武則天:楊淑妃のモデル・李世民の側室 楊妃の史実

楊妃 5.3 唐の皇后・側室
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楊妃は唐の2代皇帝 太宗 李世民の側室です。

彼女は隋の皇帝・煬帝の娘でした。

ドラマ「武則天」では「楊淑妃」として登場します。

隋の皇帝の娘で唐の皇帝の妃という高い地位にある人ですが、意外と楊妃の人生は謎に包まれています。

史実の楊妃はどんな人物だったのか紹介します。

 

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武則天の楊淑妃:冷酷な復讐の王妃

華麗な裏に隠された野心

楊淑妃は隋の煬帝の娘として生まれ、唐の太宗李世民の側室になりました。後宮の四妃の一人になり皇帝の寵愛を受け、後宮でも影響力を持つ妃でしたが、穏やかな顔の裏には策略家としての一面もありました。

かつては斉王李元吉の妻だった

楊淑妃はかつて斉王李元吉の妻でした。玄武門の変で李元吉が殺害された後、李世民の後宮に入れられてしまいます。皇后になる望みは叶わず、息子の呉王 李恪も皇位争いからは遠ざけられました。

しかし彼女は決して諦めていませんでした。

冷酷な復讐心

穏やかで優しい女性に見えましたが、その内面は冷酷で野心にあふれていました。李世民を殺害して楊氏一族の仇を打ち、息子を皇帝の座につけることを密かに企んでいたのです。

ライバルとの闘い

後宮では韋貴妃との激しい権力闘争を繰り広げました。韋貴妃を監視するため乾祥宮にスパイを送り込み。彼女の行動や好みを徹底的に調べ上げました。そして韋貴妃が失脚すると、後宮の主として君臨しました。

武則天との複雑な関係

武則天とは一時的に親密な関係を築きました。でも武則天が太子に近づいたので、その関係は破綻。その後は武則天をライバル視するようになりました。

でも武則天が武氏一族の女性であることを知っていたので、もし自分の復讐が失敗に終わっても武則天が唐を混乱させると考え、彼女をある程度は利用しようと考えていました。

 

 

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楊淑妃のモデル1:李世民の側室 楊妃

隋末唐初を生き抜いた謎多き女性

楊妃は隋の煬帝・楊広の娘。そして唐の太宗・李世民の側室として知られる女性です。でも彼女に関する史料はとても少なく、その生涯は謎に包まれています。

生い立ちと家族

父: 隋の煬帝・楊広
母: 不明
夫: 唐の太宗・李世民
子: 呉王・李恪、蜀王・李愔

楊妃の生年や母については詳しい記録がありません。呉王 李恪の記録に登場するのみです。長男の呉王 李恪を619年に産んでいるので、隋の仁寿年間(601~604年)かそれ以前に生まれたと考えられます。

 

隋の時代

隋の末期。父の煬帝は天下統一を目指して大規模な土木工事や遠征を行いました。でもその結果、国力は疲弊。各地で反乱が続発しました。

煬帝は都を離れて江都に移動しますが、皇女楊氏が一緒に移動したかどうかは分かっていません。

その後、煬帝が殺害され、隋が滅亡。李淵が唐を建国します。隋の皇室は大きな混乱に陥りました。皇女楊氏がこの混乱期をどのように過ごしたのかは、ほとんど分かっていません。

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楊妃と李世民の関係性と謎

楊妃の入内時期と地位

楊妃がいつ李世民のもとに来たのかは明確な記録がありません。

619年に長男の李恪を産んでいるので、遅くとも618年頃には秦王・李世民の屋敷に入っていたと考えられます。

李世民にはすでに正室の長孫氏がいました。当時の慣習として、前の王朝の皇族の娘を側室にすることは珍しくありませんでした。高祖・李淵の考えで隋王朝の皇族を息子たちの側室にしたのだと考えられます。

楊妃は李世民の三男・李恪を619年、六男・李愔を621年に産みました。

楊妃の地位と謎

626年。李世民が皇帝になると楊妃四妃の一人になりました。唐の妃には、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃の四種類がありましたが、楊妃がどの位にいたのかは記録がありません。

当時の四妃には他に誰がいたのでしょうか?

