明の第5代皇帝・宣徳帝こと朱瞻基(しゅ・せんき)は、政治や文化に秀でた名君として知られます。
その一方、後宮では波乱の決断を下した人物でもあります。皇后・胡善祥の廃位と側室・孫氏の昇格は宮廷内に大きな波紋を呼びました。
この記事では宣徳帝を取り巻いた皇后や側室たちの波乱の生涯に迫ります。
宣徳帝ってどんな人?

明の宣徳帝
宣徳帝(せんとくてい)朱瞻基(しゅせんき)は明の第5代皇帝です。彼の治世は「仁宣の治」と呼ばれ政治が安定し文化が大きく栄えました。宣徳帝自身も絵画や詩歌を好み学問にも大変よくできました。彼はとても賢い方でしたが一方で自分の意思を強く持つ一面もありました。
特に後宮の問題ではその強い意思が大きく影響し皇后の廃位という異例の事態まで引き起こしています。これは当時の明の宮廷における皇帝の絶対的な権力をはっきり示す出来事でした。
この記事では宣徳帝の皇后と側室を紹介します。
胡善祥:男子に恵まれず廃された悲劇の皇后
宣徳帝の皇后は胡善祥と孫氏の2人です。彼女たちの生き方は対照的です。
最初の皇后 胡善祥 悲運の廃位
胡善祥(こぜんしょう)は朱瞻基(しゅせんき)が皇太孫だった頃から正室でした。
彼女は穏やかで慎ましい人柄です。小さな失敗はあったようですが、皇后を廃されるような大きな過失は何一つありませんでした。でも真面目でそのおっとりとした性格が、派手好きな宣徳帝の心にはあまり響かなかったようです。
宮廷では皇后としての品格は保っていましたが、皇帝からの寵愛を十分に受けることは少なかったと伝えられています。
廃位の背景に孫氏の存在
宣徳帝は孫貴妃を寵愛していました。孫貴妃には男児(後の英宗)もいます。宣徳帝は息子の母をどうしても皇后にしたくなりました。
孫貴妃の存在は胡善祥の立場を危うくしていきます。
宣徳帝は孫氏を深く愛し皇后にしたいと強く願っていました。でも胡善祥に廃位できるほどの落ち度はありません。臣下たちの意見はまとまりませんでしたが宣徳帝の意思は強く、胡善祥に「病気で皇后としての務めが果たせない」という理由で皇后の位を辞退するよう迫りました。
張太后は廃位に反対しましたが、胡善祥は辞退を受け入れました。
廃位後の胡善祥
皇后の位を廃された胡善祥はそれでも尊敬される存在でした。彼女は長安宮に移り、道教に出家。「静慈仙師」の称号が与えられ、静かに余生を送ります。でもその胸の内には悔しさや悲しみが渦巻いていたに違いありません。
張太后は廃された胡氏を気の毒に思って、清寧宮によく招きました。宮廷の宴でも張太后は胡氏を孫皇后より上位に座らせ、孫皇后はそのため不快に感じていました。
胡氏が無実の罪で廃されたので、世の中の人々は同情しました。
後に宣徳帝もこのときの決定を後悔「かつてこれは私が若気の至りでやったことだ」と自嘲しました。
孫皇后の息子によって名誉回復
数十年後。宣徳帝と孫皇后の息子の英宗が復位すると胡善祥の皇后としての名誉は回復されました。
これは英宗が彼女の無実を認め、母の孫皇后の行為を間接的に正す意味合いもあったのかもしれませんね。
胡善祥は生前は悲劇の皇后として生涯を終えましたが後世によってその名誉が再び認められたのです。
孝恭章皇后 孫氏:宣徳帝が一番愛した皇后
宣徳帝を支えた孝恭章皇后 孫氏の生涯
孝恭章皇后 孫氏は幼い頃から美しく賢かったといいます。
永楽帝の時代。10歳の孫氏は当時の皇太子妃・張氏の母の推薦で宮廷に入り、朱瞻基と出会っています。
その後、朱瞻基の正室には胡善祥が決まり、孫氏は側室となりましたが。孫氏は深く寵愛されました。
皇太子嬪から皇后へ
1425年に宣徳帝 朱瞻基が即位すると孫氏は貴妃になります。しかし孫貴妃が息子の朱祁鎮(後の正統帝・英宗)を出産すると宣徳帝は胡善祥を廃位させ孫貴妃を皇后にしました。
皇太后としての政治と波乱
1435年に宣徳帝が崩御、8歳の息子・朱祁鎮が即位すると孫氏は皇太后になりました。張太皇太后と有能な臣下が政治を行っていたので特に問題は起こりませんでした。
張太后の死後、宦官の王振が勢力を拡大しますが孫太后はそれを放置。これが後の明朝に大きな影を落とすことになるのです。
1449年。王振の横暴が原因で明とオイラトの戦争が勃発。正統帝(英宗)・朱祁鎮は「土木の変」で捕虜になってしまいます。
孫皇太后は身代金を用意しますが朱祁鎮は釈放されず、重臣たちの要求を受け入れて朱祁鈺(景泰帝)を皇帝に擁立しました。
朱祁鎮は後に明に戻りましたが景泰帝によって幽閉されます。孫皇太后は幽閉された息子を気遣い綿の服を送るなど援助しました。
奪門の変と英宗の復位
後に景泰帝が病で寝込むと、孫皇太后は反景泰帝派の重臣たちに勅命を与え、彼らが朱祁鎮を救出する「奪門の変」を正当化します。朱祁鎮は再び皇帝に復位して景泰帝派の于謙らは処刑されました。
1462年。孫皇太后は死去。
