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始皇帝(嬴政)の年表|誕生日・別名・在位期間と中華統一までを簡単解説

始皇帝(しこうてい)こと嬴政(えい・せい)は、戦国七雄をすべて滅ぼし、中国史上はじめて中華統一を成し遂げた王です。

この記事では

  • いつ生まれて、いつ秦王・始皇帝になったのか
  • 「始皇○年」が西暦の何年にあたるのか
  • 中華統一までに何年かかったのか

といった「年と出来事」がひと目で分かるように、始皇帝の生涯を年表にまとめました。

漫画アニメ『キングダム』、ドラマ『コウラン伝』『始皇帝』や小説を読むときの時代把握にも使えるよう、誕生日・別名・在位期間も整理しています。

 

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始皇帝(嬴政)はどんな人物?

戦国七雄をすべて滅ぼし、中国史上はじめて中華統一を成し遂げた王が始皇帝・嬴政です。まずは誕生日や別名、在位期間など基本情報から整理しておきましょう。

誕生日・別名・在位期間まとめ

始皇帝・嬴政の基本データを整理します。「始皇帝 誕生日」「別名」「在位期間」といった調べ物はここだけ見ればOKです。

本名 嬴政(えい・せい)
別名 趙政(ちょう・せい)など
生年月日 紀元前259年2月18日
没年月日 紀元前210年9月10日
地位 秦王(紀元前247年〜前221年)/始皇帝(紀元前221年〜前210年)
荘襄王(嬴子楚)
趙姫
主な子 扶蘇、胡亥(二世皇帝)
日本の時代 弥生時代ごろ

 

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始皇○年は西暦でいつ?主要な年の対応表

「始皇元年」「始皇18年」などの年号はパッと見ただけではイメージしにくいですよね。そこでよく話題になる年だけを選んで「始皇○年=紀元前○年」の対応を一覧にしました。細かい流れはあとに続く生涯年表で確認できます。

※なお本来は嬴政が「始皇帝」を名乗るのは即位26年の統一後ですが。ここではわかりやすさを優先して始皇◯年で統一しました。

 

始皇○年と西暦の対応(代表的な年だけ)

  • 始皇元年 = 紀元前246年
    嬴政が秦王に即位。
    韓から鄭国が来て大規模な用水路工事(鄭国渠)が始まり、驪山陵の工事もスタートします。

  • 始皇4年 = 紀元前243年
    燕の太子丹が秦の人質として咸陽に送られてくる時期です。

  • 始皇5年 = 紀元前242年
    秦が衛国の濮陽を占領し衛王が国を追われます。衛の人々は故郷を失い荊軻もこの頃に流浪の身となります。

  • 始皇7年 = 紀元前240年
    夏太后が亡くなり、宮廷内部の勢力バランスが変化していきます。

  • 始皇8年 = 紀元前239年
    弟・成蟜が反乱を起こして討たれ、嫪毐が長信侯となって権勢をふるいます。鄭国が韓の間者だったことも発覚しました。

  • 始皇9年 = 紀元前238年
    雍城での戴冠・元服ののち嫪毐の乱が発生。反乱は鎮圧され、嫪毐一族は処刑され母后・趙姫は幽閉されます。

  • 始皇10年 = 紀元前237年
    嫪毐の乱の余波で相国・呂不韋が罷免され、政治の表舞台から退きます。逐客令が出されるも、李斯の諫言で撤回されました。

  • 始皇15年 = 紀元前232年
    この頃までに秦は大原郡の三十数城を手に入れ、統一戦争への地ならしを着々と進めています。燕太子丹もこの頃に燕へ帰国します。

  • 始皇17年 = 紀元前230年
    韓王安を捕虜にし韓を滅亡させます。ここから六国滅亡ラッシュが本格的に始まります。

  • 始皇18年 = 紀元前229年
    趙への大規模な攻撃を開始した頃です。「紀元前229年は始皇何年?」という問いに対しては、この年が始皇18年にあたります。

