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シタラのモデル? ファーティマ・ハトゥンはどんな人?『天幕のジャードゥーガル』

アニメやマンガ『天幕のジャードゥーガル』のヒロイン・シタラにはモデルになった実在の人物がいます。

シタラのモデルは13世紀のモンゴル帝国で皇后ドレゲネの側近となったファーティマ・ハトゥンです。

史実のファーティマ・ハトゥンは、マシュハド出身の女性でした。彼女はモンゴル軍の捕虜となってカラコルムへ連れて行かれました。その後、彼女はオゴデイ・カアンの皇后ドレゲネに取り立てられます。

オゴデイが亡くなった後、ドレゲネが国政を担った時期には、ファーティマも宮廷政治に深く関わったとされます。ところが、グユク・カンの即位後、ファーティマは「呪術を使った」と告発され、厳しい処刑を受けました。

一方、作品の中のシタラは、トゥースで学問に触れた奴隷の少女として描かれます。作品では、史実に残るファーティマの前半生の空白に、学びや喪失、復讐という物語が重ねられています。

この記事では、史実のファーティマ・ハトゥンと『天幕のジャードゥーガル』のシタラを紹介します。

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ファーティマ・ハトゥンとは?

プロフィール・家族構成

  • 名前:ファーティマ・ハトゥン
  • 別名:ファーティマ・ハートゥーン、ファティマ・ハトン、法提玛(中国語表記)
  • 出身地:マシュハド
  • 生年:不明
  • 没年:1246年
  • 仕えた人物:ドレゲネ
  • 国:ホラズム・シャー朝→モンゴル帝国
  • 時代:13世紀半ば

 

ファーティマ・ハトゥンの出自

ファーティマはホラズム・シャー朝のホラーサーン地方マシュハド出身(現在のイラン北東部)の女性でした。マシュハドはイスラム教の聖地イマーム・レザー廟で知られる町です。

歴史書の『世界征服者史』によると、モンゴル軍がホラーサーンへ侵攻。マシュハドのイマーム・レザー廟が占領されたとき、ファーティマはモンゴル軍の捕虜になったとされます。

もともとファーティマがどのような家に生まれ、父や母が誰だったのかは史料に残っていません。彼女の生年も不明です。

捕虜となったファーティマは、モンゴル帝国の首都カラコルムへ連れて行かれました。『世界征服者史』ではファーティマがカラコルムで売春に関わったと書かれています。

ただし、この記述をそのまま受け取るのは難しい面もあります。『世界征服者史』を書いたジュヴァイニーはファーティマと同じホラーサーン出身の高官で名門出身。そのためか奴隷扱いだった彼女についてはかなり厳しい表現で書いてます。彼はファーティマの抜け目のなさや狡猾さを旧約聖書のデリラにたとえました。

 

ファーティマが宮廷内で強い影響力を持っていたのかも知れませんが書き手の感情や主観も入っていると考えたほうがよいでしょう。

ファーティマ本人の言葉は史料にほとんど残っていません。史料に見えるのは、彼女を見た側や、彼女を裁いた側の目線が中心です。

 

ドレゲネに取り立てられる

ファーティマはカラコルムでオゴデイ・カアンの皇后の一人だったドレゲネに取り立てられました。

ドレゲネはオゴデイの第六皇后です。

1241年にオゴデイ・カアンが亡くなりました。

モンゴル帝国では、次の皇帝が決まるまで正皇后が国政を取り仕くる慣例がありました。ところが、第一皇后ボラクチン・ハトゥンはすでに亡くなっていました。第二皇后モゲ・ハトゥンも、オゴデイの後を追うように亡くなったとされます。

そのため、第六皇后だったドレゲネが、次の皇帝を決めるまで国政を握ることになりました。

中国の歴史ではこの時期を「六皇后」またはドレゲネ称制期と呼びます。

ファーティマはこのドレゲネのそばで力を持つようになりました。マシュハドで捕虜となりカラコルムへ連れて来られた女性が、皇后の側近となり、帝国の政治の内側へ進んでいったのです。

