呉王 李恪(り・かく)は唐朝の皇子。
2代皇帝 太宗 李世民の息子。
母は楊妃。隋の皇帝・煬帝の娘。
李恪は父の李世民からも可愛がられました。武芸や学問もそれなりにできたようですが。赴任先に行くのを断ったり、赴任先で問題を起こすなどわがままなところもあったようです。
兄の皇太子が廃された後は、太宗・李世民から次の皇太子にと期待されたこともありましたが。でも重臣たちの反対で実現しませんでした。
高宗・李治の時代。謀反事件に巻き込まれて処刑されてしまいます。
史実の呉王 李恪(り・かく)はどんな人物だったのか紹介します。
呉王 李恪の史実
どんな人?
名称:恪(かく)
国:唐
称号:長沙郡王→漢中郡王→蜀王→吳王→鬱林郡王(追封)→吳王(追封)
生年月日:619年
没年月日:653年3月10日
享年:34
彼は唐の第2代皇帝・太宗 李世民の息子。
日本では飛鳥時代になります。
家族
父は李世民
李恪の父は太宗 李世民。
李恪が生まれた時は秦王でした。
李泰は李世民の三男。
祖父は唐の初代皇帝 李淵。
母は楊妃氏
李恪の母は太宗の側室・楊氏。
隋の皇帝煬帝の娘です。
李世民即位後に楊妃になりました。
李恪は楊妃にとっては長男です。
母方の祖父は隋の皇帝 煬帝。
唐建国期の李恪
武徳元年(619年)。誕生。
武徳3年(620年)。李恪は「長沙郡王」になりました。
武徳9年(626年)。「漢中郡王」になりました。
626年。父の李世民が玄武門の変を起こし皇帝(太宗)になりました。
母の楊死は四人いる妃のひとりになります。
唐太宗時代の李恪
李恪はわずか9歳で蜀王になり益州の大都督に任命されました。しかし幼少のため赴任しませんでした。その後も秦州、斉州の刺史に任命されますが、秦州には赴任せず、斉州には赴任したものの、荒々しい性格が災いし、違法行為を行ってしまいます。
失態と処分
呉王への昇格と失脚: 呉王に昇格し、潭州都督に任命されますが、赴任せず。その後、安州都督に赴任しますが、ここで大きな問題を起こします。
民への被害と賭博: 安州で農作物を踏みつけたり、賭博を行ったりするなど、民に多大な被害を与え、御史の柳范から弾劾されます。
太宗の怒りと処分: 李世民は李恪の行為に激怒し、安州総督の職を解き、領地を減らして安州刺史に降格させます。
貞観2年(628年)。「蜀王」になりました。益州大都督に任命されましたが、9歲と幼かったので現地に赴任していません。貞観5年(631年)にも秦州刺史(甘粛天水)に任命されましたが、このときも赴任していません。
貞観7年(633年)。 斉州刺史(山東斉南)に任命され現地に赴任しました。ところが荒々しい性格の李恪は現地で違法行為を働いて叱責を受けます。
貞観10年(636年)。「呉王」になりました。潭州都督(治於今湖南長沙)になりましたが赴任しませんでした。
赴任先で問題を起こして安州都督を解任
貞観11年(637年)。 安州都督に任命されて赴任しました。
ところが狩猟に出かけて何度も農作物を踏みにじり、民衆に被害を与えたり、賭博行為を行いました。そのため御史の柳范に弾劾をおこされました。
柳范に弾劾に対して太宗は最初は李恪を庇い、柳范を非難しました。しかし柳范は太宗の過ちを指摘。太宗は激怒して安州総督を解任。領地を300戸を減らして安州刺史に降格しました。
その後、冷静になった太宗は柳范の意見を聞き入れて自分の過ちを認め。李恪の安州都督を解任しました。
再び安州都督になる
しかしこの免職期間は長くは続かず、貞観12年(638年)には李恪は再び安州都督に任命されました。このとき太宗は李恪に宛てた手紙の中で、君主としての自覚と孝行の大切さを説きました。この教え功を奏したのか、李恪は問題を起こさなくなります。
