ドラマ『明蘭』の趙宗全は実在する皇帝でしょうか?
実在はしませんが、宋の英宗(趙宗実/趙曙)がモデル。一部、神宗の要素も入ってます。この記事では、趙宗全と英宗の共通点、実父問題(濮議)も紹介。
この記事で分かること
- 趙宗全は実在しない。
- 宋英宗モデルと言える理由
- 実父問題と史実の濮議とは何か
- 英宗を土台にしつつ、神宗期(改革・対立構図)の要素もあること
趙宗全は実在する?
モデルは宋の英宗
「趙宗全」という名の皇帝は史実にはいません。
ただし『明蘭』の趙宗全は北宋の第5代皇帝 宋英宗(趙曙/即位前は趙宗実)をモデルに作られた人物です。
英宗がモデルと言える根拠
宋英宗モデルと言える理由は次の条件があげられます。
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先帝に実子がいない → 宗室(傍系)から後継が立つ
史実でも仁宗に跡継ぎがいなかったので、宗室の趙曙(=英宗)が継ぎました。 -
新帝の実父が「皇帝」ではなく「親王(○王)」
史実の英宗の実父は濮王・趙允譲です。ドラマの趙宗全の父も「舒王」。実父が親王という点が一致します。 -
実父の扱い(称号・祭祀)が国家の政治論点になる(濮議)
英宗期には、実父・趙允譲を「皇考」か「皇伯」とするかで意見が割れて政治問題になる「濮議」が起きました。ドラマ終盤の50話以降で似たような展開が起こります。 -
即位後は太后や重臣に掣肘され、政局が対立化する構図
ドラマでは即位後も太后と大臣に抑えらる状態が続きます。史実の英宗も重臣たちの反対に会い思うような政治ができませんでした。
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名前の型が近い
ドラマの趙宗全と史実の趙宗実は名前が似ています。英宗を意識して作中名を作ったと考えられます。
一部には神宗の要素も
趙宗全は土台は英宗(養子で即位、実父問題で揉める)に近いです。
一方で、即位後に改革を進めようとして朝廷が賛成派と反対派に分かれ、政策論争が人事(登用・更迭)と結びついて権力争いになる流れは、神宗期の王安石新法をめぐる対立に近いです。
曹皇太后が改革に反対するのも、史実では神宗期に起きた出来事です。
結論:
「傍系継承」「実父が親王」「実父の称号・祭祀が政治対立(濮議)になる」という特徴が揃うため、趙宗全は宋英宗(趙宗実→趙曙)をモデル。それプラス、改革を進める姿や皇太后との対立は神宗の要素を追加した人物だと言えます。
ドラマ『明蘭』の趙宗全はどんな人物?
野心で皇位を奪った皇帝ではない
ドラマの趙宗全は自分から皇位を狙う人物」ではありません。
本人は禹州で静かに暮らしたいと願っていたのに、状況に押されて仕方なく即位する新帝として描かれます。
即位後に待っていた自由に動けない現実
ところが即位してみると現実は甘くありません。新しい政権の立ち上げは仕事が山積みで、しかも宮廷では太后と重臣たちが強い力を握り、皇帝の判断が通りにくい。
趙宗全は自由に動けない窮屈さに追い詰められ、だんだんと疑い深い性格へと変わっていきます。その結果、心身の不調も重なり病に悩まされる人物として描かれます。
顧廷燁の冤罪事件で見える冷たさ
さらに物語の中盤以降では、顧廷燁の冤罪事件に関して趙宗全が冷酷にも見える決断を下す局面が出てきます。
明蘭が殿前で訴えても取り合わないように描かれ「寛厚な人柄だったはずの新帝が、なぜこうなったのか」という変化が後半の見どころになっています。
モデルの宋英宗(趙曙/趙宗実)とは
趙宗全のモデルになった宋の英宗について紹介します。英宗は北宋の第5代皇帝です。生まれた時の名は趙宗実(趙宗實)で、即位前に趙曙へ改め、1063年に即位して1067年に死去しました。
出自(どこの家の人?)
