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徐皇后(仁孝皇后) 永楽帝の正妻の史実

徐皇后 2.2 明の皇后・側室・公主
徐皇后

仁孝皇后 徐氏は明の第3代皇帝 永楽帝 朱棣の正妻。

徐皇后、仁孝文皇后ともいいます。

中国ドラマ「永楽帝・大明天下の輝き」では 徐妙雲(じょみょううん)の名前で登場します。

永楽帝が燕王時代からの妻。頭がよく、永楽帝も彼女の助言をよく聞いていました。

靖難の変のときには息子たちと共に夫が留守の城を守りました。

 

史実の徐皇后(仁孝文皇后)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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仁孝文皇后の史実

どんな人?

姓 :徐氏
名称:不明
国:明
地位:燕王妃→皇后
称号:仁孝皇后
生年月日:1362年3月5日
没年月日:1407年8月6日

日本では室町時代になります。

家族

父:徐達
母:謝氏
夫:永楽帝
子供:
永安公主 朱玉英
洪熙帝 朱高熾
漢王 朱高煦
永平公主
趙王 朱高燧
安成公主
咸寧公主

 

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仁孝文皇后の生涯

元朝の時代から明朝へ

徐皇后が生まれた時代は元朝が衰退し、新たな王朝が生まれようとしていた激動の時代でした。

華麗なる一族の誕生と幼少期

明朝の建国に大きな役割を果たした名将、徐達の長女として、徐皇后は至正22年(1362年)に誕生しました。

父親の徐達は元末から明初期にかけて活躍した武将。明朝を建国した朱元璋を支えた功臣の一人です。

母親は謝氏、外祖父は謝再興という人物でした。

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明の天才少女、徐氏:皇后への道

幼少期から現れた非凡な才能

徐氏は幼少の頃から並外れた賢さ示しました。特に記憶力に優れ、一度読んだ書物をすぐに暗記してしまうほどです。その才能を見抜いた両親は彼女に経典の学習をさせ、やがて徐氏は「女諸生」と呼ばれるほどの才女に成長しました。

洪武帝の目に留まり皇后候補に

徐氏の評判は宮廷にも届き、洪武帝・朱元璋の耳にも入りました。朱元璋は徐氏を自身の息子、後の永楽帝・朱棣の妻にしようと決意。

洪武帝は徐達を呼んで

洪武帝「朕と卿は身分を超えた友である。古より君臣が心を通わせ、しばしば子らを結婚させてきた。卿に立派な娘がいるなら朕の子の棣に嫁がせよう」

と言いました。

徐氏は12歳ごろに宮中に入り、皇后・馬氏の元で教育を受けながら朱棣との縁談が進められました。

結婚前から深かった二人の関係

このように徐氏と朱棣は結婚前からお互いをよく知っていた可能性もあります。

燕王 朱棣と結婚して燕王妃になる

若くして燕王の妻となり、北平で夫を支える

15歳で燕王・朱棣と結婚、多くの子供を授かる

徐氏は15歳で結婚。燕王妃となりました。容姿端麗で聡明な彼女は姑の馬皇后からも高く評価されました。

朱棣とも仲がよく長女の朱玉英をはじめ、後の洪熙帝となる朱高熾など、3男4女をもうけました。朱棣の9人の子供のうち最初の7人が徐氏の子であったことからもその絆の深さが伺えます。

北平に移り、王府の運営を支える

洪武13年。徐氏は夫の領地である北平(現在の北京)に移り住みました。北平は明の北方の守り。モンゴルからの侵攻に備える重要な拠点でした。燕王・朱棣はこの地を任され大規模な組織を率いていました。

燕王府には審理所、典膳所など様々な部署があり、多くの役人が働いていました。朱棣一人でこれら全てを管理するのは大変です。徐氏王府の家政の長として夫を支えました。彼女は幼い頃から名将・徐達の影響を受け武家の娘らしい気概と家臣を率いる能力を備えていました。

夫の政治を支え、北平の礎を築く

朱棣が政治的な決断を下す際、徐氏は積極的に意見を述べ夫にアドバイスしました。彼女の知性と冷静な判断力は朱棣の政治にも大きな影響を与えたと考えられます。

徐氏は夫の政治を支え北平の礎を築く上で重要な役割を果たしました。

建文帝の時代:靖難の変で北平を守る

建文帝の政策と燕王の反乱

明朝の第2代皇帝・建文帝は皇族の勢力を恐れ、諸王の領地を削減しました。特に燕王・朱棣の兵力は大幅に削られ朱棣は不満を抱えていました。

建文元年(1399年)。ついに朱棣は反乱を起こし靖難の変が始まりました。建文帝は朱棣の反乱鎮圧を命令。朱棣がいない間に北平は朝廷軍に包囲されてしまいます。

徐皇后の奮戦と北平の守備

北平に残された世子の朱高熾は母親 徐氏の指示に従い城の防衛にあたりました。

徐氏は城内の将兵や市民を鼓舞し自らも城壁に登って指揮を執りました。女性たちにも武器を持たせ、城壁から石を投げさせ敵の攻撃を阻止。徐氏の勇猛な姿は城内の士気を高め北平は落城の危機を免れました。

