曹王 李明は唐の太宗 李世民の十四男で末子。
彼の出生には複雑な事情がありました。母は隋の皇族出身、玄武門の変の影響で母の運命が狂い。唐の皇帝の子として生まれます。そして武則天の政争に巻き込まれて流刑・死に至るまで。
この記事では、曹王 李明はなぜ悲劇的な最後をむかえたのか解説。ドラマでの描かれ方の違いも紹介します。
曹王 李明とはどんな人物?
曹王 李明は唐時代の皇族です。第2代皇帝である唐太宗 李世民の十四男にあたり太宗 李世民にとっては一番年下の息子でした。
李明のプロフィール
- 名称: 李明
- 称号: 曹王
- 生没年: 640年代生 – 682年没
- 父: 太宗・李世民
- 母: 楊氏(巣王妃)
- 子供: 不明
彼は唐の2代太宗から3代高宗の時代を生きました。日本では飛鳥時代、斉明~天智天皇の時代にあたります。
李明は父である太宗の時代には皇太子の座を巡る争いには関わっていませんでした。これは彼が一番年下だったためです。
唐太宗の末息子 曹王 李明の複雑な生い立ち
唐太宗の末息子として生まれた曹王 李明の生い立ちには複雑な背景がありました。
母の楊氏は隋の皇族
彼の母は楊氏といいます。楊氏はもともと隋を建国した楊堅と同族の家柄でした。隋朝時代は皇族として扱われる名門の出身でした。
楊氏が母が唐太祖の四男・李元吉の妻になる
楊氏は隋の重臣だった李淵の四男 李元吉の妻になりました。
李元吉は太宗・李世民の義理の弟にあたります。つまり楊氏は李世民の義理の妹だったのですね。
楊氏が玄武門の変の後、李世民の妾になる

玄武門の変(イメージ)
626年玄武門の変が起こりました。秦王・李世民が皇太子・李建と斉王・李元吉を殺害した事件です。
この後、李世民は太宗皇帝となりました。このとき楊氏がどうなったかは明らかではありません。でも太宗の後宮に入れられたと考えられています。当時謀反人の妻子が後宮に入れられることはよくあったのです。
楊氏が正式な側室に任命されたという記録はありません。李世民の妾として扱われていたようです。
太宗と楊氏の間に李明が誕生

太宗 李世民
詳しい時期は不明ですが、太宗と楊氏の間に李明が誕生しました。李明のすぐ上の兄である趙王・李福は634年生まれです。
そのため李明の生年はどんなに早くても634年より後だと考えられます。李明は太宗・李世民にとって一番下の息子でした。
母が皇后の候補に?
636年には長孫皇后が亡くなりました。『新唐書』という歴史書によると、このとき太宗は楊氏を皇后にしようとしました。でも宰相の魏徴に反対され諦めたと記されています。
貞観21年(647年)。李明は「曹王」に任命されました。貞観23年(649年)には800戸の領地を与えられて、後に1000戸にまで追加されました。
貞観23年(649年)。父の太宗が亡くなり高宗が即位しました。
高宗時代の曹王 李明 皇族としての異例の継承
高宗が即位した後、長孫無忌らの主導で有力な皇族が何人か粛清されました。
でも曹王 李明は高宗と親しかったためか、それとも脅威と思われていなかったためか粛清されませんでした。
李元吉の家を曹王 李明が継承
高宗の時代ある異例の出来事がありました。
太宗・李世民の弟で玄武門の変で殺害された李元吉の家が途絶えていたのです。そこで高宗は李元吉を皇族に戻し、李明に李元吉の家を継がせました。
李明が李元吉の家を継いだわけ
高宗が李明に李元吉の家系を継がせるたのは理由があります。
李明の母 楊氏はもともと李元吉の妻でした。楊氏は李元吉の死後、太宗の妾となりました。そうして生まれたのが李明です。
つまり李明は母の元夫の家を継ぐことになったわけですね。
李元吉を殺害したのは高宗の父 太宗ですが、高宗は李元吉を気の毒に思ったのでしょう。
李明にとって李元吉は叔父(父の弟)であると同時に母の元夫という複雑な関係でした。
さらに李明の母・楊氏は武則天の母・楊氏の親戚です。そのため武皇后の働きかけもあったかもしれません。
複雑な血縁関係が絡み合った出来事でした。
顯慶4年(659年)李明は梁州都督に任命されました。その後も虢州蔡州蘇州の刺史を務めています。
皇太子・李賢の謀反疑惑と曹王 李明への影響
高宗の晩年。武則天の権力が強まる中である事件が起こりました。

