裴行倹とは?武則天に反対し波乱の時代を駆け抜けた名将の生涯

裴行倹 5 隋・唐
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裴行倹(はい こうけん)は唐の時代の武将です。

彼は高宗に仕え特に西域での軍事的な功績で知られます。また人材登用にも手腕を発揮しました。

裴行倹武則天の皇后即位に反対したことでも歴史に刻まれています。この出来事が彼の人生に大きな影響を与えました。

この記事では裴行倹がなぜ武則天の皇后になるのをハンたんしたのか。西域でどのような活躍をしたのか詳しく解説します。

 

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裴行倹(はい こうけん)とは

裴行倹のプロフィール

  • 生没年
    • 619年 絳州聞喜にて誕生
    • 682年6月9日 長安にて死去
    • 享年64
  • 本貫: 河東裴氏
  • :唐
  • 当時の君主:太宗高宗

 

裴行倹の家族

  • 家族
    • : 裴仁基
    • : 陸氏(陸爽の娘病死)
    • 再婚: 庫狄氏(華陽夫人)
    • 長男: 裴貞隠(早逝)
    • 次男: 裴延休(并州文水令)
    • 三男: 裴慶遠(協律郎)
    • 四男: 裴光庭
    • 長女: 裴氏(鳳閣侍郎 蘇味道の妻)
    • 次女: 裴氏(弘文館学士天官侍郎 王勮の妻)

 

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裴行倹の生い立ちと武則天の皇后即位に反対

河東裴氏の誇り高き血筋

裴行倹は619年、絳州聞喜(現在の中国山西省聞喜県)で生まれました。彼は代々高官を輩出した名門・河東裴氏の一つである中眷裴氏の出身です。

曾祖父や祖父は北周に仕え、父の裴仁基は隋朝で左光禄大夫となっていました。

大業14年(618年)。隋の煬帝が宇文化及に殺害され。各地では新しい皇帝に名乗りをあげるものがいました。唐を建国した李淵もそのひとりです。

武徳2年(619年)。王世充たちは越王 楊侗を担いで隋の皇帝にします。裴仁基と裴行儼はこの王世充の配下でした。王世充は 楊侗を殺して自分が皇帝に即位。「鄭」を建国しました。しかし王世充は横暴な皇帝でした。

裴行倹がまだ母親のお腹の中にいたころ。王世充の横暴を許せなくなった裴仁基と裴行儼は仲間を集めて反乱を起こそうとします。ところが密告する者がいて処刑されてしまったのです。

幼くして身寄りを失った彼は、名家の血筋とはいえ、波乱の人生を歩むことになるのでした。

蘇定方から兵法を伝授された若き日

裴行倹は先祖の功績によって弘文生に任命されました。

唐太宗の貞観年間(627年—649年)中頃には明経科の試験に合格。左屯衛倉曹参軍となりました。

このころ彼は名将として名高い蘇定方(そていほう)に出会います。左衛中郎将だった蘇定方は裴行倹の才能を見抜き「私の用兵の謀略は世に伝えられる者がいない。だがお前は伝授するにふさわしい」と言い、彼に兵法の奥義をすべて伝授しました。

この学びが後に西域での彼の活躍を支える大きな力となります。

武則天の皇后即位に反対して左遷

その後、裴行倹は長安県令になりました。このころ高宗 李治は王皇后を廃し、寵愛する武昭儀(後の武則天)を皇后にしようとしていました。

裴行倹はこの即位が国の災いの始まりとなると心配して顧命大臣の長孫無忌褚遂良らと秘密裏に対策を話し合いました。

当時の唐は創業期の功臣たちが政治の中枢を担い、帝室の安定を重視する風潮がありました。武則天の皇后即位はそうした伝統や秩序を乱し、国の根幹を揺るがしかねないと考えたのです。