英宗は仁宗(じんそう)の直系の息子ではなく、宗室(皇族の別系統)に生まれました。
父は濮王・趙允譲(允讓)で、仁宗の従兄にあたる人物です。
なぜ皇帝になった?
仁宗は男児が早世して、晩年に後継者がいない状況になりました。
そこで一族から後継者が選ばれ、英宗(当時は趙宗実)が仁宗の養子(皇太子)となります。仁宗が1063年に崩御すると、そのまま英宗が即位しました。
即位後いきなり揉めた「濮議」
即位すると、避けられない問題が出ます。
それが「実父(濮王・趙允譲)をどう扱うか」です。
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実父を“皇帝の父(皇考)”として扱うべきか
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それとも養子の筋を優先し“皇帝の伯父(皇伯)”に留めるべきか
この対立が朝廷を真っ二つに割った論争となりました。それを 濮議 といいます。
在位中のできごと
英宗の治世は短いですが、史料上はたとえば1065年に司馬光へ通史編纂を命じたことなどが挙げられます。
改革も試みましたが、重臣たちの反対にあって思うような成果があげられませんでした。
最期(病気で崩御、後継は神宗)
英宗は1066年ごろに病を得て、1067年1月に死去。次の皇帝は神宗(趙頊)です。
埋葬は永厚陵(河南・鞏義)とされています。
英宗の在位期間はわずか4年でした。
「舒王(実父)」のモデルは濮王・趙允譲?
ドラマでは趙宗全の「実父」が舒王とされています。
舒王のモデルと言えるのが、英宗の父・濮王(ぼくおう)・趙允譲(ちょう・いんじょう)です。
王号(舒王/濮王)は違いますが、役割が同じなのです。
ドラマの舒王も、史実の濮王も親王で新帝の実父という同じです。
この設定が重要なのは、史実の英宗期に実父・趙允譲を礼制上どう扱うか(称号や祭祀)で朝廷が割れる濮議が起きたからです。
ドラマでも実父問題がエピソードとして描かれますが。それができるのも、実際に舒王の扱いが問題になっているからです。
濮議とは何か(明蘭の政治劇が分かる鍵)
ここで問題になる濮議(ぼくぎ)とは何か紹介します。
濮議とは新しい皇帝の“本当の父”を、国家のルール上どう呼びどう祀るかで揉めた事件です。
何が問題だった?
宋英宗は仁宗の養子として皇位を継ぎました。
でも英宗には血のつながった実父(濮王・趙允譲)がいます。
そこで、
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実父を 「皇帝の父(皇考)」 として厚く扱うべきか
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それとも養子の筋を優先して、実父は 「皇帝の伯父(皇伯)」 に近い扱いにとどめるべきか
このどちらにするかで、朝廷内の意見が割れました。
なぜ政治問題になるの?
ただの呼び名の違いに見えますが、実際は 「皇帝の正統性」をどう説明するか に直結します。
実父を“皇考”と認めれば英宗の血筋が強く出ます。
一方で“皇伯”にすれば、仁宗の養子としての筋(皇統のつながり)を強く押し出せます。
だから濮議は礼儀の話ではなく、誰の系統で皇帝が成り立っているかを決める争いでした。
結果として人事や派閥にも影響し朝廷の対立が深まりました。
争点は「実父をどう祀るか」
濮議(ぼくぎ)は、北宋の英宗が即位したあとに起きた政治論争です。
問題点は英宗の実父 濮安懿王・趙允譲を、宮廷の礼制の中で「どの立場として祀るか(どんな呼称・待遇にするか)」という点でした。
争われた2択
問題になったのはどちらの待遇にするかです。
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実父を“皇帝の父”として厚く扱うべき(たとえば「皇考」として扱う)
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養子縁組を優先して、実父は“皇帝の伯父”に近い扱いにとどめるべき(「皇伯」など)
つまり「父」か「伯父」かの問題です。
党派対立の火種になった出来事
この議論は単なる呼び名の話では終わらず、欧陽脩や司馬光らが論陣を張って朝廷が割れ、党派の対立まで発展しました。
『明蘭』でも50話以降に新帝が「実父をどう扱うか」を決めようとして、太后や重臣が礼制を根拠に介入し、皇帝の判断が通りにくくなる場面が描かれます。
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