靖難の変の終結と徐氏の皇后冊立

その後、朱棣軍は勢いを増し建文4年(1402年)には明の首都・応天府を陥落させました。朱棣は皇帝(永楽帝)となりました。永楽帝は妻の徐氏を皇后にしました。

皇后冊立の際には従来の皇后の印である「金宝亀紐」を「盤龍紐」に格上げ。立后の儀式を盛大に行うなど徐氏への敬意を表しました。この慣習は後の明や清の王朝でも継承されました。

 

永楽帝の時代:皇后の務め

仁孝文皇后 徐氏

仁孝文皇后 肖像画

永楽帝 朱棣が即位後も、永楽帝と徐皇后の仲は良く2人は常に一緒に過ごし政治について話し合っていました。

永楽帝が政務を行っている間、徐皇后は食事を取らずに待ち続け永楽帝が戻ってきてから一緒に食事をしました。永楽帝が奏疏を処理している間は徐皇后は静かに待っていました。待たされるのは気の毒に思った永楽帝彼女に先に休息するよう勧めることもありました。

 

徐皇后のアドバイス

ある時、永楽帝が戻ってくるのが遅かったので徐皇后がその理由を尋ねました。永楽帝は「吏部が経歴に基づいて人員を選び。私がその中から直接20人以上の郡守を決めたので遅れたのだ」と言うと。

徐皇后は「国家の安定は民衆の安定にかかっており、民衆の安定は地方の長官が賢明かどうかにかかっています。それなのに経歴を基に地方官を一律に選ぶ必要があるのでしょうか?経歴は官吏の欠点を避けることができますが、人材が埋没してしまいます。そのため優れた人材は例外的に昇進させるべきであり、任期の長い官吏は経歴や功績に基づいて昇進させるべきです。この2つの選び方を同時に使えば良い効果が得られるでしょう」とアドバイス。永楽帝もこの意見に賛成しました。

徐皇后は人々の苦しみを理解することと人材育成の大切さも理解していました。そのため永楽帝は政治を行うときも徐皇后の意見をよく聞きました。

親族の出世を望まない

中国王朝では皇后や妃の家族が出世するのが当たり前ですが。徐皇后は控えめな性格であり、親族が勢力を持つのを抑えようとしました。

徐皇后の弟・徐增寿は靖難の変では朱棣を支持したので建文帝に殺されました。そこで永楽帝は徐增寿に爵位を贈ることにします。すると徐皇后は反対しました。最終的に永楽帝が押し切って徐增寿を定国公に追封。その息子の徐景昌に爵位を継がせました。

徐皇后はこれも辞退しましたが永楽帝が押し切ったので、良い師を付けて教育すれば恥じない臣下になるでしょうと助言。永楽帝は吏部に徐景昌を教育するための師を厳選するよう命じました。

 

徐皇后は皇太子や諸王に親孝行と民を慈しむことを教え、側室たちには争いをせずお互いに敬意を持って接するように教え、親戚には法律と規則を守るように教え、親戚が横暴な行いをすれば宮中に呼び出して叱り、行いの良い謙虚な親戚がいる場合は褒めました。

徐皇后の皇后としてのふるまいは先代の馬皇后とよく似ています。徐皇后は12歳で当時の馬皇后に仕え教えを受けました。徐皇后は自分が皇后になると馬皇后の教えを受け継いで実践していたようです。

 

徐皇后の最後

最期のとき

永楽5年(1407年)。徐皇后は病で寝込むようになりました。病の床にあってもお見舞いに来た永楽帝に人材を選ぶときには慎重に選び、小さな間違いで人を切り捨てるようなことはしないよう。自分の家族を甘やかさないように言い残しました。

そして7月4日。死去。享年46歳。

死後「仁孝皇后」の称号が与えられました。

徐皇后の死後

徐皇后の死後、永楽帝は正妻をもたず皇后をたてませんでした。永楽帝にとってそれほど大きな存在だったのでしょう。

賢く優しい徐皇后が亡くなった後。永楽帝は性格が大きく変わり、短気で不安定になりました。もともと永楽帝は皇位を反乱で甥から奪ったため後ろめたい部分もあり、疑心暗鬼になっている部分もありました。徐皇后の死後は歯止めがかからなくなってしまい、宦官を重用し独裁を強めていきます。

徐皇后の存在は永楽帝の精神の安定にも大きな影響があったようです。

徐皇后が賢い人だったのは確かですが、彼女の才能を見出して教育した両親や馬皇后など、よい教育者に恵まれたのも大きかったと思われます。

永楽22年(1424年)。洪熙帝 朱高熾は母に「仁孝慈懿誠明莊獻配天齊聖文皇后」の諡號を贈りました。

 

テレビドラマ

英雄訣 2015年、中国 演:覃文静 役名:徐妙錦
錦衣夜行  2015年、中国 演:邵美琪
永楽帝 2018年、中国 演:穎児、雨婷(子役) 役名:徐妙雲

 

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