韋貴妃は唐の2代皇帝・太宗の側室。
皇后を除けば最も高い地位にある貴妃の地位にいました。
武則天が若いころ、後宮で最も力のあった女性です。
そのため韋貴妃はドラマなどでもよく登場します。権力欲が強い悪女として描かれることが多いです。
ところが歴史上実在した韋貴妃はそうではなかったようなのです。
後宮でも尊敬を集める女性でした。
史実の韋貴妃はどんな人物だったのか紹介します。
韋貴妃の史実
どんな人?
名:珪(けい)
称号:韋貴妃(いきひ)、紀国太妃(きこくたいひ)
生年月日:597年
没年月日:665年9月28日
彼女は唐の2代皇帝・太宗の側室です。
日本では飛鳥時代になります。
家族
母:
子供:
父:李珉
女:定襄県主
父:李世民
女:臨川公主
男:李慎
韋氏の家柄と政治的な影響力
韋貴妃は京兆韋氏の出身でした。南北朝時代の有名な将軍、韋孝寬(い・こうかん)を祖先に持つ由緒ある一族です。
韋孝寬は北魏から北周時代に活躍。玉壁の戦いでは東魏の高歓の大軍を破るなど、その武勇と才能はよく知られていました。
韋氏は隋朝でも皇室との婚姻関係を結び勢力を拡大していました。
韋貴妃はそんな名門一族の出身です。
韋貴妃のおいたち
韋貴妃は隋の時代。597年に生まれました。
本名は韋珪(い・けい)
父は韋円成(い・えんせい)。陳州刺史。地方の行政を監督して回る役人でした。
4歳のときに父親が死亡。韋珪は父の墓の前で泣いていたといいます。
16歳で未亡人
隋の戸部尚書 李子雄の子の李珉と結婚。李珉は隋の重臣の息子です。
613年。娘(後の定襄県主)を出産しました。
ところが李珉は隋末期の戦乱で反乱軍に加わったため、家族は没落しました。韋珪は16歳で未亡人になってしまいます。
唐の時代
李世民の側室になる
618年。隋が滅亡。唐が建国しました。
武徳4年(621年)。李世民は高祖 李淵の命令で洛陽の王世充を討伐。李世民は王世充を降伏させました。
洛陽を陥落させた李世民は洛陽の名門貴族と広く交流して彼らを味方にします。この頃、李世民は韋珪と妹の韋尼子を妾にしました。
なぜ未亡人だった韋珪を妻にしたのか?
当時の唐は建国したばかり。李淵は皇帝を名乗っていますが、他にも皇帝を名乗るものはおり。唐は隋滅亡後の混乱した時期にいくつも存在した勢力の一つに過ぎません。
そのため唐は関中の豪族たちの支持を得ることが必要不可欠。韋氏のような名門との婚姻はとても有効な手段であったのです。
624年。臨川公主・李孟姜が生まれました。
太宗の時代
626年。李世民が皇帝になりました。
627年4月1日。韋珪は貴妃になりました。
貴妃は皇后の次の地位。4人いる「妃」の中では最高位。側室の中では最高の位です。
姓の「韋」を付けて「韋貴妃」と呼ばれます。
李世民との間に生まれた李孟姜は「臨川公主」の称号が与えられました。
元夫・ 李珉との間に生まれた娘には「定襄県主」の称号が与えられました。定襄県主は後に突厥出身の武将・阿史那忠と結婚します。
ドラマやマンガ「長歌行」のヒロイン・李長歌のモデル。
ただしドラマでは李歌行は李珉と韋珪の娘ではなく李建成 夫妻の娘になっています。
628年。韋貴妃と太宗の間に李慎が生まれました。韋貴妃にとっては初めての男子です。
631年。李慎が「申王」になりました。
636年。長孫皇后が死去。
皇后の座が空きましたが、太宗は長孫皇后が忘れられなかったので新しい皇后は選びませんでした。
そのため側室最高位の韋貴妃が後宮で最も権威のある女性になりました。
636年。息子の李慎が「紀王」になります。
643年。紀王・李慎が襄州刺史になり赴任しました。李慎は自分の領地で善政を行い。良い領主として領民から慕われました。
649年。太宗が死去。
高宗の時代
650年1月29日。韋貴妃は紀国太妃になりました。
651年。息子の紀王・李慎が荊州都督になります。
紀国太妃も息子の紀王・李慎が治める荊州に移り住みました。
韋貴妃の最後
665年。紀国太妃は越国太妃 燕氏や高宗とともに泰山に行きました。
ところが途中で紀国太妃は病気になってしまいます。高宗は医者を呼んで治療させましたが、河南の敦行里の邸で亡くなりました。享年69歳。
高宗は紀国太妃の死を嘆き悲しんだといいます。高宗にとっても母親のような存在だったのでしょう。
666年。昭陵に埋葬されました。最も格式の高い埋葬のされ方をしています。
ドラマの韋貴妃と歴史上の韋貴妃のギャップ
ドラマで描かれる韋貴妃は権力欲に燃える悪女として描かれることが多いです。でも実際の韋貴妃は全く異なる人物だったと考えられます。
歴史上の韋貴妃像
歴史上の韋貴妃は美しい容貌と堂々とした立ち振る舞いが特徴の女性でした。
性格は飾らず素直な一面もあったとされています。李世民が韋貴妃を寵愛したのは単に彼女の美貌だけでなくその品格や魅力に惹かれたからだと考えられます。
韋貴妃は武則天よりも年上で、後宮における地位も確立していました。そのため武則天が後宮に入ってきた際にも、直接対立することはなくむしろ落ち着いた態度で接していたと考えられます。
ドラマの中の韋貴妃像が歪められている理由
では、なぜドラマでは韋貴妃が悪女として描かれることが多いのでしょうか?
- 武則天との対比: 武則天が歴史上非常に有名な女性なので、ドラマでは彼女をより際立たせるために対照的な悪役が必要とされました。
- 皇后になれなかったこと: 長孫皇后の死後、後宮の最高位の女性であり続けた韋貴妃ですが、皇后になることはできませんでした。そのため彼女は権力欲に固執し、武則天を妬んでいたというイメージが作られてしまったと考えられます。
- 時代の変化による価値観: 時代が変わるにつれて、女性の役割や地位に対する価値観も変化しました。現代の視点から見ると、後宮で権力争いを繰り広げる女性は、どうしても悪役として捉えられがちです。
まとめ
ドラマの中の韋貴妃は武則天という主人公を引き立てるための「演出のためのしかけ」として描かれています。実際の韋貴妃は、もっと複雑で多面的な人物であったと考えられます。
ドラマを見るときには歴史上の事実とドラマの中の描写の違いに注意して、様々な角度から人物像を捉えることが大切ですね。
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