始皇帝の妻とは・皇后はいた?なぜ知られていないの?

始皇帝の妻 8 春秋戦国
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始皇帝の妻や側室についての記録は、歴史の闇に消え去り謎に包まれています。

正妻の記録が全くないこと、側室の情報も限られているのは、多くの歴史家の興味を引くテーマです。

この記事では、始皇帝の妻や妾に関する記録が少ない理由や、当時の後宮の様子、そしてわずかに残された史料から読み解ける妻や側室たちの姿を紹介します。

 

この記事でわかること
  • 始皇帝の後宮にいた女性たちに関する情報が少ない理由
  • 始皇帝の息子たちの母親に関する手がかり
  • 秦の後宮の様子や、女性たちの役割
  • 史料から読み解く始皇帝の妻に関する情報

 

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始皇帝の妻の記録は少ない

始皇帝の妻や側室に関する歴史的な記録は驚くほど少なく、その実態は謎に包まれています。

正妻の記録がまったくない

始皇帝は中国史上最初の「皇帝」です。

ということは始皇帝の正妻は最初の「皇后」だったはずです。ところが始皇帝の正室について歴史書『史記』にも全く書かれていませんし、他の記録も見つかっていません。

『史記』が書かれたころには資料が失われていたのかもしれませんし。始皇帝の時代には皇后という制度がまだ確立されていなかったのかもしれません。

始皇帝と妻(イメージ)

始皇帝と妃(イメージ)

皇后はいなかった?

始皇帝が意図的に決めなかった可能性もあります。

もし始皇帝が自分の意志で皇帝とペアになる皇后を決めなかったのだとしたら、次のような理由が考えられます。

後宮が多すぎる: 始皇帝の後宮には多くの女性がいて、息子だけでも20数人いたことがわかっています。特定の女性を皇后に組めるのが難しかったのかもしれません。

母親の影響: 始皇帝の母親の私生活が複雑だったので、始皇帝が女性に不信感を持ち皇后を決めなかったのかもしれません。

不老不死への執着: 秦始皇は方術を信じており、長生不老を求めていました。そのため、皇后を立てるよりも、自分が長生きすることに心を奪われていた可能性があります。

方術(ほうじゅつ)
占い・呪術・気功・瞑想・薬などを使って仙人になるのを目指す技。道教の成立教に大きく影響しました。

 

側室についても謎が多い

側室についても、具体的な情報はほとんどわかっていません。始皇帝の後宮には多くの女性がいたことは記録にもあります。妃や側室がいたのは間違いありません。

でも記録としては残されていません。

 

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なぜ始皇帝の妻の記録がないの?

始皇帝の妻妾の記録が少ない理由はなぜでしょうか?

その理由は次のように考えられます。

始皇帝の死後に記録が抹殺

二世皇帝は即位後に始皇帝の後宮にいた女性で子のいない者はすべて殉死させました。その後、二世皇帝は兄弟たちも粛清しています。そのときに兄弟の母も処刑されたかもしれません。

二世皇帝は始皇帝の末子なので、始皇帝の正妻の子ではない可能性が高いです。そのため始皇帝の正妻やその他の側室たちの記録も処分されたのかもしれません。

二世皇帝は反乱で死亡。そのときに二世皇帝の記録も失われたのかもしれません。

戦乱による史料の損失

秦は始皇帝の死後、わずか4年で滅亡。その戦乱で多くの記録が失われました。そのときに始皇帝の後宮に関する資料も失われたのかもしれません。

権力者による意図的な隠蔽

皇帝の私生活、特に後宮に関することは非常にデリケートな問題でした。そのため、意図的に記録が隠蔽されたり、改竄されたりした可能性もあります。

これらの要因が重なって始皇帝の妻妾に関する情報がほとんど泣く謎に包まれたものになったのかもしれません。

 

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秦の後宮の女性たち

秦にも後宮があり多くの女性達がいたのは事実

始皇帝の妻の記録はなくても、先代・先々代の秦王には宣太后、華陽夫人、夏姫、趙姫など妃たちがいましたし。宣太后のように宮廷で影響力をもつ女性がいました。

秦の宮廷にも後宮があり、そこでは様々なドラマが繰り広げられていたことが想像できます。

外国出身の妃が多い

これらの妃たちは秦の出身者ばかりではありません。それぞれが違う国の出身でした。

この時代の中国では国と国が関係を深める上で、婚姻は重要な外交手段の一つでした。様々な国が盛んに政略結婚を行なっていたのです。

始皇帝の妻や側室たちも様々な国からやってきた女性たちだったと考えられます。

 

同じ国出身者で派閥ができる

外国出身の妃たちは秦に来るときに自分に従う臣下を連れてくる人もいました。妃の兄弟親戚が秦に仕えることもあります。

妃の兄弟や臣下は秦の宮廷内で力をつけ、妃の地位を固めるために協力したと考えられます。

また、外国から来て採用された人もいます。

 

秦の宮廷は外国人が多い
秦は人材不足を補うため、外国から来た有能な人材を積極的に採用していました。

 

派閥争い

それぞれの妃は、同じ出身地の者や自分が連れてきた勢力によって、後宮内で派閥を作っていたと考えられます。

これらの派閥は互いに勢力争いを繰り広げ、後継者争いに影響を与えた可能性があります。

後継者争いへの影響: それぞれの派閥は、自らが支持する皇子を後継者にしようと画策し、後宮内は常に緊張感に包まれていたでしょう。

 

