明の3代皇帝 永楽帝には数多くの側室がいました。しかしその裏には残酷な運命が待ち受けていました。
特に永楽帝の死後に行われた側室たちの殉葬は数も多くなります。朝鮮から来た貢女たちや、宮廷内の政治闘争に巻き込まれた女性たちなど、彼女たちの生涯は悲劇に満ちていました。
この記事では、永楽帝の正室 仁孝文皇后徐氏や様々な側室たちを紹介します。
以下に永楽帝の生年も書いておきます。妻たちとの年齢差もみてみると興味深いかもしれませんよ。
廟号:太宗 後に 成祖
生年:1360年5月2日
没年:1424年8月12日
皇帝在位 1402年7月17日~1424年8月12日
享年:65歲
永楽帝 朱棣の正室
仁孝文皇后 徐氏
(じんこうぶんこうごう じょし)
永楽帝最愛の人・明史上最も賢い皇后
名:不明
称号:仁孝慈懿誠明莊獻配天齊聖文皇后
地位:燕王妃→皇后
生年 1362年
没年 1407年(永楽5年)
享年 45歳
朱高熾(洪熙帝)、朱高煦、朱高燧、永安公主、永平公主、安成公主、咸寧公主
幼いころから読書が好きで賢い女性。若い頃は女学者と呼ばれていました。永楽帝が燕王だった洪武9年(1376年)に結婚。燕王妃になりました。
夫婦仲はよく7人の子供が誕生。靖難の変では留守の夫に代わり息子たちとともに鎧を来て城を守りました。
永楽帝即位後は皇后になり。驕り高ぶることはなく、一族の出世も望みませんでした。女性の教育のために「内訓」「高皇后聖訓」「勧善」を書いています。
永楽帝が即位して間もない1407年(永楽5年)に病死。
主なドラマ
永楽帝・大明天下の輝き
役名:徐妙雲
演:穎児
永楽帝の側室:貴妃
昭献貴妃 王氏
(しょうけんきひ おうひ)
徐皇后亡き後の後宮の実力者
名:不明
地位:昭献貴妃
蘇州出身。
生年:不明
没年:永楽18年(1420年)
昭献貴妃は永楽元年(1403年)に良家から選ばれ宮中に迎え入れられました。
皇后や賢妃といった有力な后妃が亡くなると、昭献貴妃が最も大きな力を持つようになりました。
永楽帝は晩年になると気が短くなり、周囲の人々を怒鳴ることが多くなったのですが、人々はよく昭献貴妃にとりなしを頼んでいたようです。
ところが昭献貴妃が亡くなってしまうと、永楽帝はますます残酷な性格になってしまったと言われています。
昭懿貴妃 張氏
(しょういきひ ちょうし)
父は元の武将・詳細のよくわからない妃
名:不明
生没年不明。
父は将軍・張玉
永楽7年(1409年)に貴妃になりましたが、詳しい記録はありません。
王貴妃が亡くなった永楽18年(1420年)にはすでに「昭懿」の諡号がついています。それまでに故人になっていたようです。
永楽帝の側室:妃
恭献賢妃 権氏
(きょうけんけんひ ごんし)
朝鮮から来て永楽帝の寵愛を受けた妃
名:不明
朝鮮出身
生年:1391年
没年:永楽8年(1410年)
永楽6年(1408年)、貢女として明に送られました。権氏は永楽帝の心を掴み寵愛を受けました。徐皇后が亡くなると、後宮の管理を任されるようになり後宮で大きな力を持つようになります。
永楽帝が北元に遠征する際には賢妃も同行したことがあります。しかし遠征から戻った直後に賢妃は急死してしまいました。
永楽帝は賢妃が毒殺されたのではないかと疑い、その原因を突き止めようとしました。その結果、後宮の女性たち数百人が処刑されてしまうという悲劇が起こります。
順妃 任氏
魚呂の乱で自害
名:不明
朝鮮出身
生年:洪武25年(1392年)
没年:永楽19年(1421年)
順妃 任氏は、永楽7年(1409年)に貢女として明に送られ、永楽帝の妃となりました。
しかし永楽19年(1421年)に起きた「魚呂の乱」という事件に巻き込まれ、側室の鄭氏とともに首を吊って自害してしまいます。
