ドラマ「武則天」には高宗(こうそう)の長男 李忠(り ちゅう)が登場します。
李忠は一度は皇太子になったものの、権力争いに巻き込まれて悲劇的な最期を迎えてしまいます。彼の繊細でどこか憂いを秘めた姿が心に残った方もいるでしょう。
ドラマ「武則天」の李忠が気になったあなたへ
ドラマの中で描かれた李忠の姿を見て「実際の歴史ではどんな人物だったんだろう?」「ドラマのあの展開は本当にあったことなのかな?」そんな疑問が湧き上がってきたのではないでしょうか。
悲劇の皇子、史実ではどんな人だった?
この記事では、史実における李忠がどのような生涯を送ったのかを、じっくりと解説していきます。ドラマ「武則天」で描かれた李忠の物語が史実とどのように違うのか比較。読み終える頃には、ドラマがもっと面白く感じられ歴史がぐっと身近になるはずですよ。
史実に見る李忠の生涯:唐の高宗の長男として
李忠の誕生と幼少期
李忠(り ちゅう)は、西暦643年にこの世に生を受けました。後に唐の第3代皇帝になる高宗(こうそう)李治(り ち)の一番最初の息子です。字は正本(せいほん)といいます。
彼が生まれた時、父の高宗はまだ皇太子でした。
祖父の太宗(たいそう)が皇帝だった貞観20年(646年)。李忠は、なんと3歳で陳王(ちんおう)になりました。
これは太宗が初孫の誕生を大変喜んだからだと言われています。宮中での宴では祖父太宗は初孫の誕生を祝って自ら舞を披露したという記録も残っているほどです。
生母・劉氏について
李忠の生母は宮中に仕えていた女官の劉氏(りゅうし)でした。残念ながら、彼女がどのような経緯で高宗と出会い、子を産み、側室としてどのような身分であったかなど。詳しい記録はほとんど残っていません。
当時の唐では皇后の子が最も皇位継承の順位が高いです。李忠は長男でしたが生母の身分が低かったので優先順位は高くありません。
この生母の低い身分が李忠の将来、特に皇太子としての立場やその後の運命に大きな影を落とすことになるのです。
皇太子への道:権力争いと後ろ盾
王皇后と蕭淑妃の権力争い
李忠が皇太子になった背景には当時の宮中で繰り広げられていた権力争いが関係しています。
高宗の正室・王皇后(おうこうごう)と、寵愛を受けた側室・蕭淑妃(しょうしゅくひ)が激しく争っていました。二人は高宗の愛情を巡って対立、お互いを蹴落とそうと画策していたのです。
子供がいなかった王皇后は自分の立場を確かなものにするため、皇子を味方につける必要があったのです。
李忠が皇太子になった経緯
その王皇后が目をつけたのが高宗の長男 李忠でした。王皇后の叔父 柳奭(りゅうせき)は王皇后に李忠を皇太子に立てることを強く勧めます。
もし李忠が皇太子になれば、将来的に王皇后の支えとなり自分たちの権力を維持できると考えたからです。王皇后もこの提案に乗りました。
柳奭は褚遂良(ちょすいりょう)、韓瑗(かんえん)、長孫無忌(ちょうそんむき)、于志寧(うしつねい)といった太宗時代から仕える重臣たちと共に高宗に李忠を皇太子とするよう強く働きかけました。彼らも王皇后を支持していたからです。
その結果、永徽3年(652年)。李忠はわずか8歳で皇太子に任命されました。生母の身分は低かったものの、有力な外戚(王皇后の親族)と、朝廷の重臣たちの支持を得たので李忠は皇位継承の最も有力な候補となったのです。
そして永徽6年(655年)には成人を迎えています。
なぜ廃位された?武則天の台頭と李忠の失脚
新たな皇后、武則天の登場
李忠が皇太子になった永徽3年(652年)から3年後の永徽6年(655年)に宮廷の状況は大きく変わってしまいます。
この年、王皇后が廃され武則天(ぶそくてん)が高宗の新たな皇后になったのです。武則天にはすでに高宗との間に皇子の李弘(り こう)がいました。
李弘はまだ3歳でしたが、武則天はやはり自分の子を皇太子にしたいです。
王皇后は廃位されたとはいえ、李忠はまだ王皇后派の重臣を後ろ盾にもっています。李忠は武則天が権力基盤を固め自分の息子を皇帝にするために非常に邪魔な存在だったのです。
武則天派の工作と大臣たちの思惑
武則天は自分の息子を皇太子にするため、李忠を皇太子の座から引きずり下ろすことにします。
