李娥姿(りがし)は北周の皇帝・武帝 宇文邕の寵愛を受けた側室で、第4代皇帝・宣帝 宇文贇の生母でもあります。
もともとは南朝・梁の出身で西魏の侵攻により捕虜となった女性でした。
そんな波乱の運命をたどった李娥姿は平民から皇帝の側室へ、そして太后という高い地位に上り詰めます。しかし息子や孫を次々に失うという悲劇にも見舞われました。
この記事では李娥姿の波乱に満ちた生涯を史実に基づいて詳しく紹介します。
李娥姿とはどんな人物?
李娥姿のプロフィール
- 姓:李(り)
- 名称:娥姿(がし)
- 法名:常悲
- 称号:帝太后
- 生年月日:536年
- 没年月日:588年
家族
母:不明
夫:武帝・宇文邕
宣帝・宇文贇
漢王・宇文贊
李娥姿が生きた戦乱の時代とは
古代中国の漢が滅びて随ができるまでの間。様々な国ができては滅んでいた時代がありました。そのなかに北と南に大国ができて争っていた南北朝時代という時期があります。
北には鮮卑や遊牧民が中心になって作った「北魏」があり。「北魏」は分裂して「東魏」と「西魏」になり。「東魏」は「北斉」になり、「西魏」は「北周」になります。
一方の南には漢人が作った「宋(劉宋)」があり。「南斉」、「梁」、「陳」と目まぐるしく建国と滅亡を繰り返していました。
李娥姿の出身地と背景
李娥姿は536年、南朝・梁の国で生まれました。現在の湖北省荊州市にあたる江陵の出身で平民とされています。彼女が生まれた頃の梁は皇族同士の権力争いが絶えず、国内も不安定な時期でした。
552年。蕭繹(しょう・えき)が江陵で梁の皇帝に即位。蕭繹と対立していた蕭詧(しょう・さつ)は西魏に亡命して復活の機会を狙っていました。
554年。西魏は蕭詧を担いで江陵に攻めてきました。梁の都・江陵は西魏の将軍・于謹が率いる5万の大群にあっけなく占領されました。梁の元帝は西魏に投降。蕭詧は元帝を許さず殺害してしまいます。
西魏は江陵の人々を捕虜にして長安に連行しました。このとき李娥姿(り・がし)とその家族は西魏に捕まり奴婢にされました。
もしかすると李娥姿の残りの人生は奴婢として一生を終えていたかもしれません。ところがここで彼女の運命は大きく動きます。
宇文邕の側室となり寵愛を受ける
李娥姿が長安に連行された後、西魏の実力者・宇文泰(うぶんたい)は李娥姿の美しさに目をつけ、四男の宇文邕(うぶん・よう)に妾として与えました。
宇文邕はのちに北周の皇帝となる人物です。宇文邕は李娥姿を深く寵愛しました。
557年。西魏が滅亡。北周が建国。宇文邕は王族になります。
捕虜という出自にもかかわらず、彼女は皇子の妾という地位を得たことで奴婢としての生活から一転、王族の側室として暮らすことになりました。
559年、李娥姿は宇文邕との間に長男・宇文贇(のちの宣帝)を出産しました。
なぜ皇后になれなかったのか?
560年。夫の宇文邕が北周皇帝(武帝)になりました。

北周 武帝 宇文邕の肖像画
李娥姿は宇文邕の長男を生んでいますが「皇后」にはなれませんでした。当時の宇文邕には名門の娘が正室としていたとされ、梁出身の平民である彼女が皇后の座に就くことは難しかったのです。
当時の宇文邕の正室が誰だったのかはわかりません。「沈皇后」がいたという説もあります。他にも柱国将軍・李虎の娘など名門の娘もいたので平民出身の李娥姿が皇后になるのは難しかったでしょう。さらに568年には突厥の王女・阿史那氏が皇后になっています。
李娥姿の称号が何だったかはわかっていません。だからといって李娥姿が冷遇されていたとは限りません。側室の称号が整えられるのは隋朝以降。この時代の側室の称号は残っていないことが多いのです。
事実、宇文邕が皇帝に即位後に宇文贊(漢王)が誕生しています。宇文邕が李娥姿を寵愛していたのは確かでしょう。
息子・宇文贇の即位と李娥姿の太后時代
「帝太后」としての地位
578年6月。夫の北周第3代皇帝・宇文邕(武帝)が死去。李娥姿の息子・宇文贇(うぶんいん)が第4代皇帝として即位し「宣帝」となりました。
でも皇太后になったのは突厥出身の阿史那皇后です。李娥姿は皇帝の生母として「帝太后」の称号が与えられました。
李娥姿の地位については朝廷内で議論を呼び称号の変更が相次ぐことになります。
579年には「天元帝太后」とされ、さらに「天皇太后」、580年には「天元聖皇太后」と改称されました。
こうして何度も称号が変わったのは、李娥姿だけではありません。宣帝の在位中は皇后や側室たちも何度か称号が変わっています。
ただ李娥姿にも皇太后に匹敵する称号が与えられたのは、皇帝の実母を大切にしたいという宣帝の思いがあったのでしょう。
宣帝は4人の側室に皇后の称号を与えるという無茶なことをした人物とされています。もしかすると不安定な母の立場があったからこその配慮なのかも知れません。
孫の代まで続く悲劇
しかし580年5月、宣帝・宇文贇が若くして崩御。享年わずか21歳でした。その後、彼の息子で李娥姿にとっては孫にあたる 静帝 宇文闡(うぶんせん)が即位しました。
李娥姿は「太帝太后」と呼ばれました。しかし政権はすでに実力者・楊堅(ようけん)の手に渡り皇族の力は日に日に弱体化していきます。
581年。楊堅が北周を滅ぼして隋を建国。李娥姿の次男 宇文贊(漢王)をはじめ、多くの宇文一族が粛清されました。さらに宣帝・宇文贇の息子たち、つまり李娥姿の孫たちも皆、楊堅の命により処刑されてしまいます。
李娥姿はこの政変で実の息子と孫たちを一気に失うという悲劇に見舞われました。敵国の捕虜から太后へと上り詰めたものの、再び残酷な運命に翻弄されることになったのです。
出家と最期の様子
こうした悲劇のなか、李娥姿は581年3月に出家を決意しました。法名を「常悲(じょうひ)」として仏門に入って尼となりました。
この名前には深い悲しみの中でも心を静めて生きようとする、彼女の決意が込められているのかもしれません。
その後は表舞台に出ることなく静かに余生を過ごしたとされています。588年、53歳でこの世を去りました。彼女は尼としての格式で長安の南側にある大興城に葬られました。
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