王莽(おう・もう)は古代中国の政治家。
前漢に仕えた重臣でした。でもクーデターをおこして自分が皇帝になり。新を建国します。
王莽は熱狂的な儒教の信者でした。漢に仕えていた時代から儒教の考えを取り入れた政治を行い。皇帝になった後はさらに儒教社会の実現を目指しました。
ところが王莽は書物にある大昔(ほぼ架空)の社会の実現を目指したので現実離れした政策が多くなります。
結局、人々の支持を失って反乱を起こされて滅亡してしまいます。
王莽については様々なところで紹介されています。でも簒奪者とか悪者としての面ばかり強調されています。彼が政治家として何をしようとしたのかはあまり紹介されていません。
意外と知られていない史実の王莽はどんな人物だったのか紹介します。
王莽の史実
プロフィール
姓 :王(おう)
名称:莽(もう)
字: 巨君
国:漢→新
地位:→→皇帝
称号:
在位期間 8~23年
生年月日:紀元前45年
没年月日:23年10月6日
日本では弥生時代になります。
家族
父:王曼
母:功顕君
正室:皇后孝睦皇后、皇后史氏
側室:原碧、增秩、懷能、開明
子供:
息子:王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡
娘: 黄皇室主(漢平帝皇后)・王曄・王捷
王莽の生涯
おいたち
魏郡元城県委粟里(現在の河北省邯鄲市大名県の東)の出身。
前漢10代 元帝の皇后 王政君(孝元皇后)の甥。
成帝の母方の従弟になります。
王莽(おう・もう)の一族は漢皇室の外戚なので高い地位を与えられ大きな力を持っていました。
でも王莽はその恩恵を受けられませんでした。父と兄が早くに亡くなって、一家の大黒柱を失ってしまったからです。親戚がどんどん出世して贅沢な暮らしをしていく中で王莽は質素な生活をしていました。
王莽は陳参(ちん・さん)という学者に弟子入りして儒学を勉強しました。
王莽の生活は楽とはいえませんが、母に加えて兄の家族もひきとって面倒をみました。兄の子・王光を養子にして実の子以上にかわいがったので妻からは文句を言われることもありました。
成帝の時代に政治の世界に入る
陽朔年間(紀元前24~前21年)伯父の大将軍 王鳳(おう・ほう)が病気になってしまいました。王鳳は王皇后の兄です。
父のいない王莽は親孝行できないのでかわりに伯父の介護をしました。
王莽を気に入った王鳳は王莽を成帝と皇太后・王政君(おう・せいくん)に紹介しました。
このころ外戚の五候(王鳳の五人の弟)たちの横暴が問題になっていました。
紀元前22年。王鳳は後継者に弟で仲が悪かった王譚ではなく従兄弟で謙虚な王音(おう・おん)を指名。成帝も認めます。王莽は「外戚はこうあるべき」と思って王音の生き方を手本にしました。
皇太后・王政君の後ろ盾を得た王莽はどんどん出世しました。
元帝、成帝は儒教を取り入れた国作りをしようとしていました。儒教に詳しい王莽は皇帝にとっても頼もしい重臣だったのです。
このころ王莽のライバルだったのが淳于長(じゅん・うちょう)です。淳于長は王政君の姉の子でした。皇帝の親戚の地位を利用して賄賂をとり贅沢をしたり、許皇后の姉と密通していました。
それを知った王莽は淳于長を訴えました。成帝と皇太后・王政君は激怒。
淳于長は失脚して王莽が大司馬(首相)になりました。
紀元前16年。王莽は「新都候」になりました。
哀帝の時代に解雇される
紀元前7年。成帝が死去。哀帝が即位しました。
王莽は哀帝の祖母・傅太后、母・丁姫と対立。
哀帝は王一族を排除して儒学者を抑え込んで皇帝の力を高めようとしていました。
それに対して王莽は儒教の理屈を優先。哀帝との対立も深まります。
王莽は大司馬を罷免されやがて都を追い出されます。領地の新都に引きこもった王莽はますます儒教にのめり込みます。
このころ災害などで社会不安が高まり。「漢の命運は尽きようとしている」という考え方が出てきてました。
哀帝が男色相手の董賢(とう・けん)を信用して政治を任せました。董賢は哀帝の男色相手というだけで政治の才能はありません。賄賂をとり董賢の横暴がひどくなるばかりです。哀帝は「董賢に禅譲(皇帝の座を臣下に譲る)する」と言ったりして国は混乱していました。
王莽の復帰を望む声が出ていました。
紀元前1年。哀帝が死去。哀帝は死の直前に玉璽を董賢にあずけていました。
王莽の復帰
