陰麗華(いん・れいか)光烈皇后 は後漢の皇帝・光武帝 劉秀の皇后。
光武帝・劉秀が皇帝になる前からの妻でした。ところが戦乱の中で離れ離れになり、劉秀と再会したときには彼には別の妻・郭氏と子がいました。
劉秀が皇帝になると皇后は郭氏に決まりました。
後に皇后になりましたが、それでも質素な生活を続け親族を政治に参加させないよう気をくばりしました。
唐・太宗の長孫皇后、後漢・明帝の馬皇后とともに中国史上でも特に優れた皇后とされます。
史実の光烈皇后はどのような人物だったのか紹介します。
光烈皇后の史実
出典:wikipedia 陰麗華
プロフィール
姓 :陰(いん)
名称:麗華(れいか)
国:後漢
地位:貴人→皇后→皇太后
称号:光烈皇后(こうれつこうごう)
生年月日:元始5年(西暦5年)
没年月日:永平7年1月20日(西暦64年2月26日)
彼女は後漢の初代皇帝・光武帝の正室です。
日本では弥生時代になります。
家族
母: 鄧氏
夫:光武帝(劉秀)子供:
明帝 劉荘
東平憲王 劉蒼
広陵思王 劉荊
臨淮懐公 劉衡
琅邪孝王 劉京
おいたち
陰家は南陽郡新野県の広大な土地を持つ大富豪。
その力は
と言われるほどでした。
でも一族出身の高官・宦官はいないので政治的な力はありません。
とはいうものの陰家は前漢・朝廷の有力一族・鄧氏とは代々付き合いをしており、陰麗華の妹は鄧讓の妻。陰麗華の母も鄧氏出身。注目される存在ではあったのです。
陰麗華は前漢時代の元始5年(西暦5年)に誕生。陰麗華は地元でも評判の長身の美女でした。しかも大富豪の娘です。
挙兵前の劉秀(光武帝)も
とあこがれていました。
前漢滅亡・新王朝の時代
西暦8年。漢滅亡。新が建国。
ところが新朝末期より各地で反乱が起こり戦乱の時代になります。
西暦22年。劉縯・劉秀兄弟が挙兵。
結婚直後の別居生活
更始元年(23年)6月。陰麗華と劉秀は結婚。陰麗華は19歳。劉秀は29歳でした。
9月。劉秀に更始帝から北方の賊を討つように命令が出ました。劉秀は陰麗華を新野の実家に送り返します。
結婚して3ヶ月で別居生活になってしまいます。
陰麗華は実家に戻り兄・陰識と一緒に暮らしました。
知らない間に夫が他の女と結婚
更始2年(24年)。劉秀は邯鄲を攻めるため兵を集めていました。
劉秀は前漢の王族の子孫ですが家は裕福ではなかったので大きな軍隊は持っていません。地域の有力者に味方になってもらうしかなかったのです。
劉秀は河北で30万の兵をもつ真定王・劉楊を味方にしたいと思いました。そこで劉楊の姪・郭聖通を正妻にします。政略結婚で劉楊を味方にしたのです。
別居生活中の陰麗華は事実上の側室になりました。
夫の劉秀が皇帝(光武帝)になる・後漢の建国
夫が後漢の皇帝になる
更始3年(25年)。劉秀は皇帝に即位。「光武帝」と呼ばれます。国号は「漢」。歴史上は劉邦が建国した漢(前漢)と区別するため「後漢」といいます。
光武帝は陰麗華と郭聖通を「貴人」にします。
久しぶりに会った夫には別の妻と子供がいた
劉秀は使者を送って新野にいる陰麗華を迎えに行かせました。陰麗華と劉秀は2年ぶりに再開。でも劉秀には自分以外の妻と子供もいました。
郭聖通は10万の軍隊を持つ劉楊の姪。劉楊を仲間にするために劉秀は政略結婚したのでした。
現代人の感覚なら裏切り行為です。このとき陰麗華がどう思ったか記録にはありません。
劉秀は天下を取るためには仕方ない。と思ったのでしょうけど。陰麗華の心中は穏やかではなかったでしょう。
とりあえず実家は優遇される
その代わりと言っては変ですが。兄・陰識には陰郷侯の称号が与えられました。光武帝は陰麗華の家族には郭聖通の家族より高い地位を与えています。償いのつもりだったのでしょうか。
建武2年(26年)。郭聖通の伯父・劉楊が反乱を計画。光武帝は劉楊を討たせました。
劉楊は用済みというわけです。
皇后を辞退
建武2年(26年)。光武帝は皇后を決めるのを先延ばしにしていましたが。ようやく皇后を決めることになりました。
