武王后は秦の武王の正室。
古代中国の歴史書「史記」では 悼武王后 と書かれています。
武王后と言ったり、悼武王后と言ったりするのは歴史書によって少しずつ名前が違うからです。
武王は若くして急死しました。武王と武王后の間に子供はなく、他の側室との間にも子供はいませんでした。
すると武王の兄弟たちの間で後継者争いが起きてしまいます。
でもその結果、武王后は宣太后たちによって追放されてしまいました。
史実の悼武王后はどんな人物だったのか紹介します。
武王后(悼武王后)の史実
プロフィール
夫:武王
子供:なし生年月日:不明
没年月日:不明
古代中国、春秋戦国時代の秦の武王の正室です。
日本では弥生時代になります。
おいたち
両親や生年は不明です。
魏の国の公主(王女)でした。
魏夫人(恵文后)も魏の公主なので。魏夫人と武王后は親戚(姪)の可能性が高いです。
時期は不明ですが秦の太子・嬴蕩と結婚しました。
紀元前310年。嬴蕩が即位しました。武王の誕生です。
武王后は、武王の妃なので武王后と呼ばれます。
紀元前307年。秦武王は孟説という力持ちと鼎(3本の脚がある青銅製の大鍋)を持ち上げる力比べをしました。ところが秦武王は脛骨を折ってしまいそのまま死去しました。享年23.
武王と武王后には子供がいませんでした。子供が産まれる予定もありません。
それどころか武王には一人も子供がいませんでした。
後継ぎ争い
武王に息子がいないとなると、武王の弟たちの間で後継者争いが起こります。
さらに趙の武霊王が秦の王位争いに介入。燕で人質になっていた嬴稷を王にしようと言い出します。
秦の国内ではほとんどの者が嬴稷の即位に反対でした。
ところが朝廷で実権を握っていた魏冄が嬴稷の即位に賛成。魏冄たちの尽力で嬴稷が即位しました。昭襄王の誕生です。昭襄王の生母・羋八子が王太后(宣太后)になります。
昭襄王は即位したとき19歳だったので決して幼かったわけではありません。でも燕で人質生活をおくっていたせいか、まだ成人の儀式を行っていません。しかも外国に長い間いたので秦国内には命令を聞く者がほとんどいません。
朝廷内では宣太后とその弟・魏冄、華陽君(羋戎)が権力を握っていました。
反対派の粛清「諸公子の乱」で魏に送り返される
もちろん王位を狙っていた公子壮は我慢できません。
紀元前305年。公子壮は同じように不満をもつ恵文后や他の王子・公子雍たちに呼びかけ、大臣を集めて反乱を起こしました。
このとき武王后が何をしていたかは記録にありません。
反乱は宣太后の弟・魏冄によって鎮圧されてしまいます。反乱に参加した王子や大臣は処刑されました。恵文后も処刑されました。
武王后はどの程度反乱に関わっていたのかは不明です。武王后は魏国の王女。魏の出身の恵文后(魏夫人)の姪か親戚のはずなので、無関係ではなかったでしょう。
恵文后には息子の公子雍がいますから、公子雍を応援したはずです。
武王后は秦の宮廷を追放され、魏に送り返されました。武王后も関係はしていたものの、反乱の主導的な立場ではなかったのでしょう。
この事件を「諸公子の乱」「庶長壮の反乱」とか「季君の乱」といいます。
その後、武王后がどうなったのかはわかりません。
テレビドラマ
ミーユエ 2015年、中国 役名:魏頤 演:馬思純
ドラマでは魏夫人と恵文后が別人になってるので人間関係が史実とは違います。史実よりも複雑な人間関係です。
魏夫人や恵文后(羋姝)はそれぞれの思惑で稷の即位を阻止しようとします。武王后は魏夫人の姪の設定なので、武王后は魏夫人と行動をともにしています。
ドラマでは武王が死亡したときに武王后は妊娠していたことになっています。当然、産まれる子供の扱いが問題になっています。でも史実では武王后が妊娠していたとは書かれていません。
諸公子の乱のあとは、史実と同じようにミーユエによって魏に送り返されます。
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