イングルダイ(ヨンゴルテ)は実在?清の将軍の生涯と史実

イングルダイ(ヨンゴルテ) 1 清・金
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イングルダイは後金・清の将軍。

歴史ドラマを見ていると「ヨンゴルテ」という名前に聞き覚えがあるかもしれません。朝鮮王朝に大きな影響を与えた清の将軍は史実では「イングルダイ」と呼ばれていました。

この記事ではイングルダイがどのような人物だったのか?なぜヨンゴルテと呼ばれるのか?そして李氏朝鮮との複雑な関わりに焦点を当て、その生涯と功績を紹介します。

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イングルダイとヨンゴルテの違い

正確な名前はイングルダイ

「イングルダイ」という呼び名は彼の本来の満洲語名に近い発音です。当時の清では満洲語が公用語として使われていました。彼の漢字表記は中国側では「英俄爾岱」とされます。

韓国語読みがヨンゴルテ

一方で「ヨンゴルテ」という名前は現代の韓国語での発音に由来します。朝鮮側の史料には「龍骨大」という漢字表記で登場します。

現代の韓国語ではこの「龍骨大」が「ヨンゴルテ」と読まれます。そのため韓国のドラマや映画では「ヨンゴルテ」という名前で登場することが多いのです。

 

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イングルダイは武勇と知略を兼ね備えた将軍

基本情報

イングルダイは清の礎を築いた激動の時代を生きました。彼の生涯をたどってみましょう。後金の将軍イングルダイの生没年、出自、家族構成など基本的な情報を表にまとめました。

  • 本名(満洲語)
    イングルダイ(Inggūldai)
  • 漢字表記(中国側)
    英俄爾岱
  • 漢字表記(朝鮮側)
    龍骨大(ヨンゴルテと読む)
  • 姓 タタラ氏(Tatara他塔喇)
  • 生年 1596年
  • 没年 1648年(脳卒中による)
  • 享年 52歳
  • 父:ノイモド
  • 所属 満洲正白旗(八旗軍)
  • 当時の君主:ヌルハチ・ホンタイジ・順治帝

 

イングルダイの一族タタラ家

イングルダイの一族タタラ家は代々ザクム(現在の遼寧省撫順の東南)に住んでいました。

16世紀後半。女直(女真)は統一されていませんでした。その中の建州女直(満洲)のヌルハチが力を持ち建州を統一。このころイングルダイの祖父ダイトゥハリが約50戸の一族を引き連れてヌルハチの配下に入り、佐領の地位を得ます。

タタラ家は精鋭部隊正白旗の中心戦力

この縁でイングルダイの一族はヌルハチが創設した軍事・行政組織 八旗軍正白旗に組み込まれました。

正白旗は後にドルゴンが統率した部隊。八旗の中でも皇帝直属の「上三旗」に所属する精鋭部隊で約2万6千もの兵力をもちます。その中核となったのがイングルダイの家系でした。

正白旗

正白旗

 

ヌルハチに仕えた初期の功績

イングルダイは1596年に誕生。

彼の父 ノイモドはヌルハチの配下で多羅額駙(ドロエフ=王女の夫)の地位でした。

1616年。ヌルハチは女真族を統一し「アイシン国」(通称:後金)を建国しました。

このころヌルハチは旗(最初は四旗)を創設。八旗が整備されるとタタラ家は正白旗に編成されます。

イングルダイは父ノイモドのもとで働き、若いころから様々な戦に参加しました。彼は勇敢で数々の戦功を立てて昇進を重ねます。後にイングルダイも多羅額駙になります。

 

明からの独立戦争で功績を重ねる

1618年。力をつけたヌルハチはついに明に宣戦布告。この時代イングルダイは後金軍の中核として各地を転戦していました。特に1619年のサルフの戦いでは大きな手柄を立てその名を轟かせました。

1621年には明の重要な拠点だった遼陽と瀋陽を占領する戦いにも参加。この戦いでの功績が認められ参将へと昇格しました。

でもその後不運な事故に巻き込まれてしまいます。何らかの過失により一時的に官職を降格される憂き目にあいました。

天命10年(1625年)には再び功績により三等参将に復帰しました。

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ホンタイジの信頼厚いイングルダイ

1626年にヌルハチが亡くなるとその子・ホンタイジが金国の第2代国王となります。

朝鮮との関係悪化

ヌルハチの死後、李氏朝鮮はそれまで良好な関係を築いていた後金を軽視。再び明との関係を深め始めました。

このころの朝鮮の国王は仁祖。先代の光海君と違い、仁祖と彼を支える西人派は後金を野蛮人と見下し明との関係を親密にしていました。

丁卯の役で朝鮮との「兄弟関係」を築く

1627年。ホンタイジは明と朝鮮の関係を断つため、叔父のアミンを大将として朝鮮に侵攻しました。これが「丁卯の役」(朝鮮では「丁卯胡乱」)です。

朝鮮は清軍の圧倒的な武力に屈し後金を「兄」朝鮮を「弟」とする和睦を結ぶことになりました。この「兄弟関係」は大陸の価値観では絶対的な上下関係を意味し朝鮮は事実上後金の臣下となったのです。

イングルダイが朝鮮の外交を担当

同年5月。イングルダイは副将の劉興祚に随行して朝鮮に使者として赴き、戦争後の関係修復に尽力します。彼は劉興祚を補佐し、朝鮮王弟の李覚を本国へ護送。ホンタイジから朝鮮国王 仁祖に対し「盟誓」の履行を求める国書を届けました。

1628年にはイングルダイの功績が認められ、再び参将の地位に戻りました。ホンタイジからの信頼も厚く、この頃から朝鮮との外交を任されるようになります。イングルダイは時には穏やかに、時には毅然とした態度で朝鮮の朝廷を動かしていきました。