  • 始皇19年 = 紀元前228年
    邯鄲が陥落し趙王遷が捕虜となって趙は事実上滅亡。公子嘉が代に逃れて新たな王となります。

  • 始皇22年 = 紀元前225年
    王賁が魏を攻め、魏王假を捕虜にして魏が滅亡します。李信と蒙恬による楚遠征はこの前後の時期に失敗に終わります。

  • 始皇24年 = 紀元前223年
    王翦が楚王負芻を捕虜とし、楚が滅亡します。

  • 始皇25年 = 紀元前222年
    王賁が燕王喜と代王嘉を次々に捕らえ、燕と代(事実上の残存趙)が滅亡します。これで旧六国のうち五国が消えました。

  • 始皇26年 = 紀元前221年
    王賁が斉王建を降伏させ、斉が滅亡。戦国七雄がすべて秦の支配下に入り、嬴政は「始皇帝」を名乗ります。

  • 始皇32年 = 紀元前215年
    渤海湾の碣石へ巡行し、北方では蒙恬に匈奴を攻撃させます。長城の前身となる防衛線の整備も進められました。

  • 始皇33年 = 紀元前214年
    南方の百越に大軍を送り、長江以南の併合を進めます。北西でも匈奴との戦いが続き、南北同時の軍事行動が行われました。

  • 始皇34年 = 紀元前213年
    秦以外の文字で書かれた書物を処分する「焚書」に相当する出来事が起きたとされる時期です。

  • 始皇35年 = 紀元前212年
    阿房宮の建設や直道の整備など、巨大土木工事が進められます。不老不死の薬を求める始皇帝に取り入り、国費を浪費した方士たちへの粛清もこの頃に行われました。

  • 始皇37年 = 紀元前210年
    第五回の巡行中に病に倒れ、沙丘で死去した年です。太子扶蘇や蒙恬が排除され、末子・胡亥が二世皇帝として即位しました。

 

次に始皇帝 嬴政の生涯の詳しい年表を紹介します。

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嬴政の誕生から子ども時代は?

嬴政(後の始皇帝)は最初から秦の王子として順風満帆だったわけではありません。趙の都・邯鄲で人質同然に生まれ育ち、のちに秦へ戻って太子になるまでには複雑な経緯がありました。この章では嬴政の幼少期と秦に戻るまでの道のりを年表で紹介します。
年表の年齢は数え年です。年表中の年齢もとくに説明がない限りは嬴政の年齢です。
 

紀元前259年(昭王48)正月 1歳
趙の都・邯鄲(かんたん)で嬴政が誕生する。

紀元前257年(昭王50)3歳
父・嬴異人が呂不韋とともに秦へ帰国し、嬴政は母・趙姫とともに邯鄲の母方の家に匿われる。

紀元前251年(昭王56)9歳
昭王が死去して孝文王が即位するが、すぐに没し荘襄王が王位を継ぐ。このころ嬴政も母・趙姫とともに秦へ戻り、王太子となる。

 

若き秦王 嬴政は何をした?

13歳で秦王に即位した嬴政は若い王として国内の権力争いと向き合うことになります。呂不韋や嫪毐の失脚、法家の李斯や韓非との関わりなど、統一戦争の前にまず内側を固めていく時期です。ここでは「秦王時代」の出来事を中心に整理します。
※この年表では史実に合わせて秦王時代と始皇帝時代を区別。
・秦王として即位してから統一までを「秦王政◯年」
・天下統一後を「始皇帝◯年」と表記します。
 

紀元前247年(荘襄王3)13歳
荘襄王死去。嬴政が秦王に即位。

紀元前246年(秦王政元)14歳
韓から鄭国が来て渠(水路)の工事を始める。始皇帝陵(驪山陵)の工事が始まる。

紀元前243年(秦王政4)17歳
燕太子丹が秦の人質になる。

紀元前242年(秦王政5)18歳
衛国の濮陽を占領。荊軻(けい・か)が故郷を失う。

紀元前241年(秦王政6)19歳
衛王を追放。

紀元前240年(秦王政7)20歳
夏太后死去。

紀元前239年(秦王政8)21歳
嬴政の弟、長安君 ・成蟜(せいきょう)が反乱を起こす。成蟜死去。嫪毐が長信候になり、広大な領地を持つ。のころ鄭国が韓の間諜(スパイ)だったことがわかる。

紀元前238年(秦王政9)22歳
伝統に従い雍城に泊まって戴冠、剣を帯びる(元服)。嫪毐(ろうあい)の反乱。嫪毐の配下、一族を処刑。母后(趙姫)を幽閉。

紀元前237年(秦王政10)23歳
嫪毐の反乱の影響で相国・呂不韋(りょふい)を罷免。母后(趙姫)を咸陽に戻す。逐客令(外国人を追放する法律)が出るが、李斯の反対で中止。

紀元前235年(秦王政12)25歳
呂不韋を僻地の蜀に移動させようとしたところ、呂不韋が自殺

紀元前233年(秦王政14)27歳
韓非を秦に呼ぶ。李斯の進言で韓非を投獄、韓非は獄中で自害。

 