武則天と結びついていた礼部尚書の許敬宗(きょけいそう)は、高宗にある提案をしました。それは、漢の光武帝の時代の古い出来事(身分の低い生母の子よりも、新しい皇后の子を優先したという話)を引用。生母の身分が低い李忠よりも、新しく皇后となった武則天の嫡子である李弘を皇太子に立てるべきだというものでした。
もちろんこれは武則天の考えを代弁し、李忠を廃位するためのきっかけ作りです。
この皇太子廃位の動きには、朝廷内の大臣たちの間で激しい対立がありました。褚遂良や長孫無忌といった古くからの重臣たちは、武則天の独断専行を警戒し、李忠を支持していました。
しかし、許敬宗のように武則天の勢いを察して彼女に味方する大臣たちもいました。
最終的には武則天を支持する大臣たち勝ち、彼らの提案が高宗に受け入れられました。
顕慶元年(656年)。わずか13歳だった李忠は皇太子の座を奪われてしまいました。
表向きには「李忠が病気を理由に自ら皇太子の位を辞退した」と発表されましたが、明らかに政治的な理由によるものでした。
史実とどう違う?ドラマ「武則天」と李忠の比較
ドラマ「武則天」の李忠は史実を元にしていますが、物語としての面白さを追求するために大胆なアレンジが加えられています。
ここが、ドラマを見た人が一番気になるところでしょう。史実の李忠とドラマで描かれた李忠の姿を具体的に比べてみましょう。
生母や幼少期の描かれ方
李忠の生母 劉氏は女官だったこと以外、詳しい記録はほとんど残っていません。生母の身分の低さが、彼の立場の弱さにつながった可能性があります。
ドラマでは生母の劉氏は高宗に仕える宮女。劉氏は息子を奪おうとする王皇后を陥れるため自害して王皇后に罪をなすりつけようとしました。李忠は深く傷つき、その後の復讐心につながる重要なきっかけとして描かれています。
またドラマでは異母弟の李素節に生母の身分を理由にいじめられる場面があり、幼い頃から屈辱を味わっていた様子が強調されています。
後ろ盾を得た経緯の違い
王皇后は子供がいなかったので長男 李忠を皇太子にして彼を指示することで地位を固めようとしました。李忠は王皇后の養子になったというよりは、王皇后とその支持者によって皇太子に担ぎ上げられたのです。王皇后の「養子」になったという記録は確認されていません。
ドラマでは劉氏は王皇后に罪をなすりつけようと自害。生母の死後、李忠が王皇后の養子になり「嫡長子」という身分を得ます。これは史実とは違うドラマオリジナルの設定です。この経緯から、ドラマの李忠は王皇后や武媚娘(武則天)に複雑な感情を抱くようになります。
廃位に至る動機と行動の違い
李忠が皇太子を廃位された主な理由は、武則天が自分の息子を皇太子にしたいという政治的な意図と、それを後押しする武則天派大臣たちの策略によるものです。
史実では李忠は廃位後に精神的に不安定だったと記録されていますが、これが廃位の原因になったというよりは、廃位後の状況で精神を病んだと見るのが一般的です。彼自身が積極的に帝位を奪うための行動をしたという明確なありません。
ドラマの李忠は生母の復讐と武媚娘への恨みから、自分の意思で帝位に就くことを決意。積極的に行動を起こします。ドラマ後半では父 高宗を闕楼での宴会中に毒殺しようと企てるという、史実にはない劇的なシーンが描かれています。
この毒殺未遂が武媚娘に阻止され、太子位を辞任させられてしまいます。これは史実の廃位経緯とは大きく違います。
最期の描かれ方の違い
李忠は皇太子廃位後に梁王となり、その後庶人に落とされ、遠い地の黔州に幽閉されました。そして麟徳2年(665年)に亡くなりました。享年22歳でした。
死因については様々な説がありますが、武則天の指示による賜死、つまり死刑だったという見方が有力です。直接的な原因として、前年に起こった事件(宦官の王伏勝らが武則天を告発しようとした件)に、かつて李忠に仕えていた王伏勝が関わっていたことから、武則天派の許敬宗が李忠もこの陰謀に関わっていると告げ口したことが挙げられています。
ドラマでは闕楼での毒殺未遂事件が発覚した後、高宗から毒酒を賜り血を流して死亡。非常に衝撃的な最期が描かれています。
これも史実の賜死という記録を元にしつつも、ドラマティックな演出が加えられていると言えるでしょう。
