清朝の6代皇帝 乾隆帝には17人の息子がいました。
中国ドラマ「瓔珞(エイラク)」にも何人もの皇子たちが登場します。
この記事では、乾隆帝の息子たちのうち、ドラマ「瓔珞」に登場する皇子たちを紹介。劇中での描かれ方を中心に、史実との違いも合わせて紹介します。
乾隆帝の皇子たち1:皇后の息子
雍正帝以降の清朝には皇太子の制度がなく、能力で跡継ぎを決めていました。皇后の息子だからといって無条件に跡継ぎになれたわけではありませんが。皇后の息子が有利なことには違いありません。
とくに乾隆帝は富察皇后の息子には期待していたようです。
永璉(えいれん)/第二皇子
端慧皇太子
乾隆3年(1738年)。永璉はわずか9歳で亡くなり、富察皇后はたいへん悲しみました。
劇中未登場ですが。セリフの中に登場。富察皇后の心にずっと残っています。
皇子時代の弘暦と富察氏との間に誕生。しかし乾隆帝の即位後に9歳で病死。死後。端慧皇太子の称号が与えられました。
永璉は祖父の雍正帝が命名。将来の皇位継承を期待されていました。「璉」は宗廟の器の意味。古代の皇室が祖先を祀るときに使った器のこと。
永琮(えいそう)/第七皇子
悼敏
琮(そう)は古代の神を祀る儀式に使われた道具。跡継ぎにふさわしい名前であり、乾隆帝は永琮には期待をかけていたのだと思われます。
第39話。純貴妃の策略により、幼くして火災で亡くなりました。
永琮の死は富察皇后を精神的に追い詰めてしまいます。
和碩履懿親王・允祹
永璂(えいき)/第十二皇子
永璟(えいけい)/第十三皇子
乾隆帝の皇子たち2:側室の息子たち
清朝は皇太子を決めないのでどの皇子にも皇位継承の権利はあります。そのぶん皇帝が皇子を見る目も厳しく。問題行動を起こしたり、後継ぎにふさわしくないと判断されると候補から外されました。
永珹(えいせい)/第三皇子
和碩履親王
養母:輝発那拉・淑慎(嫻妃・継皇后)
母は嘉嬪金氏(姉の方)。嘉嬪が瓔珞を陥れようとしたが失敗に終わり、嫻妃 輝発那拉氏が育てることになりました。その後も嘉嬪は永珹を取り戻そうとしますが失敗。
嘉嬪が嫻妃に絞殺されたため、永璂は嫻妃の養子になりました。
短気で怒りっぽい性格。袁春望にそそのかされ養母・輝発那拉皇后との関係が悪化。永琪を陥れようとしましたが失敗。宗人府に監禁されました。
永珹の史実
母は嘉嬪 金氏。後継ぎのいない和碩履懿親王・允祹の養子となり、履郡王になりましたが、38歳で病死。
永琪(えいき)/第五皇子
和碩栄親王
母は側室の珂里葉特(ケリュテ)氏。ドラマ同様に優秀な皇子。西洋から伝わった科学にも興味を持っていました。乾隆帝は勉強熱心な永琪を可愛がっていましたが、骨壊疽という病気で死亡。次期皇帝の有力候補だったと言われます。
永瑢(えいよう)/第六皇子
質荘親王
永璇(えいせん)/第六皇子
儀慎親王
第十皇子
永瑆(えいせい)/第六皇子
成哲親王
乾隆帝の皇子たち3:魏瓔珞の息子
永璐(えいろ)/第十四皇子
永琰(えいえん)/第十五皇子
嘉慶帝
慶妃 陸晚晚が養育しました。
甘やかされ気味に育てられており。遊んでいるところを継皇后に注意されましたが、瓔珞は気にせず健康に育ってくれればいいと思っています。
袁春望の策略で舒妃から贈られた筆の毛に毒が塗られていたので中毒。命を落としかけましたが、治療により助かりました。
後の嘉慶帝。
母は側室の令妃 魏氏。永琪とともに乾隆帝には可愛がられていたといいます。第五皇子 永琪の死後。後継者とみなされるようになりました。35歳のとき父・乾隆帝が譲位。永琰は皇帝になりましたが、実験は乾隆帝が握っていました。乾隆帝の死後、親政を開始。
まとめ
中国ドラマ「瓔珞(エイラク)」に登場する乾隆帝の息子たちは、歴史上の人物をモデルにしていますが、ドラマ独自の解釈や脚色が加えられています。
第五皇子 永琪は史実では学問にも武芸にも秀でた乾隆帝のお気に入りでしたが、ドラマでは火器の事故で足に障害を負い悲劇的な最期を迎えます。
永琰は後の嘉慶帝であり史実では乾隆帝の死後に親政を開始しますが、ドラマでは甘やかされて育てられているように描かれます。
ドラマの演出上、性格やアクシデントが誇張や創作されて描かれている部分も多く。永珹は短気で怒りっぽい性格が災いして養母の継皇后との関係が悪化したり。永琮は純貴妃の策略によって命を落とすという悲劇的な運命をたどり富察皇后を精神的に追い詰める原因となります。
ドラマ「瓔珞」に登場する皇子は史実を忠実に再現しているわけではありません。れけど、ドラマとしておもしろくなるよう、個性的なキャラクターとして描かれています。
ドラマを見るときには皇子たちの成長や葛藤にも目を向けるとより一層楽しめると思いますよ。
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