中華統一はいつ・どう達成された?六国滅亡までの流れ

秦王嬴政が本格的に外へ打って出て韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を次々と滅ぼしていくのがこの統一戦争の時期です。どの順番でどの国を滅ぼし中華統一まで何年かかったのかを年表形式で追いかけていきます。
 

紀元前232年(秦王政15)28歳
このころ、秦は大原郡の37城を占領。燕太子丹、燕に帰国。

紀元前230年(秦王政17)30歳
韓王安を捕虜にする。韓滅亡。華陽太后が死去。

紀元前229年(秦王政18)31歳
趙を攻撃。

紀元前228年(秦王政19)32歳
趙王遷を捕虜にする。邯鄲が秦の領土になる。趙の事実上の滅亡
趙の公子嘉が代に逃げて王になる。嬴政、趙に行き母の実家に危害を加えたものを穴埋めにする。嬴政が帰国。母后(趙姫)死去。

紀元前227年(秦王政20)33歳
荊軻の嬴政暗殺未遂事件が起きる。

紀元前226年(秦王政21)34歳
燕を攻撃。太子丹の首をとる。

紀元前225年(秦王政22)35歳
王賁に魏を攻めさせました。魏王仮を捕虜にする。魏の滅亡。李信と蒙恬に楚を攻めさせたが敗北。

紀元前224年(秦王政23)36歳
王翦に楚を攻めさせる。

紀元前223年(秦王政24)37歳
楚王 負芻を捕虜にする。楚の滅亡

紀元前222年(秦王政25)38歳
王賁に燕を攻めさせる。燕王喜を捕虜にする。燕の滅亡。
王賁に代を攻めさせる。代王嘉を捕虜にする。代の滅亡(趙の完全滅亡)

5大国を滅亡させ宴会を行う。

紀元前221年(秦王政26)39歳
王賁に斉を攻めさせる。斉王建を捕虜にする。斉の滅亡。

6大国を全て滅亡させ中華の統一

 

始皇帝になってから何をした?改革と巡行・不老不死探し

六国を平定して「始皇帝」を名乗ってからは、戦争よりも「帝国づくり」と「自分の権威づくり」が主な仕事になっていきます。郡県制や度量衡の統一、全国巡行や長城・阿房宮、不老不死への執着など、統一後の出来事をまとめました。
 

紀元前221年(始皇26)39歳
始皇帝を名乗る。

郡県制を支配地域に採用。王が自分の領土を支配する封建制を廃止。秦では嬴政以前から中央から郡や県に派遣された役人が地域を統治。それを秦以外の占領地域に適用。

占領国(六国)の兵器を集めて熔かし、釣鐘と台座、金人(金属製の偶像)を12体制作、宮中に置く。

度量衡の統一。長さ、重さの単位を統一。車輪の幅を統一。漢字の書体の統一。文書の書式を統一。
それまで国によって字の形や書類の書式はバラバラ。それを秦の形に統一。現在の漢字に近い書体がこのとき出来上がる。
その過程で秦以外の字を使った書物を処分。これがいわゆる「焚書」

紀元前220年(始皇27)40歳
始皇帝が秦の西の地に巡行(第一回巡行)。秦発祥の地に向かい、祖先の陵墓と廟(魂を祀る施設)に天下統一を報告。

都の咸陽を中心に伸びる道路を建設。

紀元前219年(始皇28)41歳
東方巡行(第二回巡行)嶧山や泰山に登って神を祀る。

紀元前218年(始皇29)42歳
東方巡行(第三回巡行)山東半島の山(斉の国では八神を祀る聖地)に登り、石碑に自分の顕彰文を刻む。

紀元前216年(始皇31)44歳
祭祀を行う。兵士を連れて咸陽周辺を視察中に盗賊に襲われる。兵士が撃退。

紀元前215年(始皇32)45歳
(第四回巡行)渤海湾の碣石に行き仙人を探す。部下に不老長寿の薬を探させる。
北の国境を視察。将軍・蒙恬に匈奴を攻撃させる。

紀元前214年(始皇33)46歳
南方の百越に50万の大軍を送り長江以南の南方の占領をはじめる。北西でも匈奴と戦う。

紀元前213年(始皇34)47歳
長城の建設。南方の越の地に砦を築かせる。

紀元前212年(始皇35)48歳
九原から雲陽まで山を削り直道を作る。人が増えて咸陽が狭くなったので阿房宮を建設。

不老不死の薬を探している始皇帝につけ込んで、始皇帝を騙し巨額の出費をさせた上に暴言を吐いて逃げた術士たちと仲間や訴えのあった者たち 460人あまりを処刑、埋める。(この話が漢の時代に坑儒(儒教の弾圧)にすり替わってしまう)

