韓非子は戦国時代の天才思想家。法家思想を体現した政治家として知られています。しかし秦に渡った後に命を落としました。一般的には「同門の李斯による毒殺」とされますが、『戦国策』では姚賈への反対が理由とされる説や、秦王嬴政自身が背後にいた可能性も指摘されています。
この記事では、李斯説を中心に複数の歴史的記録や学者の見解を整理して韓非子の死因とその背景にあった戦国の権力争いをわかりやすく解説します。
韓非子とは?生涯と思想

韓非子のイメージ
生い立ちと法家思想
韓非子(かんぴし)と呼ばれることも多いですが。名前は韓非(かんぴ)。敬意をこめて「韓非子」と呼ばれます。
韓非子は今から2,300年ほど前の中国戦国時代の思想家です。韓(かん)という国の王族に生まれ、幼い頃から学問に優れていました。
韓非は少し口が不自由だったと伝えられています。でも文章を書く才能は非常に優れていました。彼の考えをまとめた書物『韓非子』は法家思想の集大成と言われています。
韓非子の考え方:法家思想
韓非子は 法家思想(ほうかしそう)を完成させた人物として知られています。
その思想では国を治めるには3つの要素が重要だと考えました。
- 法(法律): 誰もが守るべき共通のルール
- 術(統治の技): 君主が家臣をコントロールする技術
- 勢(権力): 君主が持つ絶対的な力
彼は単に厳しいだけではなく、儒家や道家といった他の思想も学んでいました。道家の「無為(あるがまま)」という考え方をヒントに君主が余計なことをしなくても法律と権力で国が安定する仕組みを追求したのです。
この徹底した合理的な考え方が秦の始皇帝に大きな影響を与えました。
『韓非子』という書物
『韓非子』は韓非が書いたとされる書物。全55編で構成され、国を治めるための法家思想が体系的にまとめられています。
この書物は「人間は自分の利益を最優先する利己的な存在である」という前提に立ち、法律と権力で社会を統治する方法を説明してます。
戦国時代の政治背景
韓非子が生きた戦国時代は、七雄(斉・楚・燕・韓・魏・趙・秦)が互いに覇権を争った激動の時代でした。各国は権力争いの中で法や軍事を駆使し、国力を強化する必要がありました。その中で法家思想は国家の安定と統一を実現するための実践的な政治理論として注目されます。
韓非子は自国韓の貴族として外交や政治にも関与しましたが、法家思想を背景に秦に渡った際、その冷徹さや合理性が秦王の重臣たちとの間に緊張を生みます。この時代背景を理解することで、なぜ韓非子が秦で命を落とすことになったのか、その政治的な必然性も見えてきます。
『史記』が伝える韓非子の死因:李斯による毒殺説
韓非子の死因として、よく知られているのは、歴史書『史記』に書かれた「同門の友人である李斯による毒殺」という説ですね。
同門の友 李斯が抱いた深い嫉妬
韓非子は戦国時代の韓の貴族でした。彼は法家の師匠である荀子(じゅんし)のもと学び、後に秦の宰相となる李斯と同学でした。
秦王 嬴政は韓非子の著書を読んで「この人物と交友を結べれば、死んでも悔いはない」とまで絶賛したと言われています。この言葉が李斯に強い危機感を与えたといいます。もし韓非子が秦で重用されれば自分の地位が危うくなると考えたようです。
権力争いの末 毒殺された韓非子
秦が韓を攻めたとき、韓王は韓非子を秦への使者として送ります。秦に渡った韓非子に対して李斯は自身の権力を守ろうと謀略を巡らせました。
李斯は秦王 嬴政に「韓非子は韓の公子であり、秦の天下統一を妨げる可能性がある」と讒言(ざんげん)します。
秦王 嬴政は李斯の言葉を信じて韓非子を投獄しました。李斯は人を使って毒薬を送り、自害を促したとされています。韓非子は弁明を試みましたが許されませんでした。
後に秦王 嬴政は後悔し、赦免を命じました。しかし、間に合わず韓非子はすでに毒薬を飲んで亡くなっていました。