しかしこの密議は大理寺卿の袁公瑜によって武昭儀の母親 楊氏に告密されてしまいます。これにより裴行倹は西州都督府長史に左遷されてしまいました。

裴行倹の赴任先の安西都督府は長安から約1800kmも離れた現在の新疆ウイグル自治区トルファン市にあり、西域を管理する重要な拠点でした。

7世紀後半の唐と東アジアの国々

7世紀後半の唐と東アジアの国々

この左遷は彼のキャリアに大きな転機をもたらします。

 

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西域で才能を開花させた裴行倹の軍事功績

西州都督府長史としての活躍

左遷された裴行倹は西域という新たな地でその才能を開花させます。

麟徳2年(665年)には安西都護に昇任しました。

彼は実直さと誠実さで兵士たちからも信頼されていました。そのため西域での戦闘で多くの戦果をあげていきます。

突厥反乱を鎮圧した奇策とその詳細

裴行倹の最も輝かしい功績の一つは西突厥の反乱鎮圧です。

679年。西突厥の部族長 阿史那都支が反乱を起こし吐蕃と同盟して安西に攻め込んできました。唐の朝廷は武力による鎮圧を試みます。しかし裴行倹は正面からの衝突は危険と判断しました。

彼は高宗に対し大食(アラビア)大使に任命されたサーサーン朝ペルシアの王子を護衛するという名目で軍を派遣するよう進言しました。

サーサーン朝ペルシア
651年にイスラム帝国(アッバース朝)によって滅亡。遠征中で国にいなかったペーローズ王子が唐に亡命していました。

裴行倹は西州を通過する際「暑いので秋になったら進軍する」と宣言します。狩りをしていると見せかけ敵を油断させました。しかし密かに兵を集め、阿史那都支の部落からわずか4kmの地点まで軍を進めたのです。

油断していた阿史那都支は軍を集める間もなくわずか500騎で迎え撃つことになり、あっけなく捕らえられてしまいます。この奇襲作戦は裴行倹の周到な計画と大胆な実行力を見せつけました。

裴行倹はその後周辺の部族を服従させ、李遮匐も降伏させました。彼の戦略は武力だけでなく心理戦を巧みに利用した点に特徴があります。

敗北から巻き返した北部突厥鎮圧の秘策

裴行倹の功績はこれにとどまりません。同年北部でも突厥首領の阿史徳温傅らが反乱を起こし阿史那泥孰匐を可汗に擁立します。

この反乱に対し唐軍は蕭嗣業が指揮を執りました。しかし1万人もの死者を出して大敗してしまいます。そこで高宗は再び裴行倹に鎮圧を命じました。

裴行倹は30万もの兵を率いて出陣しました。彼は過去に物資輸送部隊が襲われたことを教訓にします。300台の荷車に偽装した兵を隠れさせました。物資を奪いに来た突厥兵を撃退します。その後、裴行倹の部隊は突厥軍を打ち破り敗北した阿史那泥孰匐は部下に殺害されました。

この勝利は裴行倹が過去の失敗から学び、実践に応用できる優れた指揮官であったことを示しています。

吐蕃との戦いと戦場の指揮

上元三年(676年)には吐蕃が唐の領土を侵略しました。裴行倹は都から離れ洮州道左二軍総管に任命されます。その後、秦州右軍総管へと異動しました。いずれも周王 李顕の指揮下で任務にあたっています。彼は常に最前線で唐の防衛に尽力しました。

 

文武両道!裴行倹の人材登用と文化的才能

「裴と李」「裴と馬」に称された画期的な人事制度

裴行倹は軍事面だけでなく行政面でも優れた才能を発揮しました。彼は朝廷に召還され司文少卿、後に吏部侍郎に任命されます。

司文少卿(後の司列少常伯吏部侍郎)になって十数年間。彼は李敬玄馬載と共に役人の採用を担当しました。

当時、官吏の候補者が非常に増えていました。そこで裴行倹は長名榜銓注といった画期的な選考制度を創設しました。

これらの制度は国家の人材採用の制度として後世にも長く用いられます。州や県の長官の昇進・降格や役人の経歴を評価する基準も定めました。彼らの有能な人材登用は「裴と李」「裴と馬」と称され、唐の発展に大きく貢献しました。