武則天の肖像画
皇太子 李賢に謀反の疑惑
上元2年(675年)に皇太子 李弘が謎の急死。その後、李賢が皇太子になりました。
李賢は高宗・李治と武皇后(武則天)の息子。彼は学問を好み学者を集めて『後漢書』の注釈本を作成するなど、人柄も良い人物だったと言われています。
ところが「皇太子・李賢は高宗と韓国夫人(武則天の妹)の子供だ」という根も葉もない噂が流れてしまいました。李賢が自分の息子なのは武則天が一番よく知っているはずです。
でも李賢が自分の言う通りにならないと分かると廃しようと画策。武則天は3番目の息子 栄王 李顕を皇太子にしようと考えました。李顕は兄たちとは違い人に流されやすい性格だったからです。
武則天は李賢に対して「皇太子の座を明け渡すように」と迫りましたが、李賢はこれを拒みました。
やがて李賢の馬屋から数百の鎧が「発見」されます。これにより李賢は謀反を企てた罪で皇太子を廃され追放されてしまいました。
李賢からすれば父の高宗は病気でした。待っていれば皇帝になれるはずです。焦って謀反を起こす必要などありません。この出来事は武則天側が李賢を早く廃したかったための策略である可能性が高いです。
曹王 李明も連座で流刑
曹王 李明はこの廃された李賢と親しくしていましたから、李明にも疑惑がかかってしまいます。
李明は李賢の謀反疑惑に連座して「零陵王」に降格、黔州に流罪となりました。
李明が具体的に李賢に協力して謀反を企んだのかどうかは不明です。
でも冤罪の可能性が高いと言われています。武則天は自分が権力を握るために邪魔になりそうな李氏の皇族を排除したかったのかもしれませんね。
流刑先で謎の死亡

幽閉中の皇子のイメージ
永隆年間(680年から681年)流刑先の黔州で都督の謝祐によって李明は自害に追い込まれます。これは事実上の処刑でした。
李明の死を知った高宗は深く嘆き悲しみ黔州の官吏を全員罷免しました。
歴史書には謝祐が自害に追い込んだと書かれています。でも役人の判断で勝手に皇族を処刑することはありえません。これは命令を出したのは武皇后(武則天)だったと考えられますね。
役人が犠牲になった武則天の冷徹な政治手腕
高宗も武則天の命令だと知っていたでしょう。でも高宗はすでに病気が進み武則天にかなりの政治の権限を渡していました。
そのため武則天の責任を直接追求することはできません。高宗にできたのは直接手を下した役人を処刑することだけだったのですね。
あるいは武則天は自分で皇子の処刑命令を出しておきながらその責任を役人に押し付けたのかもしれません。
そして高宗に役人を処刑するように進言した可能性もあります。皇太子・李賢の時も武則天が李賢を流刑にする役人に命令して李賢を自害させ、そして李賢を自害させた役人を処刑するという手順でした。
李明もその可能性が高いと言えます。
武則天は人を使うのが巧みな優れた政治家でした。でも役目が終わると切り捨ててしまいます。
現代でいえばテレビで話題のカリスマ経営者だけれど会社の中はブラック企業のようなタイプですね。皇子を始末するために役人が犠牲になってしまったのです。
曹王 李明も武則天の犠牲になった一人だと言えるでしょう。
710年李明の棺は長安に運ばれ昭陵に埋葬されました。
中国ドラマで描かれる曹王 李明 史実との違いを解説
太宗や武則天の登場するドラマは多いですが、曹王 李明が登場するドラマはあまりありません。
これは母の楊氏が、李世民の四大妃のひとり楊妃と同一人物にされることが多いからです。楊妃には呉王 李恪がいたので。ドラマには呉王 李恪が登場、曹王 李明は省略される事が多いです。
でも「風起花抄」のように曹王 李明が登場するドラマもあります。
風起花抄の曹王 李明

風起花抄~宮廷に咲く琉璃色の恋~ (字幕版)
『風起花抄』は2021年に中国で放送されたドラマ。李明を演じるのは張晚意です。
このドラマでは史実とは違って、李明が皇太子になろうと陰謀をたくらむ野心家として描かれています。それを阻止するのがヒロイン瑠璃や武則天たちですね。
史実の李明は太宗の時代には目立つようなことはしていません。謀反疑惑に巻き込まれるのは高宗の晩年になってからです。そのためドラマでは彼の人物像が大幅に脚色されています。
史実では武則天が野心家で李明がその犠牲になったと言われています。でもドラマでは李明が野心家で武則天がそれを止める側という大きな違いがあるのですね。
まとめ
曹王 李明は唐の2代皇帝 太宗の末息子として生まれました。後継者争いからは距離を置いていたものの、高宗の時代終わりごろに武則天の犠牲になって命を落としました。
彼はただ皇太子・李賢との交流があっただけです。でもそれを理由に粛清され、流刑の地で命を落としました。――その結末はなんとも切なくて権力争いの冷酷さを物語っています。
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