太皇太后王氏は董賢を解雇して玉璽を奪うと王莽を呼び戻して大司馬にしました。王莽は董一族から財産を没収、その金額は43億銭になったといいます。前漢末期の朝廷は腐敗していました。
王莽は元帝の孫・劉衎(りゅう・かん=平帝)を即位させました。わずか9歳でした。
劉歆(りゅう・いん)たち古文学派の儒学者を多く採用しました。再び儒教による国造をはじめました。民衆の支持を集めるために瑞祥(縁起のよい現象)も利用しました。
哀帝の皇后・傅氏を廃して自害させ。哀帝の外戚や臣下たちも粛清しました。
王莽は娘を平帝の皇后にしました。
王莽は古代の政治家「周公」を理想にしていました。
周公は西周の建国者・武王の弟。武王の死後、摂政になり幼い成王を補佐して国を守り、成王が成人後は隠居しました。
王莽は自分が周公のような存在になろうと考えました。
地方から白雉を献上させると宗廟に献上。臣下たちに「周公」の故事にならって王莽に「国の名前を付けた称号」を贈るように進言させました。太皇太后王氏は仕方なく認め。王莽に「安漢公」の称号とそれにふさわしい権限が与えられました。摂政に等しい権限を持ったということです。
6年。平帝が死去。わずか14歳の死亡でした。王莽の毒殺といわれることもあります。平定はもともと病弱で、王莽を悪く書く「漢書」にも王莽の毒殺とは書いてありません。病死だったのでしょう。
オカルトで皇帝に即位
王莽は「安漢公の王莽に告ぐ皇帝になれ」という天命(天の神の命令)を偽造。自分が皇帝になろうとしましたが、太皇太后王氏が反対しました。
3月元帝の後継者が途絶えたので宣帝の子孫から僅か2歳の劉嬰を選びました。劉嬰は皇帝ではなく「皇太子」になりました。そして王莽は摂政になりました。もはや劉嬰は飾り物。王莽は「仮皇帝」「摂皇帝」と名乗り事実上の皇帝として祭祀や政治を行いました。
4月。王莽の簒奪を警戒した劉崇が挙兵。しかし劉崇軍を鎮圧しました。
7年。翟義が東平王・劉信を担いで挙兵。劉信は「天子」を名乗り10万の兵を集めました。
あわてた王莽は政権を劉嬰に返すと発表。軍を派遣して劉信・翟義軍を撃退しました。
8年。王莽は儒学者の哀章(あい・しょう)に「高祖(劉邦)の予言」という設定の「天帝行璽金匱図」・「赤帝行璽某伝予黄帝金策書」という符命(預言書)を偽造させました。
8年。これらの預言書を根拠にして王莽は天子の座を「禅譲」されたとして皇帝に即位しました。国号は「新」にしました。
このとき、国璽を預かっていた太皇太后として伝国璽を預かっていた太皇太后王氏は、玉璽を受け取りに来た使者を罵倒、玉璽の引き渡しを迫られると玉璽を投げつけました。
神のお告げで皇帝が即位する。というオカルト政治の始まりです。
漢の皇族や一部の者達は反発しましたが。王莽が即位したことへの反発は少なかったようです。
漢末期は政治が腐敗、災害にも対応できない漢に人々は嫌気がしていました。民衆や豪族も、別に漢でなくてもいいのです。
王莽の改革
熱狂的な儒教の信者だった王莽は儒教の教えに基づいた政治を行いました。
とくに王莽は古代に存在した「周」が理想の国。その周をお手本に政治をしよう。と考えました。儒家の書物に「周礼」というのがあって、周が理想の国と書いてあるからです(周礼そものもが儒学者のでっち上げという説あります)。
井田法
王莽がまず行ったのは「井田法」です。豪族や地主が持っていた土地をすべて国のものにして、国が国民に土地を分け与えて税を集める制度です。
律令国家の均田制(日本では班田収授法)のもとになった制度です。
もちろん豪族や地主は反対します。「井田法」は王朝にとっては理想ですが、中国史上全国レベルで実現できた王朝はありません。日本がモデルにした唐の均田制も一部地域でしか行っていません。
それまで王莽のクーデターを静観していた豪族たちも王莽が自分たちの利権を脅かす存在だと気づきました。全国で猛反発が起こります。
王莽は反対する者には厳罰で対処しましたが、反対運動は収まりません。
結局、井田法は3年で中止になりました。
貨幣制度
王莽は漢の時代に貨幣制度を新しくしました。新建国後はさらに貨幣の種類を増やしました。偽造が増えたり、ダメだとわかれば次々に新しい貨幣を発行。実用性ではなく周礼を根拠に貨幣を作ったので非常に使いづらいものになってしまいます。貨幣の実際の価値と書いてある金額が違うのも偽造が増えた理由のひとつでした。
経済政策
・塩・鉄・酒を国の専売制にしました。