彼女がどの時点でドレゲネに近づいたのか最初から政治的な役割を任されたのかははっきりしません。けれどもオゴデイが生きているあいだに、ファーティマがドレゲネの側近にまでなったことは伝えられています。

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ドレゲネ称制期のファーティマ

ドレゲネの助言者となったファーティマ

オゴデイの死後、ドレゲネが国政を握ると、ファーティマはその助言者としてふるまったとされます。

歴史書『集史』にある「グユク・カン紀」によると、ドレゲネは当初、オゴデイ時代の大臣や総督をそのまま残しました。ところがチンカイをはじめとする一部の大臣に対してドレゲネは以前から不満を抱いていたとされます。

その後、ドレゲネは彼らへの報復を考えました。このときドレゲネを助けたのがファーティマだったといわれます。

ファーティマの助言によって、チンカイらオゴデイ時代の高官たちの多くが地位を失ったとされます。

また、ファーティマはヒタイ地方、つまり旧金朝領である華北方面を担当していた総督マフムード・ヤラワチにも敵意を抱いていたとされます。

ファーティマはヤラワチを罷免し代わりにアブドゥッラフマーンをヒタイ総督の後任に推しました。

さらにファーティマは、オカル・コルチという人物を使者として派遣しヤラワチとその家臣を捕らえようとしました。

ヤラワチは、あえて堂々と使者を迎え宴を開きました。ところが、彼はその裏で逃亡の準備を進め、3日目に使者の目をかいくぐって逃れたとされます。

 

三大属領にも及んだ人事の波

チンカイやヤラワチら、ドレゲネとファーティマによって地位を追われた高官たちの多くはオゴデイの息子コデンのもとへ逃れました。

コデンは、四川・チベット方面の侵攻を担当していた人物です。

ヤラワチを捕らえそこねたオカル・コルチは、コデンのもとを訪れ、ヤラワチの身柄を引き渡すよう求めました。

ところが、コデンはこれを拒みました。彼は次の皇帝を決めるクリルタイに彼らを連れて行き、一族や高官たちの前で罪を明らかにすると答えたとされます。

この状況を知ったヤラワチの息子マスウード・ベクも、ジョチ・ウルスのバトゥのもとへ逃れました。マスウード・ベクは、トルキスタン総督府に仕えていた人物です。

また同じ時期にイラン総督府の総督コルグズも、チャガタイ・ウルスとの対立から審理を受けました。このとき、政敵であるシャラフ・ウッディーンがファーティマに取り入ったため、コルグズは失脚し、処刑されたとされます。

こうして、ヒタイ、トルキスタン、イランというモンゴル帝国の大きな属領すべてで、高官たちがドレゲネとファーティマの影響を受けることになりました。

ファーティマが自分で軍を率いたわけではありません。それでも彼女がドレゲネの側近として人事や裁定に関わったことで、帝国各地の有力者たちの運命に影響を与えたと見なされています。

グユク即位までの争い

生前のオゴデイは自分の息子たちの中でも正妻から生まれたクチュやコデンらを厚遇していました。

特にクチュが早く亡くなった後はオゴデイはその子シレムンを後継者として扱っていたとされます。

ところが、国政を握ったドレゲネは自分の息子であるグユクを次の皇帝にしようとしきました。

グユクは、オゴデイの庶長子にあたります。そのため、ジョチ・ウルスのバトゥをはじめ、グユクの即位に強く反対する勢力がありました。

次の皇帝を決める統一クリルタイは、なかなか開かれませんでした。そのため、ドレゲネ称制期は5年にも及びます。

その後、1246年についにグユクは第3代皇帝として即位しました。

この即位によって、宮廷内の力関係は変わります。ドレゲネのもとで力を持った人々は、グユクの時代に厳しい立場へ追い込まれていきました。

ファーティマの失脚

グユクが即位したころ、ファーティマに対する告発が起こりました。

グユクの側近カダクに仕えるアラヴィー・サマルカンディー・シラという人物が、「ファーティマがコデンに呪いをかけている」と訴えたのです。

コデン自身もグユクに使者を派遣しました。彼は自分の体調が悪化しているのはファーティマの呪術によるものだと訴えたとされます。そしてコデンはもし自分が死んだらファーティマに対して仇を取るよう伝えたといわれます。

