武則天は中国史上唯一の女帝。
武媚娘(ぶ・びじょう)、武媚(ぶ・び)ともよばれます。
唐の第2代皇帝・太宗 李世民の後宮に入りましたが、太宗の後宮では寵愛を受けていません。
ところが皇太子の李治と親密になり。太宗の死後は一時的に寺に入ったようですが。高宗 李治の後宮に入りました。
武則天とはどんな人だったのでしょうか。
誕生から高宗の側室になるまでを紹介します。
武媚娘(武才人)とは
通称:武媚娘(ぶびじょう)
宮中での名前:武媚(ぶ・び)
王 朝:唐
生 年:624年2月17日
没 年:705年12月16日
武則天の家族と家系図
武則天の家系図を紹介します。
父は隋の商人から唐の貴族へ
武則天の父 武士彠は隋の時代には材木商人でした。商才に恵まれ巨万の富を築き上げます。
その頃、隋の武将だった李淵(り・えん)と親交を結び、李淵が河東に来た際には自宅に招き入れるほどの間柄だったそうです。
隋の重臣。唐国公。後に唐を建国、高祖皇帝になります。太宗 李世民の父。
隋の煬帝の時代。天下が乱れる中、李淵が反乱を起こすと武士彠は資金や物資を惜しみなく提供。李淵を支援しました。
唐が建国されると武士彠の功績は高く評価され「元従功臣」に列せられ、「応国公」という高い爵位を授けられました。さらに工部尚書や荊州都督といった要職にも就き、一介の商人から唐の貴族へと大出世します。
荊州は古くから学問の盛んな土地として知られており、多くの学者が暮らしていました。裕福な武士彠の家に生まれた武則天は、そうした環境で質の高い教育を受けることができ後の活躍の礎を築いたのです。
武則天の母、楊夫人の華麗な家系
武則天の母、楊夫人の家系は一般に思われているよりも遥かに華やかでした。
曽祖父・楊紹は隋の文帝 楊堅も親戚と認め隋の皇族になりました。楊夫人の祖父・楊達も隋の皇族です。楊達は唐の太宗・李世民の側室であった楊妃、楊婕妤、巣王妃といった人物の親戚になります。
つまり武則天の母方の家系は隋の皇族の子孫なのです。
李淵は唐を建国後。虜にした隋の皇族の娘(楊夫人)を親交のあった武士彠の後妻にさせたのかもしれません。
武則天は父方の武士彠の才覚と、母方の楊氏の高貴な血統という、二つの異なる背景を持つ特別な存在だったと言えるでしょう。
父が死亡して異母兄に虐げられる
624年。唐の利州の都督・武士彠(ぶ しやく)の次女として産まれました。
貞観9年(635年)。12歳のとき。父が死亡。
その後は異母兄の武元慶、武元爽にいじめられました。異母兄は楊夫人にも失礼な態度をとっていました。
隋の皇族の子孫といっても唐の時代になると権威はなくなっていたのです。権威や権力のある人でも落ちぶれたら周囲の態度は手のひらを返したように冷たくなるのが中国です。楊夫人は周囲の白い目を気にしながら生きていたのかもしれません。
長安に移住
母 楊夫人は、夫の死と家族からの冷遇に耐えかね娘の武則天を連れて荊州から都の長安へ移り住みました。
もしかすると楊夫人の一族が唐の皇室に仕えていたこともあり、彼らに頼ろうとしたのかもしれません。
美人の武則天に太宗から声がかかる
武則天は14歳の時。唐の太宗・李世民が武則天の美しさを聞きつけて後宮に呼びました。楊夫人の一族が太宗に武則天を推薦した可能性もあります。
武則天が後宮へ行くことを決めた際、母である楊夫人は泣いていたといいます。かつて栄華を誇った隋の皇族の末裔として、唐の皇帝に娘を差し出すののは苦渋の決断だったはずです。
できれば楊一族を没落させた李一族には頼りたくない。でも夫を失い生きる術を失った母にはそうするしかなかったのかもしれません。
しかし武則天は泣いている母に
と問いかけました。まだ若い武則天は宮中が華やかで素晴らしいものに思えたのでしょう。
太宗の後宮に入る
媚娘の意味
武媚娘は後宮に入り才人(正五位・側室で最下位の地位)になり「媚」の名前を与えられました。「媚娘」ともいいます。
「媚(び)」とは媚びるという使い方もしますが。この場合は「艶めかしい」「グラマー」という意味。
武媚娘は男を惹きつける魅力のある女性だったようです。
唐の太宗・李世民の後宮には、多くの美しい女性たちがいました。武媚娘もその中の一人で、最初は美貌と才能によって太宗の目を引きました。
獅子驄の逸話
ある時、太宗は「獅子驄」という名のとても激しい馬を飼っていました。この馬は誰にも従わず、とても手懐けるのが難しい馬でした。
ある時、武媚娘は太宗にこう言いました。
太宗は武媚娘のこの大胆な言葉に感心し、彼女を褒めました。
武則天に関する予言と李世民の反応
貞観年間の初め、昼間に太白星が現れるという異様な現象が起こりました。太史令の李淳風は占って「女三昌」(新唐書では女主昌)という結果を出します。つまり女が天下を治めるという意味です。
本来は金星の意味。あるいは金星のように明るい星。この場合は超新星の可能性もあります。
不吉な予言
そのころ巷では「当有女武王者」という噂がありました。
太宗が宴を開いていると左武衛将軍の李君羨が自分の幼名が「五娘子」だと明かします。さらに彼の官位や出身地などに「武」の字が多く含まれていることから、太宗は李君羨を予言の主と結びつけ、彼を謀反の疑いで処刑してしまいます。