康靖荘和恵妃 崔氏
(こうせいそうわけいひ さいし)
朝鮮から来て永楽帝の死後殉葬された妃
名:不明
朝鮮出身
生年:洪武28年(1395年)
没年:永楽22年(1424年)
永楽7年(1409年)に貢女として朝鮮から明に送られました。
永楽19年(1421年)の「魚呂の乱」では崔氏は病気のため、南京にある宮殿にいました。そのため、乱に巻き込まれることなく無事でした。しかし永楽帝が亡くなった後、明の習慣に従い「殉葬」されてしまいます。
忠敬昭順賢妃 喩氏
削除: 名:不明
削除: 生年:不明
削除: 没年:永楽19年 (1421年)
記録がなく詳しいことは不明。
永楽19年 (1421年)。死去。
喩氏の死後、紫禁城で火災が発生。
「魚呂の乱」が起こりました。
主なドラマ
尚食
役名:喩美人
演: 曾一萱
康恵荘淑麗妃 韓氏
(こうけいそうしゅくれいひ かんし)
朝鮮の仁粋大妃の親戚も永楽帝の側室に
名:不明
朝鮮出身
生年:不明
没年:永楽22年(1424年)
仁粋大妃(10代朝鮮王 成宗の母)の親戚。
永楽15年(1417年)。朝鮮から貢女として明に送られ、永楽帝の側室になりました。
永楽19年(1421年)の「魚呂の乱」では韓氏はこの乱に関わった疑いをかけられてしまいました。
そのため、冷宮と呼ばれる部屋に閉じ込められ数日間、食べ物や飲み物を与えられませんでした。
しかし門番の宦官がこっそりと食事を差し入れたおかげで飢え死にを免れ、後に解放されることができました。
しかし韓氏の侍女たちは全員この事件に関わったとして処刑されてしまいます。
永楽帝が亡くなった後、明の習慣に従い殉葬になってしまいます。
主なドラマ
尚食
役名:韓荘妃
演:鄧莎
ドラマでは幽閉中の韓妃に食事を届けたのは門番の宦官ではなくヒロインの姚子衿になってます。
康穆懿恭恵妃 呉氏
(こうぼくいこうけいひ ごし)
燕王時代からの側室も殉葬
名:不明
生年:不明
没年:永楽22年(1424年)
永楽帝 朱棣がまだ燕王と呼ばれていた頃からいた側室。
洪武24年(1392年)には、朱棣の四男 朱高爔(しゅこうひ)を産みましたが、残念ながら生後1か月で亡くなってしまいました。
永楽帝が即位した後、呉氏については詳しい記録が残されていません。永楽帝が亡くなった永楽22年(1424年)に「殉葬」担ってしまいました。
恭順栄穆麗妃 陳氏
名:不明
生年:不明
没年:永楽22年(1424年)
永楽20年(1422年)。入宮。
永楽22年(1424年)。永楽帝が死去。明の慣習で殉葬されました。
まだ20歳になってなかったと思われます。
黄妃
永楽帝から嫌われた側室、魚呂の乱で処刑
名:不明
朝鮮出身
生年:1401年
没年:永楽19年 (1421年)。
永楽15年(1417年)。朝鮮から韓氏とともに貢女としてやってきました。封号は不明。少なくとも「妃」にはなったようです。
北京到着後に黄氏が処女でなかったことが発覚。姉の夫と密通していた事がわかり、永楽帝は朝鮮太宗 に問いただそうとましたが、韓妃が「黄家の問題で王とはかかわりありません」とりなして朝鮮王への処罰は取りやめになり、代わりに韓妃が黄氏に罰を与えることになりました。
その後も黄妃に対する永楽帝からの評価は低く。永楽帝が朝鮮太宗に送った書簡には黄妃への不満を書いています。
永楽19年 (1421年)。「魚呂の乱」が発生。黄氏は拷問を受け、彼女の口から大勢の人の名前が出てさらに逮捕者は増えました。その後、黄氏は処刑されました。
鄭妃
朝鮮から来て魚呂の乱で処刑
名:不明
朝鮮出身
生年:1401年
没年:永楽19年 (1421年)。