その後、コデンが亡くなるとグユクのもとで復権したチンカイの勧めもあり、グユクはドレゲネに使者を送りました。グユクは、ファーティマを差し出すよう求めました。

『世界征服者史』によると、ドレゲネは最初、ファーティマをすぐに引き渡しませんでした。

ドレゲネは「自分でファーティマを連れて行く」と言い、身柄を差し出すことを拒んだとされます。そのため、ドレゲネとグユクの関係は悪化しました。

ところが、グユクの態度は強硬でした。ドレゲネは最後には抗弁を続けることができず、ファーティマを差し出しました。

 

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ファーティマの最期

グユクのもとへ連れてこられたファーティマは、裸で拘束されました。彼女は食事や水を与えられないまま、厳しい拷問を受けたとされます。その末にファーティマは自分の罪を認めました。

ただし、この自白は拷問で引き出されたものです。ファーティマが本当に呪術を行ったのかどうかはわかりません。

最終的にファーティマは身体の上下にある穴を縫い合わされ、フェルトに包まれて河に投げ捨てられるという処刑を受けました。

『世界征服者史』は、ファーティマの罪状を明らかにするため、マシュハドまで使者が派遣されたとも記します。さらにファーティマの関係者も弾圧を受けたとされます。

同じころファーティマの推薦によって取り立てられたアブドゥッラフマーンも処刑されました。

この流れを見るとファーティマの処刑は、グユク即位後に行われた粛正の一部だった可能性があります。ドレゲネ称制期に力を持った人々が、新しいカアンのもとで排除されていったのでしょう。

ファーティマの事件とモンゴル宮廷

『集史』の「グユク・カン紀」では、即位したグユクが最初に手がけた裁判案件が、ファーティマ・ハトゥンの尋問だったとされます。

その次にテムゲ・オッチギンの帝位簒奪未遂の尋問が行われました。

テムゲ・オッチギンはチンギス・カンの末弟です。チンギス家の内紛に関わる問題と並ぶ形で、ファーティマの件が扱われたことになります。

ここからファーティマの件は一人の女性に対する追及というより、モンゴル宮廷内の勢力争いと結びついていたと考えられます。

史実のファーティマはドレゲネの側近として高官人事に関わり、オゴデイ家内部の後継者争いの中で失脚しました。

モンゴル帝国と呪術への警戒

13世紀のモンゴル人は呪術や魔術に強い警戒心を持っていたとされます。

ファーティマと同時代にモンゴル高原を訪れたプラノ・カルピニも、モンゴル人が占いや前兆、魔術を重んじ使者や贈り物を火の間に通して清める習慣があったと書いています。

もちろんカルピニはキリスト教徒の立場からモンゴル人を見ています。そのため、彼の記述には宗教的な偏りも含まれます。

それでも毒による暗殺や呪術による害を、当時のモンゴル宮廷が強く警戒していた様子は伝わってくるようです。

ファーティマへの処刑が非常に過酷だった背景には、こうした呪術への恐れも関係していたのかもしれません。

ただし、ファーティマの事件はドレゲネ称制期に反抗するグユク即位後の粛正の流れの中で起きたことです。呪術だけが原因ではありません。

 

『天幕のジャードゥーガル』のシタラ

『天幕のジャードゥーガル』のシタラは13世紀のイラン東部にある街トゥースで暮らす奴隷の少女として描かれます。

シタラという名前には「星」という意味があります。母を亡くしたシタラは前の主人に売られました。ところが、彼女は奴隷商人のはからいで学者の未亡人ファーティマの家に引き取られました。