投獄された韓非子のイメージ画像
『戦国策』の説:韓非子の死因は姚賈に反対したから?
でも韓非子の死因については李斯の嫉妬説に疑問を呈する別の見解もあります。特に注目されるのが、より古い歴史書『戦国策』に書かれた説ですね。
『戦国策』が示す「姚賈への讒言説」
『史記』よりも古い歴史書である『戦国策・秦策』には、韓非子が殺された理由が秦の重臣である姚賈(ようか)への讒言のためだと明確に書かれています。ここでは李斯の関与は一切触れられていません。
『戦国策』によると、秦が連合国を恐れた際、姚賈は使節として連合を破壊することを提案しました。しかし韓非子は姚賈の提案に反対、彼を誹謗した結果、秦王が韓非子を誅殺したというのです。
司馬遷の記述への疑問と李斯の「冤罪」の可能性
日本の東洋史学者である貝塚茂樹(かいづかしげき)氏や、中国の国学の大家である銭穆(せんぼく)も、李斯の嫉妬説に疑問を投げかけています。
李斯が韓非子を秦王 嬴政に紹介した事実や、李斯が投獄後も韓非子の言葉を引用し尊敬していた点などから李斯が嫉妬心から韓非子を殺したとは考えにくいというのです。
そのため韓非子の死は李斯の個人的な感情ではなく、韓非子自身の政治的主張が秦国の統一方針と衝突した結果だった可能性も考えられます。
秦王 嬴政こそが韓非子の死の真の黒幕か
さらに韓非子の死に秦王 嬴政が深く関与していたという見方もできます。
『史記』によれば李斯が「韓非子を故国に帰せば、将来秦を裏切る可能性がある」と進言した際、秦王 嬴政がこれを認めたとされています。
秦王 嬴政は一度は韓非子を高く評価しました。しかし「秦王は彼を喜んだが、まだ信用していなかった」という記述もあり、彼が韓の公子であることに疑念を抱いていたようです。
また『史記』には秦王 嬴政が後に韓非子の死を後悔し赦免を命じましたが。李斯を厳しく罰しなかったことが記されています。
このことから、秦王 嬴政こそが韓非子を死に至らしめた鍵となる人物であった可能性も考えられますね。
いくらなんでも大臣が独断で君主の意に逆らって要人を殺害するとは考えにくいですし。もし嬴政が本当に韓非子を許すつもりなら李斯が厳罰に処されているはずだからです。
韓非子の人物像と法家思想が運命を左右した
韓非子の死を理解するには、彼の人物像と法家思想も重要です。
「冷酷で情に薄い」という評価と国家の安定を追求した法治主義
『漢書』などには韓非子が「親族を害し、情に薄い」人物だと書かれています。自身の著書でも法律違反をした姉の足を切り落とさせる「梁車刑姊(りょうしゃけいし)」のような厳格な例が見られますね。
でも、この冷徹さは彼が国家の法を絶対視していたことの表れだと考えられます。彼は厳格な規則の執行を行うことで国を治め民衆を安定させられると信じていました。
商鞅(しょうおう)への尊敬や「民衆に利益をもたらす」という思想から、個々の命は犠牲にしてでも国家や社会の安定を維持しようと考えていたと考えられます。
思想の厳しさが生んだ悲劇
韓非子の法家思想は厳格な法による統治を目指すものです。感情や血縁に左右されず、公平な法で国民を統治することが国の秩序を保つ道だと考えました。この思想は秦の天下統一の強力な指針となります。
でも、あまりにも厳しすぎるので既存の秩序や既得権益を守ろうとする人々からは反発を受けました。韓非子の思想が結果的に彼自身の敵を作って、命を奪う一因になったとも言えるでしょう。
まとめ:歴史が語る天才の教訓
韓非子の死因については歴史書『史記』に記された李斯による毒殺説が長らく定説とされてきました。
でも、より古い『戦国策』に書かれた姚賈への讒言説や、李斯の冤罪の可能性、さらには秦王 嬴政が黒幕であったとする見方もあります。
この記事では、韓非子の死は李斯の個人的な嫉妬だけでなく、韓非子自身の政治的信念、そして秦王 嬴政の冷徹な国家戦略が複雑に絡み合った結果だったと結論付けたいと思います。
特に天下統一を目指す秦にとって韓非子の思想は魅力的でしたが、彼の故国への思いや外交戦略への反対が彼の命を奪う原因になった可能性が高いですね。


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