永楽7年(1409年)。朝鮮から貢女としてやってきました。
封号は不明。少なくとも「妃」にはなったようです。
永楽19年 (1421年)。「魚呂の乱」で連座して処刑されました。
永楽帝のその他の側室
昭儀 李氏
名:不明
朝鮮出身
生年:1392年
没年:永楽19年 (1421年)。
永楽7年(1409年)。朝鮮から貢女としてやってきました。
昭儀(嬪)に任命されました。
永楽19年 (1421年)。「魚呂の乱」が発生。黄氏とともに捉えられ拷問を受けました。黄氏は道連れを増やそうと大勢の人の名前を白状しましたが、昭儀李氏は一人で死ぬと証言しませんでした。その後、李氏は処刑されました。
主なドラマ
尚食
役名:李昭儀
演: 高洋
婕妤 呂氏
名:不明
朝鮮出身
生年:1393年
没年:永楽19年 (1421年)。
永楽7年(1409年)。朝鮮から貢女としてやってきて婕妤に任命されました。
権賢妃の死と呂氏の悲劇
永楽8年(1410年)、永楽帝が大変寵愛していた権賢妃が突然亡くなってしまいました。永楽帝は深く悲しみ権賢妃の死因を徹底的に調べさせました。
その結果、永楽帝は婕妤呂氏が権賢妃を毒殺したと疑い、拷問を加えた上で処刑してしまいました。呂氏に仕えていた宦官や侍女たちも処刑されました。
しかし後になって実は無実だったことが明らかになりました。
その他・よくわからない側室たち
上記以外にもよくわかっていない側室が何人もいます。
端静恭恵淑妃 楊氏
恭和栄順賢妃 王氏
昭粛靖恵賢妃 王氏
昭恵恭懿順妃 王氏
恵穆昭敬順妃 銭氏
安順恵妃 龍氏
昭順徳妃 劉氏
康懿順妃 李氏
恵穆順妃 郭氏
恭栄美人 王氏
景恵美人 盧氏
荘恵美人(姓氏不明)
永楽帝の死後、16人の側室が殉葬されました。
これらの妃嬪の多くが永楽帝の死後、殉葬されたと考えられます。
4文字以上の長い諡号を持つ人は殉葬の場合が多いです。
永楽帝と側室たちの壮絶な運命
永楽帝の時代は大勢の側室がいる華やかな後宮でしたが、陰惨さが入り混じった時代でした。明では初代太祖が殉葬を決めていたため、永楽帝の死後は多くの側室が殉葬されてしまいます。
殉葬の慣習と永楽帝の側室たち
殉葬とは: 皇帝が亡くなった際、側室たちが、皇帝の後を追って自ら命を絶つ、あるいは殺されるという慣習です。古代中国にはあった習慣ですが、長らく途絶えていました。明では建国者の高祖 朱元璋が殉葬を決めています。
永楽帝の側室の殉葬: 永楽帝の死後、少なくとも16人の側室が殉葬されたとされています。永楽帝は側室も多かったので殉葬される人も多くいました。
諡号と殉葬の関係: 殉葬された側室は非常に長い諡号(しごう)を持つ者が多く見られます。
子の有無と殉葬: 子のいない側室は原則として殉葬されることが多いです。
朝鮮出身の側室たち
永楽帝の時代は朝鮮から多くの貢女が中国に送られました。これらの貢女の中から永楽帝の側室となった女性が少なくとも7人います。朝鮮との関係が深かった永楽帝の時代は、特に朝鮮出身の側室が多かったことが特徴です。
魚呂の乱と側室たちの死
永楽帝の時代には、「魚呂の乱」と呼ばれる事件が発生。多くの側室が巻き込まれて命を落としました。この事件では、濡れ衣を着せられて処刑された者や、拷問を受けた者もいたとされています。
ただし「魚呂の乱」は明の記録にはなく。朝鮮側の記録にしかありません。ティムール朝の使者の記録には、この時期に宮殿で火事があり大勢が死亡したことが書かれています。この事件が朝鮮側で誤って伝わっているか、脚色されている可能性があります。
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