  • 貴妃: 韋氏が就いていました。
  • 徳妃賢妃: 他の女性が就いていましたが、詳細は不明です。

これらのことから楊妃が「淑妃」であった可能性が高いと考えられます。でも確実な証拠はありません。

楊妃の最期と謎

楊妃がいつ亡くなったのか、またどこへ埋葬されたのかは分かっていません。

ただ、李世民の陵墓である昭陵には埋葬されていないことは確実です。

昭陵には李世民、長孫皇后、韋貴妃など、皇帝と他の主要な妃が埋葬されています。

楊妃が昭陵に埋葬されていない理由はいくつかの可能性が考えられます。

  • 何かしらの理由で疎遠になった: 李世民との関係が悪化したり、他の妃との間で何かしらの問題があった可能性も考えられます。
  • 他の場所に埋葬された: 昭陵以外の別の場所に埋葬された可能性もあります。

高宗の時代と楊妃の悲劇

高宗の即位と皇位継承争い

唐の太宗・李世民の死後、高宗・李治が即位しました。

しかし高宗の地位は安定しておらず、皇位継承を巡る争いが絶えませんでした。

房遺愛の謀反事件と李恪・李愔の死

653年。房遺愛高陽公主の謀反事件が発生。高宗の皇位を揺るがす大きな事件となりました。

この事件に連座して楊妃の息子である呉王・李恪と蜀王・李愔が処刑されてしまいました。

しかし李恪李愔は実際にはこの謀反には参加していないと考えられています。房遺愛が李恪も謀反に加わっていたという虚偽の自白を強要された可能性があります。

長孫無忌の陰謀

この事件の背景には、長孫無忌がいたと考えられています。長孫無忌は、高宗の地位を安定させるために高宗の兄弟たちを排除しようとしたといわれています。

楊妃のその後

楊妃はもし生きていれば50歳前後。健康であれば十分に生きていたでしょう。でも息子の処刑という大きな悲劇に見舞われた後、楊妃の消息は途絶えてしまいます。

楊妃が死罪になったという記録はありません。宮殿から追い出され出家した可能性も考えられます。

楊妃に関する謎

楊妃の記録が非常に少ないことや、太宗の陵墓に埋葬されなかったことは、息子たちの事件と関連があるのかもしれません。

楊妃は息子たちの無実を訴えるために宮廷を去らざるを得なかったのかもしれませんし、あるいは事件の責任を問われて厳しい処分を受けたのかもしれません。

 

モデル2:巣王妃楊氏、李元吉の妻から李世民の側室へ

楊淑妃のモデルはもう一人います。巣王妃 楊氏です。

隋の皇族から唐の后宮へ

巣王妃楊氏は隋の皇族の一員として生まれました。祖先の楊雄(よう・ゆう)は隋の開祖 隋文帝 楊堅の親族です。そのため隋の時代には楊雄の子孫は皇族として扱われました。

ところが隋の滅亡と唐の建国によって波乱の生涯を歩むことになります。

李元吉の妻から太宗の妾へ

楊氏は唐の建国後、李淵の四男である斉王 李元吉と結婚します。

しかし玄武門の変で李元吉が兄の李世民に討たれてしまいました。楊氏は夫を失い、今度は李世民の妾にされてしまいます。

皇后への道と悲劇

長孫皇后の死後、李世民は楊氏を皇后にしようと考えますが重臣たちの反対に遭って実現できませんでした。

しかし楊氏は李世民の十四皇子である曹王 李明を産み、その寵愛は変わらなかったようです。

歴史に埋もれた生涯

楊氏の生年月日や没年月日は不明な点が多く、その生涯は謎に包まれています。

隋の皇族から唐の后宮へと転落し、一時は皇后の座に最も近い存在であったという波乱に満ちた人生を送ったことは確かです。

 

ドラマの楊妃

武則天 The Empress

2014年中国、演: 周海媚  
役名:楊淑妃

 劇中の楊淑妃は 楊妃巣王妃楊氏を足した人物になってます。楊氏が李世民の妃になる前は巣王妃楊氏の経歴、李世民の妃になった後は楊妃の経歴。

二人分の経歴をつなぎ合わせて「楊淑妃」という人物の設定を作っているのですね。

他にも楊妃が登場するドラマはあります。

大唐流々

2021年中国、演:劉敏  
役名:楊顔妃

皇帝の四夫人の一人。周王の生母。かつて晋州の城守の娘でした。皇帝の寵愛を受け、後宮では皇后の次に高い地位を占めていました。皇后が亡くなると王太妃を助け、后宮の事を仕切っています。

後宮で大人しくしているように見えますが、太子と韓王を排除、自分の息子である周王を皇位につかせることを企んでいました。

玉合から皇帝を暗殺するよう唆されましたがそれを拒否。しかし最後は、周王を守ろうとして玉合に殺害されてしまいます。

その他のドラマ

隋唐英雄1、2  2012中国、演:孫耀琦 役名:如意公主

隋唐英雄3、4 2014中国、演:蔣林靜 役名:楊妃

天下長安 2021年、中国 演:侯亜辰 役名: 楊曦、楊妃

 

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