ドラマ「瓔珞<エイラク>」に登場する喜塔臘・爾晴(ヒタラ・ジセイ)は、富察(フチャ)皇后に仕えた後、傅恒(フコウ)の妻になった女官です。
名門・喜塔臘家出身ですが嫉妬深く野心的な一面を持っています。物語が進むにつれてその本性を露わにし、数々の策略で周囲を翻弄しました。
ドラマの中もトップクラスの嫌われキャラのひとり。
史実では富察傅恒の妻は喜塔臘(ヒタラ)氏ではなく那拉(ナラ)氏でした。
この記事ではドラマ「瓔珞」の爾晴の人物像。史実の傅恒の妻との違いについて詳しく解説します。
ドラマ「瓔珞」の喜塔臘 爾晴
喜塔臘·爾晴(ひたら・じせい)は富察皇后に仕える女官。後に傅恒(ふこう)の妻になりました。
名門・喜塔臘(ヒタラ)家の出身
喜塔臘家は満洲貴族。満洲正白旗人。
祖父の喜塔臘 来保は実在の人物。
康煕帝の侍衛を務め、乾隆帝の時代には内大臣や工部尚書を務めました。
来保の息子・誠倫は子員外郎を務め高氏と結婚。高氏は高貴妃の従姉妹です。
爾晴は来保の嫡孫娘なので誠倫と高氏の娘のはず。爾晴にとって高貴妃は母の従姉妹です。
劇中では爾晴と高貴妃の関係は描かれませんでした。描かれていれば面白い話になったかもしれません。
ドラマ「瓔珞」での爾晴の描かれ方
爾晴は物語の序盤は長春宮の掌事宮女(女官)として登場。最初は控えめで大人しい性格の持ち主として描かれています。
でも物語が進むにつれて、彼女の嫉妬深く野心的な一面が徐々に明らかになっていきます。
爾晴は傅恒への恋心を抱いています。でも彼が魏瓔珞に惹かれていることに気づき、嫉妬に狂い始めます。
傅恒と結婚することに成功しましたが。その後も彼の心が魏瓔珞にあることを許せず、様々な策略を巡らせて二人を引き離そうとします。
夫:富察傅恒(フチャフコウ)
・詳しくは富察傅恒のページを御覧ください
子供:福康安
傅恒には乾隆帝の子と言ってますが、実際には傅恒の弟・傅謙の子供。傅恒の子として育てられました。
🧵「#瓔珞 ~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」#54
喜塔臘・爾晴永眠。
皇帝の子を宿し、憔悴した富察皇后に告白。
皇后を自殺に追いやった真の黒幕、瓔珞に強要され自害。
彼女が素直に自害したとはとても思えない(取り押さえて毒を飲ませたかも)
公に罪を暴かれて処刑されて欲しかった。 pic.twitter.com/0qMPxeWPuM— 劉備 (@Liu_P0716) July 31, 2023
主な行動
- 純妃の言葉に煽られ瓔珞に敵意を持ち始めます。明玉を利用して瓔珞との仲を裂こうとします。
- 傅恒が瓔珞と結婚したがっていることを知り嫉妬に狂います。
- 乾隆帝を誘惑しようとしますが失敗、代わりに瓔珞を献上することを提案します。
- わざと乾隆帝を誘導、傅恒と瓔珞の密会を見せようとします。
- 傅恒に瓔珞を救うために自分と結婚するしかないと説得。
- 富察傅恒と結婚。
- 侍女・青蓮を虐待。
- 富察皇后に子作りの方法を献上します。
- 琥珀になりすまして弘暦に醒酒湯を届け、寵愛を受けます。(実際には傅恒の弟の子供を身ごもっています。)
- 七皇子 永琮の早逝を聞いて悲しむ富察皇后に、自身が寵愛を受けて妊娠したことを泣きながら訴え、富察皇后をさらに追い詰めます。
- 傅恒が出征することを知り自殺未遂をしますが、傅恒に「下劣な手段で妊娠した」と見抜かれます。
- 福康安を出産。
- 青蓮を売春宿に売り飛ばします。
- 青蓮の件がばれそうになり、傅恒に追い出されるのを恐れて自殺未遂。
- 最後は瓔珞に過去の悪事を暴かれ自害(瓔珞の命令で明玉が毒を飲ませました)。
- 原作では死ぬ前に「私は一生で二人の男を掌中で転がした…!」という捨て台詞を吐きます。
評判
爾晴はドラマの中で変化の激しいキャラクターの一人。
ネット上では批判的な意見が圧倒的に多いです。
ごく一部、彼女の抱える葛藤や悲しみに共感する声もあります。
史実の富察傅恒の妻・福普 那拉氏
富察傅恒の妻は喜塔臘氏ではなく、那拉氏です。
でも福晋 那拉氏の記録はあまり多くありません。
福普 那拉氏とは?
