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恵文后 の史実・宣太后と争った王妃の最後

秦 8 春秋戦国

恵文后は古代中国・秦の恵文王の正室。

昭襄王の義理の母です。

中国ドラマ「ミーユエ」ではヒロイン羋月(ミー ユエ、宣太后)のライバルとして登場する羋姝(ミー シュ)が恵文后になります。

宣太后と恵文后は同じ楚国出身でしたが王位争いをめぐり対立。恵文后は宣太后との争いに負けて処刑されます。

史実の恵文后はどんな人だったのでしょうか。

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恵文后とは

姓:魏(ぎ)、あるいは 姫姓 魏氏
名前:不明

国 :魏または楚→秦
称 号:恵文后(けいぶんこう)生 年:不明
没 年:紀元前305年

家族

父:不明
母:不明
夫:恵文王
子:武王

 

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恵文后の生きた時代とは

春秋戦国時代の中国

恵文后が生きたのは紀元前4世紀の春秋戦国時代。
当時は周が分裂していくつかの国が争っていました。当時存在した主な国は秦・趙・楚・魏・燕・韓(朝鮮半島の国とは別物)などです。

恵文后が産まれたのは中国南東部になった楚(そ)という国。宣太后と同じ国です。

日本では弥生時代になります。

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恵文后の生涯

おいたち

姓が「羋(び)」ではなく「魏(ぎ)」だったので王族ではなかったのかもしれません。

ドラマミーユエでは楚出身だとわかりやすくするためか姓は羋になっています。

紀元前334年。秦の恵文王の正室になりました。姓をとって魏夫人と呼ばれます。

紀元前329年。蕩(後の武王)を出産しました。

武王の時代

紀元前311年。恵文王が死去。恵文王と恵文王后(魏夫人)との間に生まれた蕩(武王)が即位しました。

武王の時代も恵文王の家臣たちが残って政治を行いました。恵文王に仕えていた魏冄も重臣として武王に仕えました。魏冄は宣太后の弟です。

紀元前307年。武王は腕力が強く力試しが好きでした。あるとき孟説(もうせつ)という力持ちと鼎(てい)という鍋のような青銅器を持ち上げて力比べしました。ところが武王は脛骨を骨折して死亡してしまいます。

孟説は責任を取らせれて処刑されました。

武王の後継者を巡って争いが起こる

武王には正室の武王后との間に息子はいませんでした。

武王の兄弟(恵文王の息子)に公子壮がいたので重臣たちは公子壮を次の王にしようとします。

ところが宣太后と彼女の弟・魏冄(ぎせん)は燕国に人質に出されていた稷(しょく)を担ぎ出して王にしようとしました。

秦の重臣たちの多くは稷が王になるのは反対でした。しかし宣太后と魏冄は趙国の武霊王の助けも借りて強引に稷を秦の王にしてしまいます。稷は即位して昭襄王(しょうじょうおう)になりました。

公子壮を支持・恵文后の最期

昭襄王は18歳とまだ若かったので宣太后が摂政になり。魏冄が実権を握って政治を行いました。華陽君も左宰相になりました。宣太后の一族が秦を動かすことになったのです。

紀元前305~306年。王位争いで敗れた公子壮は不満を持ち続けました。

そして公子壮は昭襄王に快く思わない人々を集めてて反乱を起こしました。しかし反乱はすぐに鎮圧されてしまいます。

このとき、恵文后も公子壮を支持しました。しかし反乱が失敗すると公子壮に味方した大臣は処刑されます。恵文王后も捕まり処刑されてしまいました。武王の妃・武王后は逃亡して出身地の魏国に逃げました。

これにより宣太后と魏冄の力はますます強くなり、宣太后一族の時代が来るのでした。

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まとめ

中国ドラマ『ミーユエ』で話題の恵文后。

恵文后は魏の出身で秦の恵文王の正室となりました。

ドラマ『ミーユエ』では楚の王女として描かれることもありますが、史実では違うんですね。

恵文王の死後、息子・武王が即位。ところが武王は若くして死亡。

その死後。後継者争いが勃発。即位したのは羋八子の子の昭襄王でした。恵文后は嬴壮を支持したため、悲劇的な最期を迎えてしまいます。

恵文后の生涯は秦の権力争いの激しさを物語るだけでなく、一人の女性が歴史の渦中に巻き込まれたドラマティックな物語ともいえますね。

 

ドラマ

ミーユエ 2015年、中国 役名:羋姝 演: 劉濤

昭王〜大秦帝国の夜明け 2017年、中国 役名:恵文后 演:傅淼

 

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