「新唐書」
一説にはこの噂のせいで太宗が武媚娘を警戒して寵愛しなくなったとも言われます。
武則天が天下を取る予言
このエピソードは「資治通鑑」ではさらに脚色されています。
北宋の司馬光が書いた歴史書。
巷の噂が「唐三世之后 女主武王代有天下」に変わっていて。
その噂を気にした太宗が李淳風に相談すると。占いの結果「その人物はすでに宮中にいて太宗の妻妾の一人。その女性は30年以内に天下を取り唐の皇族を滅ぼす」と答えます。
太宗は激怒、疑わしい人物をすべて処刑すればいいのかと李淳風に尋ねますが、李淳風は「もしその人物を殺害しても他の者が現れる可能性があり、かえって唐を危うくする」と警告したというのです。
明らかに武則天を意識した内容に脚色されています。でもこれは武則天が皇帝になったのを知っている人が作った話でしょう。
才人のまま12年
結局、武媚は太宗の寵愛をうけることはなく12年間「才人」のままでした。もしかすると武媚はあまりに気が強すぎるので太宗が敬遠したのかもしれません。
しかし、李世民が重病を患っている間に武媚娘と太子 李治は親密な関係を築き始めたのです。
貞観23年(649年)。李世民が亡くなると、武媚娘は子供をもうけていない他の妃たちと同じように、長安の感業寺(長安の禁苑内にある皇室の寺)に入り尼僧となりました。
しかし、新しく即位した高宗李治との関係はその後も密かに続いていました。
武則天の尼寺行きと、その裏に隠された策略
武則天が感業寺に入ったのは単に亡くなった夫を悼むためではなく、別の目的があったのではないかという見方も存在します。
感業寺行きはカムフラージュ?
武則天の感業寺行きは世間の目を欺くためのカムフラージュだったのかもしれません。武則天はすでに李治と親密な仲になっていました。彼との関係を隠すために一時的に出家したのではないかというのです。
太宗と高宗の密約?
「新唐書・后妃伝」では、太宗の死後、宮女だった武媚を高宗が側室にした書かれています。武媚が皇后になった時、高宗は「武氏は太宗から賜った」と言ってます。
太宗と高宗の間で武則天の将来について何らかの約束があったのかもしれません。
重臣の反発を避けるための策略
でも武則天をそのまま後宮に残せば、重臣たちの反発を招く恐れがありました。そこで一時的に出家させて世俗との縁を断ち、太宗の喪があけたところで後宮に呼び戻しました。そうして重臣や世間の批判をかわそうとしたのかもしれません。
楊貴妃との共通点
興味深いことに、後の時代に玄宗皇帝が楊貴妃を側室にしたときも。同じ方法が用いられています。楊貴妃は玄宗の息子の妻でした。でも玄宗が彼女を気に入って道教の寺院に入寺させて世俗との縁を断ち。その後、側室にしました。
玄宗は武則天の孫。血は争えないものです。
唐代の婚姻観と夫兄弟婚をめぐる複雑な事情
中国、特に儒教が盛んな時代には、兄弟親子の妻や側室と結婚する「夫兄弟婚」は、近親相姦と同罪とみなされ厳しく禁止されていました。
親や兄弟の妻や側室と結婚すること。レビラト婚ともいいます。遊牧民の社会ではよくあることです。
しかし唐王朝は鮮卑族という遊牧民族の血を引いているので夫兄弟婚はタブーではありませんでした。
なぜ唐王朝で夫兄弟婚が行われたのか?
鮮卑族の伝統: 鮮卑族は遊牧民であり、部族の結束を固めるために血縁関係を重視する風習がありました。夫兄弟婚はその一環として行われていたのです。
漢民族との違い: 漢民族は儒教の影響を強く受けており、血縁関係を重視する一方で倫理的な観点から夫兄弟婚をタブー視していました。
唐王朝の特殊性: 唐王朝は漢民族と鮮卑族の混血王朝。両方の文化が混在していました。そのため漢民族の倫理観と鮮卑族の伝統的な慣習が衝突する場面が見られたのです。
唐朝の夫兄弟婚
武則天:太宗の側室ですが。その息子・高宗の正室になっています。
巣王妃:太宗は兄弟の妻であった巣王妃 楊氏を奪い側室にしました。後に皇后にしようとまでしました。
楊貴妃:玄宗の息子の妻でしたが玄宗の側室となりました。
高宗の側室になる
高宗との再会と後宮への復帰
永徽元年のある日。高宗は父・太宗の命日に感業寺を訪れました。そこで涙を流して再会を喜びました。
当時、宮中では王皇后と側室の蕭淑妃が激しい争いを繰り広げていました。寵愛を失っていた王皇后はライバルの蕭淑妃に対抗するため、武則天を寺から呼び戻すことを高宗に提案しました。
高宗もかねてから武則天を再び後宮に迎えたいと考えていたので、王皇后の提案に賛成します。
そして太宗の喪が明けた永徽2年。高宗は武則天を宮中に呼び戻し自分の側室にしました。
と正史では高宗と武則天の再開が偶然かのように書いてますが。太宗と高宗の間に密約があったとすれば武則天が戻ることは決まっていた。でも王皇后や臣下の手前もあるのでこのような演出をしたのかもしれません。
いずれにしても武則天は高宗の側室になり。再び後宮に戻ってきたのです。
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