称号:傅忠勇夫人
地位:一品夫人
生年月日:1722年
没年月日:1793年
母:不明
夫: 富察傅恒
子供:福康安
名門・葉赫那拉氏の一族
生前は「一品夫人」の位をもっていたことが分かっています。重臣の妻に与えられる地位では最高位です。
夫の傅恒は乾隆帝が最も信頼する重臣。傅恒の姉は孝賢純皇后 富察(フチャ)氏。
重臣の夫人たちの間でもかなり高い地位にいた人のようです。
当時の記録には「傅恒は明氏の婿」と書かれていました。当時は明氏といえば康煕帝時代の重臣・納蘭 明珠の一族です。
つまり 福晋那拉氏は納蘭 明珠のひ孫。納蘭 明珠は葉赫那拉(イェヘナラ)氏の出身なのです。
おいたち

福普 ナラ氏 イメージ
一説によれば。福晋・那拉氏の父は納蘭 明珠の孫・永綬といわれます。
1754年(乾隆19年)。息子の福康安が誕生。
那拉氏は福康安のことを「伊子」と呼んでいました。満洲族の習慣では妾の子も「伊子」と呼ばれることもあります。漢民族ほど嫡子と庶子を区別しないのです。
1782年(乾隆47年)。那拉氏は乾隆帝に上奏文を書きました。ひとつは平和を願うもの。もうひとつは息子の福康安が太子太保(従一品)という位をもらったことへのお礼です。
太子太保は皇太子に仕える役職ですが清朝には皇太子がいないので名誉職みたいなものです。従一品なので位は非常に高いです。
1791年(乾隆55年)。広東の総督・郭世勛の報告によると。大越(ベトナム)国王・阮恵(グエン・フエ)が福康安の母の誕生日の贈り物が都に送られてきた。と書かれています。
1793年(乾隆57年)。死去。享年71。
796年(嘉慶元年)。息子・福康安が死去。
福康安の父・傅恒に「郡王」、母・那拉氏に「福普」の爵位が与えられました。福普は王族男子の正妻に与えられる称号。王族に準ずる地位が与えられたのです。
中華民国の都市伝説が爾晴の元ネタに
清朝滅亡後の創作エピソード:傅恒の妻と乾隆帝の密通
清朝が滅亡した後、中華民国では清朝の王族に関する面白い作り話がたくさん作られました。特に中国人は満州人の王朝が滅んだのが非常に愉快に感じたようです。
ドラマにも取り上げられたエピソード
これらの作り話はドラマの設定にも取り上げられています。例えば1912年に出版された「清宮詞」には、以下のようなエピソードが登場します。
傅恒の妻が、富察皇后に会いに宮殿を訪れた際、乾隆帝と密通、後に福康安を産んだ。
このエピソードは、ドラマ「瓔珞<エイラク>」にも登場しました。
ドラマオリジナルではなく、中国にはそのような都市伝説があったのです。もちろん歴史上の傅恒の息子・福康安は傅恒と福晋 那拉氏の子供です。
様々なバリエーション
同じエピソードでも、書籍によって内容が異なります。
1916年に出版された「清史演義」では、傅恒の妻が富察皇后を訪れたのは皇后の誕生日だったとされています。
同じ年に発売された「清朝野史大観」では、乾隆13年(1748年)に富察皇后が乾隆帝の東巡に同行した際、乾隆帝に傅恒の妻との関係を勧めて口論になり、河に投げ込まれたという物語が書かれています。
中国では有名な話
傅恒の妻と乾隆帝の密通は中国では有名な話のようで、1950年代には一部の学者も支持するほど人気がありました。しかし、まともな研究者は歴史的な事実とは認めませんでした。
物語の世界では人気
現代でもこの話は物語の世界では人気があるようです。さらに現代では傅恒の妻の姓も物語によって異なります。
中華民国時代に広まったのは「孫佳氏」という姓です。実際、漢人八旗の中に「孫佳氏」というのがあったようですが、孫佳氏が傅恒の妻になったという記録はありません。
他の物語では「瓜爾佳(カジカ)氏」になっていることもあります。
ちなみに「瓔珞<エイラク>」では、傅恒の妻は「喜塔臘(ヒタラ)氏」です。
中国人にとって「傅恒の妻は乾隆帝と不倫した」というのが大事で、妻の姓はどうでもいいのかもしれません。
テレビドラマ
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
役名:喜塔臘·爾晴 演:蘇青
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