儒学者は商いを卑しい仕事と考え、国が商いを行うのを反対していました。前漢の武帝時代には行われていましたが。その後、儒学者の反対で廃止されていました。
王莽はガチガチの儒学者にもかかわらず専売制を再開します。専売制は国の財源になるからです。でも仲間の儒学者からも批判を浴びて中止に追い込まれます。
・均輸法・平準法
特産物を国が買い上げ備蓄。物価高騰時には備蓄品を市場に出して価格を下げて。物価が下落時には国が買い込んで市場価格を安定化させる法律。商人や農民の生活を安定させるための法律です。
・貨幣の鋳造は国が独占する。
・農民に国が低利子で融資する。
このように王莽は国民の生活をよくするため様々な経済政策を行いました。経済については儒教だけに凝り固まった儒教原理主義者ではありませんでした。
でも王莽の政策は貨幣の鋳造者や高利貸など既得権との衝突が避けられません。結局、抵抗勢力の反発を受けて失敗します。
外交での差別的対応
王莽は朝貢国に与える爵位や名前を差別的な内容に変えました。
匈奴の王に与える称号「匈奴単于」を「降奴服于」、「高句麗」を「下句麗」に変えました。当然、匈奴や高句麗は反発します。
「周礼」の世界観では国外の異民族も中華皇帝の支配する「天下」に入っている。と考えます。中国側からみると「外国の野蛮人も中華王朝の皇帝に従え」となるのです。
王莽は「周礼」の世界観の実現を目指しました。
異民族への差別的な考えは春秋戦国時代からありました。儒教は差別を正当化する教えなのでますます外国・異民族への差別がひどくなります。
この考えは後の中国王朝の基本になりました。特に中国が強い時はこの考えがよく出てきます。王朝はなくなっても考え方は現代まで続きます。
その他の改革
王莽は漢の時代に「皇帝の即位儀礼」の方法を決めました。「天子(皇帝)は天(=神)から認められた存在」という儀式を行います。
どの王朝も王の権威には宗教的な意味があります。王莽は儒教の世界観で皇帝の正当性を演出しました。
王莽の考えた演出は新朝滅亡後も後漢の光武帝に受け継がれ。以後、歴代中華王朝の皇帝に受け継がれました。
王莽は儒学の学校を全国に作り勉強を奨励させました。後漢時代には儒学を勉強する人が多くなりました。
新朝の滅亡
数々の政策が失敗して人々の不満が溜まっている中。新朝末期に大規模な飢饉がおこりました。
食べていけなくなった人々が集団を作り略奪をはじめました。役人への不満から農民たち反乱がおこりました。生活への不満はそのまま王莽への不満に繋がり、全国で反乱が起こりました。
赤眉の乱、緑林軍など各地で農民、盗賊、豪族が挙兵して大きな反乱が続出します。
その中から反乱勢力をまとめた更始帝・劉玄が出現。
王莽は更始帝軍を討とうと自称100万(実際には40万程度とも)の軍を派遣しましたが、昆陽の戦いで劉秀(後の光武帝)たちに敗北。各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。
地皇4年(23年)。権威の落ちた王莽は臣下たちからも裏切られ、長安城を更始帝軍に攻められます。その混乱の中で杜呉という商人に殺されました。
享年68。
知識人政治の限界
民の生活をよくしたいという王莽の発想は悪くないのですが。現実を無視して儒教の経典の中にあるヴァーチャルな世界を実現しようとしたので無理がありました。
王莽は読書はできても現実的な方法で制度設計ができません。反発されても押さえ込む力もありません。うまくいかなかったらすぐに変えてしまい一貫性がありません。現実を見ない知識人政治家の悪い部分がでました。
結局、豪族や地主、高利貸しからは反発を受け、農民や商人たちを救おうとしたのに彼らの生活を苦しめてしまい、民衆からも見放されます。
皇帝の座を奪ってまで行った改革に失敗した王莽は二千年間バッシングを受け続け人格否定までされて極悪非道な悪者の代表になりました。
でも洪武帝 劉秀の建国した後漢は王莽が作ろうとした儒教国家を実現可能な範囲で再現したもの。儒教国家の雛形は王莽の時代にかなりできあがっています。
儒教を中心にした国のしくみは後の中華王朝、そして朝鮮半島の国々や日本にも影響を与えました。
王莽は東アジアを大きく変えた功労者(罪人)だったのかもしれません。
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