劉秀は陰麗華を皇后にしようとしたといいます。でも陰麗華は皇后を拒否。
陰麗華には子がなく、郭聖通が先に男子を産んでいるのが理由でした。そこで郭聖通が皇后、郭聖通の子・劉疆が皇太子になりました。
とこれだけ聞けば美談です。
そうしないといけない事情があるのです。
皇后辞退の裏事情
郭聖通の後ろ盾だった劉楊は謀反の罪で光武帝に討たれました。陰麗華が有利になるはずでした。
その理由は
- 郭家が謀反に加担した証拠がない。
- 郭聖通が劉秀の息子を産んでいるのは事実。
跡継ぎがいれば臣下も安心。 - 光武帝・劉秀と一緒に戦って彼を皇帝にしたのは劉楊と仲間たち。
劉楊がいなくなっても光武帝に素直に従わない諸侯は多い。
です。
家柄、跡継ぎ、朝廷内での貢献度からいえば郭聖通や劉楊たちの方が圧倒的に上。
陰麗華と陰家の者は光武帝の即位に何の貢献もしていません。
これではいくら光武帝が陰麗華を好きでもまわりの者が納得しません。ここで陰麗華が無理やり皇后になれば反乱が起こるかもしれません。
頭の良い陰麗華と陰一族はそのへんの事情がわかっていました。光武帝も陰麗華を皇后にするのは諦めるしかありません。
光武帝の陰麗華への寵愛が深まる
建武4年(28年)。陰麗華は劉陽(後の明帝・劉荘)を出産。
光武帝は陰麗華の出産を大変喜びました。その後も4人の息子を出産しました。
後漢が建国して間もないころは王室も貧しく。質素な生活をしていました。国内のあちらこちらに賊が出没、強奪や強盗が多発。王族ですら誘拐されて身代金を要求される事件も起きています。そのくらい朝廷の力は弱かったのです。
裕福な陰家の者も盗賊の犠牲になりました。陰麗華の母と兄弟は盗賊に襲われて死亡してしまいます。
光武帝は陰麗華を気の毒に思い、ますます陰麗華を寵愛するようになりました。
郭皇后が廃される
建武9年(33年)。郭皇后が即位して7年後。
光武帝は
と言いました。これは郭皇后にとってはプライドを傷つけられる発言です。
建武12年(36年)。光武帝は公孫述を滅ぼし全国統一を達成。
建武14年(38年)。このころ、郭皇后は光武帝の寵愛が薄れたと文句を言うようになっていました。
建武15年(39年)。光武帝は陰氏の家族と光武帝の母方の親族・樊氏の家族に爵位を与えましたが、郭皇后の親族には与えませんでした。
陰一族の地位が上がるにつれて郭皇后は不機嫌になり、郭一族も光武帝に不信感をもつようになります。
建武17年(41年)。世の中が安定してきたころ。
光武帝はついに郭皇后を廃しました。
光武帝は郭氏に「中山王太后」の称号を与え、郭家の者に爵位を与え褒美も与えて反発を抑えようとしました。
陰麗華が皇后になる
陰麗華は皇后になりました。
皇太子・劉疆は母が廃后になったのにその息子の自分が皇太子のままなのはおかしいと思っていましたが。光武帝は劉疆は可愛かったので皇太子のままにしました。
陰麗華の息子・劉陽は王族として政治に参加。着実に成果を出して評判をあげていきました。
一方で、陰麗華の生活は皇后になってからも質素でした。
実家の陰一族には政治に関わらせないようにしました。歴史上、外戚が力を持って横暴になることがあったので陰一族にはそうなってほしくないと思ったようです。
建武19年(43年)。劉疆は太子の地位にいることが辛くなりました。皇太子を退位したいと光武帝に進言。光武帝はそれを許しました。
陰麗華の息子・劉陽を皇太子にして劉荘と名を変えさせました。
建武中元2年(57年)。光武帝が死去。息子の劉荘が即位しました。
陰麗華は皇太后になりました。
永平7年(64年)2月26日。陰太后が死去。享年60歲
「光烈皇后」の諡号(おくりな)が贈られました。
テレビドラマ
秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:ルビー・リン(林心如)
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