人物像・性格描写の比較
史実の李忠に関する人物像や性格を直接的に示す記録は多くありません。
しかし廃位後に刺客を恐れて女物の服をこっそり着たり、悪夢にうなされて自分で占いをするなど、精神的に不安定だった様子がうかがえるエピソードが残っています(顕慶5年、18歳頃)。
ドラマの李忠は生母や王皇后の運命に心を痛め、復讐を誓います。悲劇の運命に翻弄される繊細さや、王皇后をひそかに弔うといった複雑な感情、そして帝位への執着(復讐のためですが)が強調されています。
史実の記録にあるような、精神的な不安定さを示す具体的な奇行はあまり強調されません。全体的には史実よりも人間的な葛藤やドラマティックな動機付けが強く描かれていると言えるでしょう。
廃位後の李忠:波乱の後半生と最期
皇太子を廃された李忠は、まず梁王(りょうおう)という称号を与えられ、梁州都督として比較的穏やかな生活を送ることが許されました。
しかしその後、房州刺史(ぼうしゅうしし)へ転任になります。
廃位後の幽閉生活
顕慶5年(660年)、18歳になった李忠はついに皇族の身分を剥奪され庶人(しょじん)に落とされてしまいます。
そして、かつて廃太子となった李承乾(太宗の長男)が流された地でもある遠い地の黔州(けんしゅう)に移送され、彼の邸宅跡に幽閉されることになったのです。
皇位継承者から一転、自由を完全に奪われた監視下の生活を送ることになりました。
李忠の死因と背景
李忠は、幽閉先の黔州で麟徳2年(665年)に亡くなりました。享年22歳という短い生涯でした。
死因については武則天の指示による賜死であったという見方が有力です。
直接の原因は前年に起きた事件が関係しています。
麟徳元年(664年)。宦官の王伏勝(おうふしょう)は武則天が導師を招いて呪術を行っていると報告。すると宰相の上官儀(じょうかんぎ)が高宗に武則天の皇后廃位を進言しました。
自分の廃位の動きが
あるのを知った武則天は激怒。この時、武則天派の許敬宗が王伏勝と上官儀はかつて李忠に仕えた事があるので今回の廃后の陰謀に李忠も関わっていると武則天に告げ口したのです。武則天はこの告げ口を受けて李忠に死を命じたとされています。
流刑後の李忠が王伏勝と連絡をとっていたという証拠はありません。許敬宗の考えたこじつけです。李忠は無実の罪を着せられて殺害された可能性が高い、非常に悲劇的な最期だったと言えるでしょう。
李忠の名誉回復
李忠は彼の異母弟で武則天の息子である唐の中宗(ちゅうそう)が皇帝になった神龍初年(705年頃)に燕王(えんおう)の位を贈られ、太尉(たいい)・揚州大都督(ようしゅうだいととく)という高い官位も贈られています。
つまり彼の死後に名誉が回復されたのです。後世の人々は李忠に非はなく、武則天の被害者とみていたのでしょう。
まとめ:李忠から見る唐の歴史とドラマの魅力
激動の時代の皇子
李忠の生涯はわずか22年という短いものでした。彼の人生は唐王朝の初期の皇位争いの難しさや権力争いの激しさをよく現しています。
長男として期待されていたものの、生母の身分や有力者たちの思惑に翻弄され、皇太子になったと思えば、武則天という強大な女性の登場によってその座を追われました。
そして最後は武則天の権力維持のための犠牲となった可能性が高いのです。
彼は激動の時代に翻弄された皇子だったと言えますね。
ドラマで興味を持ったら史実も面白い
ドラマ「武則天」では武則天をいい人に描くために王皇后や李忠に落ち度があった。問題があったように描かれています。
でも歴史の記録はその逆です。王皇后や李忠は武則天の被害者といえます。歴史書が事実をそのまま記録しているとは限りませんが。ドラマもエンタメ作品として面白くするために脚色されるのが当たり前。
ドラマで興味をもったら史実も調べてみて、両方比較して楽しむのもとても面白い経験になります。
李忠のように歴史にはドラマに負けない、あるいはドラマ以上の劇的な出来事がたくさん詰まっています。歴史を知ればドラマへの理解が深まり、さらに楽しめるはずです。
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