彼らは単に科挙の成績だけでなく、人柄や実務能力を重視したと言われます。これは現代の採用活動にも通じる、非常に先進的な考え方でした。

武将だけではない!書道に秀でた文人としての顔

裴行倹は武勇や策略に優れていただけではありません。彼は書道、特に草書に秀でていたことでも知られます。

また文集20巻や選譜なども著したと言われていますが、残念ながら現在では残っていません。このことは彼が単なる武将ではなく、当時の文化にも深く精通した文武両道の人物であったことを示しています。彼の幅広い教養が、その後の人生や戦略にも影響を与えたことでしょう。

 

裴行倹の最期と後世への影響

功績を妬まれた不遇の晩年と深い洞察

永隆2年(680年)。裴行倹は再び軍を率いて突厥軍と対峙しました。スパイを送り込んで阿史那伏念阿史徳温傅を仲違いさせ、降伏に追い込みます。彼らを長安に護送しますが、ここで思わぬ事態が起こりました。

裴行倹の功績を妬んだ侍中の裴炎高宗嘘の報告をしたのです。その結果、裴行倹が殺さないつもりだった阿史那伏念と阿史徳温傅は処刑されてしまいます。

裴行倹はわずかな爵位しか与えられず、この功績は正当に評価されませんでした。

彼は「降伏した将兵を殺した後が怖い。このあと服従するものがいなくなるかもしれないからだ」と語り、病気を理由に公の場に姿を見せなくなりました。この件は彼の公正な人柄と深い洞察力を示すものです。

予見が的中した突厥の再建と唐への影響

永淳元年(682年)。突厥が反乱を起こしました。裴行倹は再び鎮圧軍の指揮を任されます。しかしその途中の4月28日、長安の自宅で息を引き取りました。享年64。

彼の不安は後に現実となります。彼の死後、突厥人はソグド人と同盟し唐に抵抗しました。そして東テュルク帝国(突厥第二可汗国)を再建します。

これは裴行倹が予見していた通り、降伏者を殺したことが後世の反乱を招いた結果とも言えるでしょう。彼の死は唐にとって大きな痛手となりました。

武則天の権力掌握と裴行倹の予言

裴行倹が反対した武則天は、後に皇后の座では満足できませんでした。ついには自ら皇帝になり「唐」の国名まで一時的にこの世から消しました。

これは裴行倹がその即位に反対した際に危惧した「国の災い」が、現実のものとなったことを意味します。

裴行倹の先見の明がいかに正確でだったかがわかります。彼は物事の本質を深く見抜く力を持っていたのです。

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まとめ

裴行倹は文武両道の才に恵まれ、唐の繁栄を支えた人物でした。彼は名将蘇定方から兵法を学び、西域で数々の反乱を巧みな作戦で鎮圧し軍事的な功績を上げます。また有能な人材を採用し行政面でも大きな成果を上げました。

彼の人生で特徴的なのは武則天の皇后即位に強く反対したことです。この反対により左遷されますが、その結果西域で手柄を立てるきっかけとなりました。しかし功績を妬まれ不遇な扱いを受けるなど、波乱に満ちた生涯を送りました。

彼の死後に突厥帝国が再建され、彼の不安は的中してしまいます。また裴行倹が反対した武則天は後に皇后の座では満足できず、皇帝になり「唐」の国名は一時この世から消えました。

裴行倹は物事の本質を見抜く力が鋭い人物だったと言えるでしょう。彼の生き様は、困難な時代を駆け抜けた一人の人間の偉大さを教えてくれます。

裴行倹が登場する歴史ドラマ・作品

風起花抄(2021年 中国) 演:許魏洲(ティミー・シュー)
風起西州(2023年 中国) 演:許魏洲(ティミー・シュー)

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