夏への遠征ではオゴデイとともに父に従って遠征しています。

トルイはこれらの戦いで父とともに各地を転戦。功績をあげて優秀な戦士で指揮官であると証明しました。

 

チンギス・カンの死と後継者問題

チンギス・ハンの最後

1227年、チンギス・カンは西夏遠征中に亡くなりました。このときもトルイは父に従軍していました。

モンゴルの草原社会には、はっきり固定された皇位継承制度があったわけではありません。

家の財産や本拠地については末子が受け継ぐ考え方がありました。末子は兄たちと違って、父の生前に自分の勢力を十分持つ時間が少ないため、父の遺産を受けるという考え方です。

後継者候補になる

チンギス・カンは一族に領地と民を分け与えていました。兄弟や息子たちも、それぞれの地を与えられます。

  • ジョチ:イルティシュ川流域からシベリア、キプチャク方面
  • チャガタイ:アルマリク周辺の旧西遼地域
  • オゴデイ:ジュンガリア
  • トルイ:アルタイ山脈に近いモンゴル本土

トルイは父の死後に後継候補の一人になりました。

チンギス・カンは生前にオゴデイとトルイを後継者候補と考えていました。軍事面ではトルイの働きが目立っていました。それに対してオゴデイは軍の指揮ではトルイほどの評価を得ていませんでした。

ただし、オゴデイは一族や国の中で好かれていました。気前がよく、礼儀を重んじ、調停にも向いていたとされます。オゴデイは有能な部下を信頼する人物でもありました。

そこでチンギス・カンは、最終的にオゴデイを後継者に選びました。

 

トルイの監国時代

チンギス・カンの死後、トルイは監国(皇帝の代理)となり帝国の政務を担いました。

トルイは父の持っていた多くの財産と兵を受け継ぎ、一族の中でも飛び抜けた力を持つ事になりました。

トルイは父の葬儀を取り仕切り、国の運営を行いました。モンゴル軍の征服活動は一端停止しましたが、各占領地に軍を派遣して治安維持するとともにモンゴルへの抵抗を抑え込みました。

そうして2年間の服喪期間の後、後継者を選ぶクリルタイを開催。

トルイにはジョチら彼の皇帝即位を望む声はありましたが、却下して父の意思通りオゴデイが新しい皇帝に選ばれました。

1229年。オゴデイは第2代皇帝に即位しました。トルイは新しい君主に忠誠を誓い、最初にオゴデイを称えたと伝わります。

 

オゴデイのもとでのトルイ

オゴデイの即位後もトルイはモンゴル軍の中心人物として活動しました。

金への遠征

1230年ごろ。金の残存勢力は陝西で強く抵抗していました。金はかつてチンギス・ハンに敗れたとはいえ、未だに30万の兵を持ち侮れない相手でした。

オゴデイはトルイ、テムゲ・オッチギン、モンケら有力な将軍を引き連れて遠征しました。モンケはオゴデイの第三夫人アングイに養育されていたとされます。

ところが潼関でモンゴル軍は敗北。さらに食糧不足にも苦しみました。オゴデイとトルイはいったんは内モンゴル方面へ退き、作戦を練り直します。

金との戦いで功績をあげる

その後、チンギス・カンが考えていた案の一つを採用しました。トルイはスブタイ、シギ・クトクとともに南へ迂回し、宋の領内を通って陝西の南を抜けます。一方、オゴデイは黄河沿いに金の都・開封へ向かうという大規模な挟み撃ちでした。

この作戦は危険を伴いました。トルイの軍はかなり苦しい行軍を強いられ、食糧にも困ったといわれます。それでもトルイは宋の地で物資を得て、河南へ入りました。

1232年2月9日、トルイは三峰山で金軍と戦いました。金軍はトルイの軍よりもかなり多かったとされます。

戦いはトルイ側の勝利に終わりました。その後、モンゴル軍は金軍に対して激しい報復を行ったといわれます。

戦場での勝利はトルイの宮廷内での立場を強めたでしょう。一方で、金との戦いで苦戦したオゴデイの軍事面での評価に疑問が出たともいわれます。

 

トルイの最期

こうして金との戦いで大きな功績をあげたトルイでしたが、1232年の後半に兄オゴデイとともに北へ向かっている途中に北京近くで亡くなりました。

でもトルイの死については、はっきりしない点が多くあります。

『元朝秘史』によると、オゴデイは金の悪霊によって呪われました。シャーマンたちは財宝、家畜、民などを捧げようとしますが、霊は皇族の一人を求めたとされます。そこでトルイが自ら名乗り出て、オゴデイの身代わりになったというのです。

この話では、トルイは父の生前に自分の死を予言していたとも語られます。物語としては印象的ですが、あまりに出来すぎているので後の研究者たちは作り話ではないかとも考えています。

別の説としてはトルイは酒の飲みすぎで亡くなったという説もあります。

また、オゴデイがあまりにも功績を上げすぎたトルイを危険視して毒殺したのではないかという説もあります。

ただし、これも確かな証拠がある話というより、トルイの死の不明瞭さから出てきた見方でしょう。実際にトルイの死後、トルイ家の力は低下してオゴデイとチャガタイの勢力がモンゴルの中心になります。

トルイの死の理由はどうあれ、トルイの死がオゴデイに有利に働いたことは確かなようです。

しかしトルイはオゴデイを救うために命を捧げた人物として語られる事になりました。この言い伝えによりトルイの妻ソルコクタニ・ベキやその子らの立場を高めるうえでは役立ったのかもしれません。

 

トルイの死後

ソルコクタニ・ベの働き

トルイの死後、妻のソルコクタニ・ベキはオゴデイの命令によってトルイの財産を受け継ぎました。

トルイの領地と財産は大きくソルコクタニはその力を背景に、帝国内で尊敬される有力者となりました。彼女はジョチ家、つまりキプチャク草原方面の一族との同盟づくりにも大きな役割を果たします。

その積み重ねは1251年のモンケ即位につながりました。トルイの長男モンケが皇帝となり、オゴデイ家とチャガタイ家の勢力は大きく弱められます。この動きは、後に「トルイ家の革命」とも呼ばれます。

モンゴル帝国の中心になったトルイの家系

その後、トルイの子孫はモンゴル帝国の皇帝位を長い間独占しました。クビライは元を建て、フレグはペルシアにイルハン朝を開きます。トルイ本人は生前にカンにはなりませんでしたが、子どもたちの時代にトルイ家は帝国の中心勢力となったのです。

クビライが元を開いた後、トルイはカンとして追尊されます。ソルコクタニとともに、モンゴルの「八白宮」の信仰でも大きな位置を占めるようになりました。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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