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楽游原 最終回 あらすじ・ネタバレ:なぜハッピーエンドと言えるのか?

中国ドラマ『楽游原』 最終回のあらすじをまとめました。

楽游原 最終回のあらすじをお届けします。李嶷の即位と退位、崔琳の懐妊、牢蘭関への帰還を通して「権力よりも自分の生き方を選ぶ」という結末の意味を考えてみました。

最終回の流れを追いながらラストの祈りの場面や「自分だけの楽游原」が描くテーマを他のドラマブログとは一味違う硬派な視点で紹介します。

 

この記事で分かること

  • 最終回(第40話)で起きた主要な出来事と、登場人物たちが手にしたささやかな幸福のかたち

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    李嶷が皇帝の座を退き、牢蘭関への帰還を選んだ理由と、その選択が物語全体で持つ意味

  •  

    自分だけの楽游原」が表す、肩書きや出世とは無関係な“自分が自分でいられる場所”というテーマ

     

  • 現代の視聴者や中国ドラマの制作事情と結びついた「権力を求めない主人公」が支持される背景

 

※この記事はドラマ『楽游原』のネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。

他のエピソードを見たい方は 楽游原(らくゆうげん)あらすじとネタバレをどうぞ。

 

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楽游原 最終回 李嶷の即位と崔琳の懐妊、訪れる平和の幕開け

桃子が意識を取り戻し、宮中にはようやく安らぎが戻ります。動揺の収束とともに新皇帝は決断を下し、李嶷が皇位を継ぐことに。さらに崔琳の身ごもりが判明、未来への希望が広がるのでした。

 

あらすじ 最終回(第40話)夢見た理想の未来へ

桃子の回復と旧い因縁の思い出

謝長耳と崔琳の献身で桃子が目を覚まします。体はまだ弱いものの、桃子は眠り続けた間の感覚を語り、かつて柳承鋒に仮死薬を渡した出来事を思い返します。

新皇帝の決意と李嶷への譲位

皇后に励まされた新皇帝は、自らの過ちを悔いながらも李嶷の才を信じ、皇位を譲ると宣言します。夕暮れの大殿で父子は語り合い、新皇帝は「お前が幸せであれば良い」と穏やかな本心を伝えました。

 中興の始まりと崔琳の懐妊

李嶷が即位し、国は安定の時代へ。顧氏の一族は流刑となり、乱世はようやく終息します。そんな中、崔琳は李嶷とのやり取りの最中に身ごもったことを明かし、李嶷は喜びに震えながら彼女を抱きしめます。

 新たな家族と平和への祈り

やがて皇子が誕生し、李嶷は十年後に位を玄澤へ譲り、念願の辺境守備へ。質素ながら幸福な暮らしの中で第二子も生まれ、一家は穏やかな日々を過ごします。最後に皆で老鮑たちの墓前に集い、変わらぬ平和を祈るのでした。

 

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楽游原を最後まで見た感想と注目点

楽游原はハッピーエンドなの?

最終回で李嶷は皇帝の座を捨て牢蘭関に戻り、粗末な衣と食事、枕元に武器を置いて敵襲に備える生活を選びます。普通に考えれば「左遷」みたいな条件です。せっかく多くの味方を犠牲にして天下を平定し、皇帝にまで登り詰めたのに最後は都から遠ざかり前線に張りつく人生。

「これって本当にハッピーエンドなの?」と首をかしげたくなります。

でも作者が言いたいののは「幸せの基準」です。富や出世、名誉ではない。いわゆる中華帝国の成功モデルから見るとバッドエンド寄りですが、李嶷という人物の価値観から見れば「一度、責任を果たしたうえで、自分のいたい場所に帰るハッピーエンド」。

乱世を平定するために一時的に皇帝を引き受け、その役目が終わったら志の原点である辺境に戻る。物語は“世の中の成功”ではなく、“本人が選び取った生き方”を幸せの物差しにしているのです。

 

なぜ李嶷は皇帝の座を退いた?

なぜ李嶷はそんな選択をしたのでしょうか?1話を思い出してください。李嶷はもともと牢蘭関で兵を率いてたきは生き生きとしていました。

皇太子にはなりたくないと言っていたし、宮廷政治には最後まで「必要だからやる」という距離感で付き合ってきました。乱世を収めるために皇帝にはなったけれど、もともと“皇帝になるために生きてきた人”ではありません。

十年在位し国が落ち着き信頼できる李玄澤が育った時点で「自分の役目はここまで」と判断して退きました。彼の設定からするとそうなるのが自然な流れなのでしょう。崔琳も彼の選択を「責任の放棄」ではなく、自分らしさを求めた結果。として受け止めているように描かれています。

歴史的に見ると「左遷」ではなく「外放」と「致仕(引退)」を選んだ形に近いです。実際の官僚・武人の世界では、中央の要職を嫌って地方の実務や前線勤務を望む人もいくらかはいました。

都のしがらみと命がけの政争に疲れた者が「遠くても、土と人の顔が見える場所にいたい」と願うのはそう不自然ではありません。

ドラマはこの感覚を拡大して皇帝という究極の地位にある人が自分から退くことで「名誉よりも自分の生き方を選ぶ」という、現代的なヒーロー像になっていると言えます。

 

「自分だけの楽游原」とは何?

ラストで一同が老鮑たちの墓前に集い、「この世の誰もが自分だけの楽游原を見つけられますように」と願うシーンがあります。ここでいう「自分だけの楽游原」は、出世や爵位とは無関係の「自分が自分のままでいられる場所」のことです。

皇帝だった李嶷も、元牢卒の桃子も、元皇太子妃候補だった崔琳も、肩書きがすべてリセットされたうえで一緒に笑い、亡くなった仲間を偲び、子どもたちの未来を祈る。そこには「誰が一番偉いか」はもう関係ありません。

それは史実の楽游原とは違いますが。楽游原には理想郷のイメージもあります。そのひとそれぞれの理想郷を見つけた。という部分が大切なのでしょう。

 

今、権力を求めない主人公が受ける理由は?

李嶷は自分から権力を取りに行くタイプの主人公ではありません。必要に迫られて皇帝になり、国を安定させたら、自分から権力の中心から身を引く。しかもその理由が「都が嫌いだから」ではなく、「自分のいたい場所は別にあると分かっているから」という形で丁寧に積み上げられています。

最近の中国ドラマでは李嶷のように権力に執着しないヒーローが増えています。現実の中国社会は出世競争と消耗感の強い社会です。そんな現代の視聴者にとって「こういう辞め方ができたらいいな」という願望を表現しているといってもいいでしょう。

出世だけがゴールじゃない。やっぱり、自分の幸せは別のところにある。と言える主人公は、見ていて救われる存在です。

そしてもう一つ、中国特有の事情として「検閲を通りやすい」という制作サイドの事情も、たぶん無視できません。現代中国のドラマは最終的に「体制そのものをひっくり返さない」「権力の中心は国家の正統な枠組みの中に収まる」構図が好まれます。

その中で主人公が権力にしがみつかず、個人の幸せと倫理を選んで去る。というパターンは体制への露骨な批判にもなりません。一方で視聴者には「権力より大事なものがある」と爽やかに伝えられる非常に扱いやすい教材です。

だから李嶷のような「一度は頂点に立ち、最後は自分の場所に戻る主人公」が、今のドラマ市場で受けるし、作りやすい存在になっているのだと思います。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

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