容妃は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の側室。
ウイグル出身イスラム教徒の妃です。
「香妃」伝説のもとになった人物です。
「瓔珞<エイラク>」では順嬪・録祜禄 沉璧
「如懿傳」では容妃・寒香見 として登場します。
史実の容妃はどんな人物だったのか紹介します。
容妃 の史実
どんな人?
名前:清朝の記録はなし。
一説には”買木熱·艾孜木”
ウイグル語では”فاتىمە:ファティマ”と呼ばれていました。生年月日:1734年
没年月日:1788年
彼女が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
家族
母:不明
夫:ホージャ・ジャハーン→乾隆帝(けんりゅうてい)
兄:トゥルドゥ・ホージャ(圖爾都和卓木)子供:なし
おいたち
容妃(本名ファティマ)はイリ(現在の新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州)生まれのイリ育ち。
父はイスラム教の指導者 エリ・ホージャ(艾力和卓木)
もともとはイスラム教スーフィーズムの宗派で「指導者」を意味する称号。後に指導者一族の名前になりました。容妃もホージャを名乗る一族の出身です。
この地域にはファティマ(容妃)の一族以外にもホージャを名乗る集団がいました。ファティマはそのホージャ・ジャハーンと結婚しました。
でもファティマの一族とホージャ・ジャハーンの一族はあまり仲がよくありません。政略結婚で嫁いだものの二人の仲はよくなかったようです。
大小和卓の乱
イリ地方は長年ジュンガルが支配していましたが。1755年に清がジュンガルを滅ぼし、清支配下におかれました。
1757年。ウイグルの指導者ブルハーン・アッディーン(大ホージャ)とその息子ホージャ・ジャハーン(小ホージャ)は清に対して反乱を起こします。
乾隆帝は鎮圧軍を派遣。
このときファティマの弟トゥルドゥ・ホージャは清に味方しました。
ファティマはホージャ・ジャハーンから離縁。ブルハーン・アッディーン(大ホージャ)とその息子ホージャ・ジャハーン(小ホージャ)は逃亡しました。
まもなくトゥルドゥ・ホージャは反乱の首謀者・ホージャ・ジャハーン(小和卓)を殺害してその首を清に差し出し、ファティマも保護されました。
北京にやってくる
1759年(乾隆24年)9月。大小和卓の乱鎮圧後。ホージャ一族は清朝に服従。新疆からトゥルドゥ(圖爾都)とその妹・ファティマ(法蒂瑪)たちホージャ一族が北京に送られることになりました。
1760年(乾隆25年1月)。ホージャ一族は北京に到着。ファティマは内務府に預けられました。
ホージャ一族は西苑に作られた瀛台という名の宮殿で暮らすことになりました。西苑には南海という池があり南海には小島があります。そこに瀛台がありました。島は陸地とつながっているので行き来が可能です。砂漠から来たウイグルの人々を水に囲まれた場所で暮らしました。
乾隆帝は宴を開いて投降したホージャ一族をもてなしました。
乾隆帝の側室になる
1760年(乾隆25年2月)。皇后那拉氏はファティマを「和貴人」に任命。姓の和卓(ホージャの漢字表記)から1字をとったので「和貴人」になりました。
乾隆帝は和貴人を宝月楼に住まわせました。
ホージャ一族が来る以前。乾隆帝は1758年(乾隆23年)に宝月楼という屋敷を西苑に建てていました。宝月楼は和貴人のために建てたわけではありませんが。妃にふさわしい場所と考えたのでしょう。
宮中でもイスラム教を信仰
和貴人はウイグル人なのでイスラム教を信仰していました。服装もイスラム風のままです。乾隆帝は容妃がウイグルの習慣通りに暮らすのを許可しました。
また彼女のために宝月楼の隣に「回子営」という名前の礼拝堂(モスク)を建てました。
1762年(乾隆26年12月)。崇慶皇太后が和貴人を「容嬪」に任命。
1765年(乾隆30年)。崇慶皇太后が和貴人を「容妃」に任命しました。