歴代の秦の宮廷はこのような状態でしたから。始皇帝の時代に同じようなことが起きていても不思議ではありません。

とくに始皇帝は全国を統一しましたから、支配地域が多く後宮にやって来る女性も多かったはずです。

政治と結婚:外交戦略としての婚姻

始皇帝は政治的な目的で多くの女性を娶ったと考えられています。周辺諸国との同盟関係を結ぶために、王族や貴族の娘を妻にすることは、当時の国際的な慣習でした。

殉死:悲劇的な結末

始皇帝の死後、多くの后妃が殉死させられたという記録が残っています。これは、当時の残酷な風習であり、後宮の女性たちが置かれた悲惨な状況を物語っています。

 

始皇帝の子どもたちの母親

始皇帝の妻と息子のイメージ

妃と王子(イメージ)

多くの謎に包まれた皇子の母親たち

始皇帝には多くの息子がいましたが、それぞれの母親については、具体的な記録がほとんど残されていません。

でも子どもたちの特徴や、彼らが重用した臣下などから母親の素性や出身地をある程度推測することができます。

始皇帝の後宮には大勢の女性がいた

始皇帝は統一の過程で他国と同盟を結び、政治的な目的で周辺諸国の王族や貴族の娘を妻にすることがありました。

他国を滅ぼした後はその国の王侯貴族の娘を後宮に入れることもあったでしょう。

そのため始皇帝の後宮には大勢の女性がいました。始皇帝の息子だけでも20数人いました。

このような政治的な結婚によって生まれた子どもたちは、母親の出身国とのつながりが深く、その国の文化や風習に影響を受けて育った可能性があります。

息子たちが重用した臣下との関係

20数人いたという皇子たちですが、具体的な記録があるのは一部だけ。でも彼らが重用した臣下は、母親の出身地や影響力との関連性を探る上で重要な手がかりになります。

出身地の共通点: 息子が重用した臣下が、母親の出身地と同じ地域出身である場合、その臣下は母親の縁故で重用された可能性があります。

始皇帝の長男 扶蘇の母は楚出身の皇后?

始皇帝の長男である扶蘇(ふそ)は皇帝にはなれませんでしたが、始皇帝の長男でした。

扶蘇の母親の記録はありません。でも扶蘇の母親はの出身の可能性があります。

華陽夫人昌平君の出身地。始皇帝の重臣・李斯(りし)も楚出身です。

楚の勢力は始皇帝の治世の初期には宮廷でも力を持っていました。その勢力の主導で始皇帝の正妻は楚出身者が選ばれたと考えられます。

秦王9年(紀元前238年)に楚の王族が秦国に滞在していました。この頃に秦王(後の始皇帝)が楚の女性を迎えた。その夫人との間に生まれた長男が扶蘇の可能性があります。

ということは始皇帝の皇后は楚出身で扶蘇の母親の可能性があるのです。

もしこの説が正しいのなら、扶蘇はという二つの大きな勢力の血を引く人物だったことになります。

しかし華陽夫人の死後、楚出身の勢力が衰退。正妻の地位も不安定になったと考えられます。扶蘇が次の皇帝になれなかったのもその影響かもしれません。

 

二世皇帝・胡亥の母は趙出身?

始皇帝の息子 胡亥(こがい)は、父 始皇帝から大変寵愛を受けていました。さらに宦官の趙高(ちょうこう)を非常に信頼、彼を側近として重用しました。

史書には始皇帝には20人以上の息子がいたと記されています。しかしある記録によると胡亥は始皇帝の18番目の息子だったという説も存在します。

胡亥の母親は趙国とのつながりが深い人物であった可能性が高いです。

その根拠は

趙高との関係: 胡亥の側近 趙高は趙国の出身です。

沙丘の平台: 始皇帝が亡くなった場所は、かつて趙国の離宮だった場所です。

また始皇帝の母・趙姫も趙出身。趙姫は華陽太后の死後は秦の後宮内でも大きな影響力を持っていた人物。趙姫本人は嫪毐との関係がもとで影響力を失いましたが。

趙出身者の勢力は胡亥やその母を中心にまとまっていたのでしょう。

これらのことから胡亥の即位には趙国勢力が深く関わっており、李斯もそれを阻止できなかったのではないかともいわれます。

 

ドラマと史実のギャップ

ドラマでは後宮が華やかでドラマチックな舞台として描かれることが多いですが、実際のところ後宮は厳格な規則に縛られた閉鎖的な空間だったと考えられます。

後宮の規模: ドラマでは数千人の美女が暮らすような大規模な後宮が描かれることもありますが、実際の規模はそこまで大きくはなかったと考えられています。

女性の役割: ドラマでは女性たちが政治に深く関わり権力闘争を繰り広げる様子が描かれますが、実際のところ女性の政治的な発言権は限られていたと考えられます。

恋愛: ドラマでは皇帝と妃の間の恋愛模様がドラマチックに描かれますが、実際のところ、結婚は政治的な目的で行われることが多く恋愛感情よりも政治的な駆け引きが重視されていたと考えられます。

こうした後宮の特徴は秦朝だけではなくどの王朝にも言えることです。

でも秦の時代はまだ儒教が広まっていません。漢代や宋以降に比べると女性の活躍できる場が多かったようです。趙姫のような奔放な女性もいました。

始皇帝の妃たちの中に宣太后、華陽夫人、趙姫のような個性的な女性がいたかどうかはわかりませんが。王子だけで20人以上いたのですから、その母たちの数も多かったはず。

その中にはドラマのネタになりそうな人もいたかもしれません。

そんな視点でドラマを楽しむのも面白いかもしれませんね。

 

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