紀元前212年(始皇37)50歳
第五回巡行。末子の胡亥と左丞相・李斯が同行。途中で始皇帝は病に倒れる。遺言を宦官の趙高に託す。その後、始皇帝死去

始皇帝の死を秘密にしたまま都の咸陽に戻る。

遺言は処分され、趙高、李斯、胡亥によって偽の遺言が作られ。
太子・扶蘇は自害に追い込まれ、蒙恬が投獄される。

末子の胡亥が二世皇帝に即位。

 

始皇帝についてよくある疑問:Q&Aまとめ

「始皇帝は日本史でいうと何時代?」「中華統一には何年かかった?」など、細かい疑問は年表だけだと拾いきれないこともあります。この項目では、よく検索されるポイントをQ&A形式でまとめ、知りたいところだけすぐ確認できるようにしました。

 

Q.始皇帝はいつ生まれて、いつ死んだのですか?

A.始皇帝・嬴政は紀元前259年2月18日に趙の都・邯鄲で生まれ、紀元前210年9月10日に巡行中に病死したと伝えられます。このページの年表では、生涯を「誕生〜太子時代/秦王時代/統一戦争/始皇帝時代」の4つに分けて整理しています。

Q.「嬴政」「趙政」「始皇帝」はどう違うのですか?

A.「嬴(えい)」が姓、「政(せい)」が名で、本名は嬴政です。趙で人質生活を送っていたころは、滞在先の国名をとって「趙政(ちょうせい)」とも呼ばれました。六国を滅ぼして自らを「始皇帝(しこうてい)」と名乗ってからは、この称号で呼ばれることが多くなります。

 

Q.始皇元年・始皇○年は西暦でいつになりますか?

A.このページの年表では、始皇元年=紀元前246年としています。そこから一年ずつ数えていき、
・始皇4年=紀元前243年
・始皇5年=紀元前242年
・始皇18年=紀元前229年
・始皇26年=紀元前221年(中華統一の年)
・始皇37年=紀元前210年(死去の年)
と対応させています。詳細は「始皇○年と西暦の対応表」の項目を参照してください。

Q.中華統一には何年くらいかかったのですか?

A.秦王に即位した紀元前247年から、最後の斉を滅ぼす紀元前221年までを見ると、およそ26年かけて統一を達成したことになります。ただし、それ以前から秦は数十年にわたって周辺国を少しずつ削っており、長期的な準備の上に統一戦争が行われました。

 

Q.始皇帝の在位期間はどのくらいですか?

A.秦王としては紀元前247年〜前221年まで約27年間、六国を滅ぼして「始皇帝」を名乗ってからは紀元前221年〜前210年まで約11年間在位していました。つまり、王と皇帝の時代を合わせると、およそ40年近くトップに立っていたことになります。

 

Q.始皇帝の時代は、日本史ではいつごろにあたりますか?

A.始皇帝が生きていた紀元前3世紀ごろは、日本では弥生時代にあたります。大陸では巨大な統一帝国が生まれた一方で、日本列島ではまだ稲作の普及と小さなクニの形成が進んでいた段階です。

 

Q.始皇帝はどんな改革を行ったのですか?

A.代表的なものは、郡県制の全国実施、度量衡・車輪の幅・文字(書体)の統一、道路や長城の建設などです。もともとバラバラだった制度や単位を秦の基準で揃えることで、「一つの帝国」として機能させようとしました。このページの「始皇帝の時代」の年表に、主な改革の年を並べてあります。

 

まとめ

始皇帝 嬴政は紀元前259年に生まれ。若くして秦王に即位し国内をまとめたあと、天下統一のための戦いを行い中国史上はじめて統一を達成しました。その後も数々の改革を行い、強大な帝国を築き上げました。紀元前210年に巡行中に病死、その後、秦はわずか数年で滅亡しました。

始皇帝の生涯は中国の歴史において重要な転換期。始皇帝がいなければその後の中国がなかったとい言ってもいいくらいです。しかし急激な拡大と改革には反動も大きく、帝国は長続きしませんでした。その業績は今もなお評価が分かれています。

 

春秋戦国
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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