ファーティマの家でシタラは働きながら教育を受けます。

当初のシタラは逃げ出そうとしていました。ところがファーティマの息子ムハンマドから勉強する意味を教えられ、シタラは強く心を動かされます。

その後、シタラはファーティマの家で8年を過ごしました。書物に囲まれ、学びのある暮らしが、このまま続くと思っていたのでしょう。

ところが、トゥースをはじめとする中東の都市にモンゴル軍が襲来します。シタラと主人のファーティマは家の地下に隠れていました。ところが彼女たちはモンゴル兵に見つかってしまいます。

このとき家の財産だった書物『エウクレイデスの原論』が、モンゴル軍のトルイに奪われました。

シタラはその本を取り戻そうとします。ところが、彼女は兵士に斬られそうになりました。そのシタラをかばった主人ファーティマは命を落とします。

その後、シタラは捕虜となり他の市民たちとともにモンゴルへ送られました。彼女は奴隷仲間たちとも死別します。さらにファーティマの息子ムハンマドがいるニーシャプールもモンゴルに襲撃されたことを知り、シタラは深い絶望を抱きました。

やがてシタラは、通訳のシラに勧められ亡くなった主人の名であるファーティマを名乗るようになります。

シラは王族に取り入るためには出自が良いほうが望ましいと考えました。主人の名を名乗ることは、宮廷へ入るための手段でもありました。

こうしてシタラはトルイの妃ソルコクタニ・ベキの侍女となります。

シタラがソルコクタニに仕えた理由の一つには、トルイに奪われた『原論』を取り戻す目的がありました。

ところが、ソルコクタニは侵略された側の境遇や心情にあまり気を配りません。シタラはその無邪気さや無頓着さに怒りを覚えます。そして、彼女はモンゴル帝国への復讐を決意しました。

1229年、チンギス・カンの死後、遺言により三男オゴタイが皇帝に即位しました。

しかし、チンギス・カンの財産や軍事力は末子トルイが継承していました。そのため、モンゴル王族のあいだには権力のねじれが生まれていました。

ファーティマと名乗るようになったシタラは、ソルコクタニから、次男チャガタイを探る密偵になるよう命じられます。

ところが、その試みはうまくいきません。シタラは、持っていたジャダ石を盗んだものと勘違いされ、オゴタイの妃ドレゲネの前に連れて行かれます。

ドレゲネは、かつてモンゴルと敵対していたメルキト族長の妻でした。彼女は夫や一族をモンゴルに討たれた過去を持つ女性です。

シタラもまた、モンゴルの襲来によって主人ファーティマを失い、故郷での暮らしを奪われました。

二人は互いの境遇を知り、やがて結びつきます。そこからシタラはドレゲネの侍女となり、モンゴル帝国への復讐を画策するのでした。

 

史実のファーティマと作品のシタラ

史実のファーティマ・ハトゥンはマシュハド出身の女性で、モンゴル軍の捕虜となったあと、カラコルムへ連れて行かれました。その後、彼女はドレゲネの側近となりドレゲネ称制期の政治に関わります。

一方、作品の中のシタラはトゥースで学問に触れた奴隷の少女として描かれます。彼女は主人ファーティマの死をきっかけに、その名を受け継ぎ、モンゴル宮廷へ入っていきました。

史実のファーティマについては、捕虜になる前の暮らしや彼女自身の考えはわかっていません。彼女がどのように学び、どのような人間関係を持ち、なぜドレゲネの側近になったのかも詳しいところは伝わっていません。

作品のシタラは、そうした史実の空白に学問への思い、主人との別れ、モンゴルへの怒りという物語を追加した人物といえるでしょう。

史実のファーティマは、最後に「呪術」の罪で処刑されました。作品のシタラがどのような人生を歩むのかは気になるところですね。

 

 

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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