ドラマでは優れた人物に描かれることが多いですが。張太后が抑えていた、宦官の横暴を許したり、土木の変とその後での自分と息子優先の一貫性のない対応など。史実はそうでもなかったようです。
宣徳帝の側室たち
宣徳帝の側室たちは皇后たちと同様に様々な運命をたどりました。中には歴史に翻弄され悲しい最期を迎えた女性たちもいます。
名前/称号 | 子 | 備考 |
---|---|---|
榮思賢妃 呉氏 | 朱祁鈺(明代宗) | 明代宗の生母。英宗復位後に賢妃に降格。 |
貞哀國嬪 郭愛 | なし | 賢明で文学の才能に恵まれ詩を残す。入宮後すぐに死去。 |
端靜貴妃 何氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
純靜賢妃 趙氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
貞順惠妃 吳氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
莊靜淑妃 焦氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
莊順敬妃 曹氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
貞惠順妃 徐氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
恭定麗妃 袁氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
貞靜恭妃 諸氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
恭順充妃 李氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
肅僖成妃 何氏 | なし | 宣徳帝の死後殉葬される。 |
明代宗の生母 榮思賢妃 呉氏の波乱の生涯
榮思賢妃 呉氏は宣徳帝の側室の一人です。
後の明代宗 朱祁鈺の生母でした。でも宣徳帝の時代まではそれほど目立つ存在ではありません。
土木の変で息子の朱祁鈺が皇帝の座に就くと、呉氏は皇太后になります。でも英宗 朱祁鎮 が復位すると彼女の地位は賢妃へと降格されてしまいました。
女性たちは自分自身の力だけでなく、生んだ息子の運命によってその地位が大きく変わるのです。
短命の才女 貞哀國嬪 郭愛の詩
他にも印象的な側室がいます。それが 貞哀國嬪 郭愛です。彼女は賢く文学の才能に恵まれていました。
宣徳3年(1428年)に後宮に入りましたが、この時すでに病が重く自分の死が近いことを悟っていたといわれます。
入宮前に彼女が詠んだ「京邸病革自哀」という詩はその悲しい心情を今に伝えています。
修短有数兮不足較也。
(寿命には限りがあり 比べようもない)
生而如夢兮死則覚也。
(生きることは夢のようであり 死ねば覚める)
先吾親而帰兮慚予之失孝也。
(親よりも先に逝くことは 親不孝で恥ずかしい)
心凄凄而不能已兮是則可悼也。
(心がひどく傷つき 止まらない これこそ悲しむべきことである)
彼女の予感通り入宮後わずか20日で29歳という若さで亡くなりました。宣徳帝は彼女を「国嬪」に追封し「貞哀」という諡を贈っています。
『明史』でも「賢にして文あり」と高く評価されるなどその才能と短い生涯は多くの人々の心に深く刻まれています。
殉葬された側室たち

白い布
宣徳帝には多くの側室がいました。でも記録は少なく、多くが殉葬されています。
宣徳帝の死後、多くの側室たちが残酷な運命をたどりました。何氏、趙氏、呉氏、焦氏、曹氏、徐氏、袁氏、諸氏、李氏、何氏といった女性たちが殉葬されました。
殉葬は主君が亡くなると殺害され、主君と共に埋葬される制度です。明朝では初代皇帝 朱元璋がこの制度を決めて宣徳帝の時代まで続いていました。
これらの殉葬された女性たちに関する入宮時期や詳しい生没年などの資料はほとんど残されていません。
彼女たちは自分の意思とは関係なく皇帝の死とともに命を奪われました。朝天女と呼ばれているものの、当時の儒教社会では女性たちの命がどれだけ軽いかを物語っています。
まとめ
宣徳帝の皇后と側室たちの運命は、皇帝の愛情や権力に翻弄された人生でした。特に胡善祥の廃位や殉葬制度により命を落とした側室たちは、当時の女性たちの置かれた厳しい現実が浮かび上がります。
一方で孫氏のように皇后・皇太后として権力の中枢に立った女性もいましたが、彼女の行動にも賛否あります。この記事を通してあなたは宣徳帝の皇后や側室たちについて何を思ったでしょうか?
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