乾隆帝は生涯で6度南巡しました。
正月から4月にかけて温かい南の地方を視察することです。皇帝はこの南巡にお気に入りの妃を連れていきました。
乾隆帝は第3回(1762年)、第4回(1765年)、第5回(1780年)、第6回(1784年)の4回の南巡で容妃を連れていきました。容妃が側室になった後に行った南巡には全て同行させているのです。
イスラム教徒なので豚肉は食べない
1771年、1778年の東巡にも連れていきました。1778年の東順では妃嬪たちの夕食に猪肉が出ました。でも容妃は食べません。乾隆帝が与えた鹿肉を食べました。
豚は猪を家畜化したものです。イスラム教徒は豚肉は食べませんが猪肉も食べられないのです。イスラム教徒の容妃のためにイスラム教徒の専属料理人がいて容妃の食事を作っていました。
意外と紫禁城では穏やかな人生
その後も乾隆帝は元明園で宴をひらくなど容妃をもてなしました。
1784年(乾隆49年)。乾隆帝は容妃50歳の誕生日を祝い、ヒスイや赤や白のメノウで飾った宝物を与えました。
清朝の後宮にイスラム風の女性がいたらそれだけで目立つかもしれません。でも紫禁城で暮らした容妃にはドラマのネタになるような事件はありません。
容妃の最後
1788年(乾隆53年)。容妃は病気で死亡しました。享年55.
東陵の裕陵妃園に葬られました。
容妃の遺体は龍袍(龍の刺繍の衣装、皇帝の権威の象徴。非常に高い身分の人しか付けられません)を着せられて手厚く葬られました。
棺にはイスラム教徒を証明するようにウイグル語で「アラーの名により・・」と書かれていたそうです。容妃は最期まで大切にされていたようです。
容妃の遺品の一部は他の側室、王女、親戚などに与えられました。容妃の親戚や子どもたちにも褒美が与えられました。
ドラマのようなエピソードはなかった
このように歴史上の容妃はウイグルから北京に連れてこられて暮らしました。本人が望んだことではありませんし。一族のたどった運命は大変なものがあります。
でも紫禁城で暮らす容妃には香妃伝説のような刺激的でドラマチックな展開はありません。大切にされつつも何十人もいる側室の一人として暮らし余生を終えました。
中国のドラマでは歴史上の容妃 和卓氏が再現されることはありません。香妃の伝説をもとにドラマ化されることが多いです。その場合もウイグル出身ではなく、中国のどこかの地方出身にされる事が多いです。
テレビドラマ
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜
2018年、中国
役名:順嬪・録祜禄沉璧 演:張嘉倪
瓔珞に容妃は登場しません。録祜禄・沉璧が順嬪・録祜禄氏と容妃を足したような人物として設定されています。瓔珞がいない間に、あっというまに乾隆帝の心をつかんだ側室として描かれます。ところが乾隆帝を暗殺しようとして失敗、幽閉されます。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~
2018、中国
役名:容妃・寒香見 演:李沁
部族が清に征服されたあと。宮殿に連れてこられました。恋人の復讐をするため乾隆帝の暗殺を考えています。主人公・如懿とは仲がいいです。
香妃の設定を利用して乾隆帝を暗殺しようとするというパターンは同じ。でも、どちらのドラマもウイグル族でイスラム教徒、和卓(ホジャ)氏という史実が変えられています。
過去には中国でもウイグル出身の香妃が登場するドラマがありました。その場合でも伝説上の香妃になってることが多く、歴史上の容妃がドラマ化されたことはありません。
最近はさらに設定を変えて別の民族になっていることが多いです。今の中国ではウイグルに触れてほしくないのかもしれません。
ウイグルから来た容妃をもとに香妃伝説が生まれました。
ドラマのネタによく使われるのは伝説の方です。
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