それだけでなく、李恪は権万紀を敬って彼の意見を善く受け入れるようになりました。これには太宗も感心して権万紀の大きな手柄だと褒めました。
李恪を大人しくさせた権万紀を高く評価した太宗でしたが。後に斉王 李祐が同じように問題行動を起こしたときも権万紀を派遣。しかしこのときは失敗、権万紀を失う結果となります。
太宗の子どもたちは問題のある皇子が多かったようです。
太宗は当初、国を安定させるために兄弟や息子たちに封国を与え、世襲させようとしました。しかし多くの重臣から反対されましたが太宗は強行しました。
しかしその後も重臣たちの反対は続き、世襲制は廃止することになります。
李恪の息子は呉王を世襲できなくなったのです。
李恪が皇太子になれなかった理由
貞観17年(643年)。皇太子・李承乾が謀反の罪で廃位され。魏王 李泰も失脚しました。
李恪は隋煬帝の血を受け継ぐ良血です。太宗も李恪をかわいがっていて、一時は皇太子にしようと思ったほどです。でも、次の皇太子になったのは李治でした。
李恪が皇太子になれなかったのは様々な理由があります。
皇后の子が優先されるという慣習
唐王朝では皇后の子が皇太子になることが一般的でした。李恪は側室の子だったので、皇后の子である李承乾、李泰、李治に比べ、皇太子になる可能性は低いとされていました。
でも太宗は李治が弱々しいので不安に思ったようです。
李世民の評価
李世民は李恪を「文武の才」に優れ、「自分に似ている」と評価していました。しかし、具体的な実績としては、馬上の射撃が得意だったことが挙げられる程度です。騎馬民族出身の李一族は伝統的に馬術や弓術が得意でした。李恪も馬に乗っての弓の射撃が得意でした。
でも父のように軍を率いる指揮官として有能だったわけではなく。個人的な技量だったようです。
赴任先での統治はむしろ評判が悪く、問題を起こしていました。
重臣たちの反対
長孫無忌をはじめとする重臣たちは、李恪の皇太子就任に反対しました。その理由は李恪が問題を起こしやすい性格であり、統治能力に疑問があったためです。大人しく問題を起こさない李治の方が重臣たちにとっては扱いやすいと判断されたと考えられます。
李世民の決断
李世民は李恪を可愛がってはいましたが、特別に有能な人物とは考えていなかったようです。重臣たちの反対もあり最終的には李治を皇太子に指名しました。
李恪はその後も安州にいて安州刺史になっていました。
太宗の死後、再び安州都督に任命されました。
李恪の最後
李治が即位しました。高宗 の誕生です。
永徽元年(650年)。李恪は司空・梁州都督になりました。
謀反を計画
永徽4年(653年)。巴陵公主と李元景・李恪・高陽公主、房遺愛・薛万徹・柴令武は荊王 李元景(り・げんけい)を担いで謀反を計画。事前にばれて逮捕されました。
ところが重臣の長孫無忌(ちょうそん・むき)は房遺直を拷問にかけ「李恪が謀反に加担している」と「自白」させてしまいます。
李恪は直接謀反には加わってなかったようです。でも長孫無忌は李恪が高宗・李治の地位を脅かす邪魔な存在と判断しました。
李恪は処刑されることになりました。
李恪は処刑される前に「長孫無忌は一族もろとも滅んでしまえ!」と叫びました。
息子たちも流罪
李恪の四人の息子、李仁、李瑋、李琨、李璄は嶺南に流罪になりました。
顕慶5年(659年)。鬱林郡王(親王為正一品,嗣王、郡王為從一品)に追封されました。
光宅元年(684年)。4人息子は釈放されました。
テレビドラマ の 呉王 李恪
武則天 2015年、中国 演:李解
大唐流流 2021年、中国 演:檀健次 役名:周王
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