明の経済封鎖で苦しむ後金

1629年。ホンタイジは明の首都である北京への侵攻を試みます。イングルダイも800の騎兵を率いてこの戦いに参加し功績を挙げました。

この時期、後金は明による経済封鎖飢饉に苦しんでおり、しばしば明の領内へ侵入して略奪を行い食糧や物資を補給していました。

朝鮮と交渉して食糧不足を解決

天聡元年(1627年)12月。ホンタイジは食糧や物資の不足を解決するため、イングルダイを朝鮮に派遣して貿易交渉を行わせます。

朝鮮の仁祖は明の将軍 毛文龍が朝鮮の船を妨害していると言い訳をして食糧の提供を断ろうとしました。

でもイングルダイは冷静に対応します。当時すでに毛文龍は明に処刑されており、その部下たちが後金に亡命している事実を指摘。清が船を護衛するから問題ないと主張しました。このイングルダイの説得により、朝鮮の仁祖は食糧の提供に合意せざるを得ませんでした。

その結果、イングルダイは朝鮮側との国境で貿易を行う協定を結びました。

この協定では朝鮮側が米3000石を調達して2000石を贈呈。1000石を国境市場で販売すること、その他の物資については「民が辺境で交易することを許す」と定められました。

その後5年間はイングルダイが後金の「監市官」として瀋陽と朝鮮の間を奔走し、後金が緊急に必要とする物資の供給に貢献しました。

内政にも貢献「戸部承政」に就任

1631年には「戸部承政」という内政担当の大臣に任命されます。これは彼が戦いだけでなく内政でも高い能力を評価されていた証拠です。

 

モンゴル遠征での手腕

1634年。ホンタイジはモンゴルのチャハル部を討伐するため遠征に出ました。大元皇帝を名乗るリンダン・ハーンは後金との戦いに敗れチャハル部は崩壊します。

ホンタイジはモンゴルの捕虜から1000世帯以上が行き場を失って困っていると聞き、イングルダイにその捜索を命じました。イングルダイは懸命に捜索してホウヘンバトゥルに会い無事に1000世帯以上を降伏させることができました。

でもその後、タイジ・ブヤントゥの部隊と遭遇し戦闘になります。イングルダイは彼らを捕らえ200人以上を斬首40人を捕虜としました。この功績でホンタイジから褒美を受け取ったのですが、タイジ・ブヤントゥの部下たちは「イングルダイは降伏を認めずに殺害した」と主張しました。この主張にホンタイジは激怒、イングルダイへの褒美をすべて取り上げてしまいます。

この件はイングルダイが手柄を焦りすぎたのか、告発が本当だったのか現在でも議論の残る所です。

でもその後もイングルダイはホンタイジのもとで熱心に働き、その地道な仕事ぶりが認められ再び表彰を受けました。彼の真剣な働きぶりがわかるエピソードと言えますね。

丙子の役とイングルダイの重要な役割

ホンタイジの皇帝即位とそれに伴う朝鮮との決定的な衝突にもイングルダイは深く関わっていきます。

清の建国と朝鮮への臣下要求

1635年。ホンタイジは民族名をジュシェン(女直女真)からマンジュ(満洲)へと改めました。翌1636年には満洲族・漢族・モンゴル族の頂点に立つ「皇帝」となり国号を「ダイチン(大清)」と改めます。

皇帝となったホンタイジは朝鮮に臣下となるよう求める使節団を派遣しました。その筆頭を務めたのがイングルダイでした。

しかし朝鮮は清の臣下になることを頑なに拒否。イングルダイは朝鮮仁祖との謁見を拒まれ武装した兵士の監視下に置かれました。朝廷の重臣たちは怒り狂い清の使節団の殺害まで主張しだします。

身の危険を感じたイングルダイは部下を全員引き連れ、馬を奪って必死に逃げ帰りました。慌てた朝鮮仁祖は部下に国書を持たせてイングルダイを追いかけさせ、朝鮮からの返答を記した国書をようやく渡す始末でした。

仁祖はさらに国境を守る兵に警備を強化するよう指示しました。

清へ戻る途中、イングルダイは皮島を本拠地とする明の兵に行く手を阻まれました。でもこれを撃破して清に帰還します。

朝鮮のこの態度はホンタイジを激しく怒らせることになります。

南漢山城包囲

1636年12月から1637年にかけて清はついに朝鮮を本格的に攻撃します。これが「丙子の役」(朝鮮では「丙子胡乱」)です。清軍は朝鮮の仁祖が立てこもる南漢山城を包囲しました。

追い詰められた仁祖に対しホンタイジはイングルダイとマフタを派遣。降伏を要求します。

仁祖は当初ためらいましたが最終的に降伏を決断。ホンタイジの前にひざまずき三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)という最大の屈辱的な礼をとりました。

降伏交渉を主導

朝鮮との交渉でイングルダイは重要な役割を果たしました。彼は朝鮮から王子二人を人質として差し出させること、明との冊封体制を完全に断ち切ることなど長繊維認めさせ、清に有利な条件で交渉をまとめました。この成果はイングルダイの名声をさらに高めました。

イングルダイの晩年と後世への影響

丙子の役後もイングルダイは清と朝鮮の関係に大きな影響を与え続けます。

ホンタイジが亡くなった後。イングルダイは清の実権を握ったドルゴンに仕えました。

ドルゴン政権下での活躍と北京入城

1641年。イングルダイはドルゴンとともに明の錦州を攻め、1644年にはドルゴンとともに北京に入城します。

明を滅ぼし清が中原を支配する歴史的な瞬間に立ち会いました。

昭顕世子との交流

イングルダイは清に人質として送られてきた朝鮮の昭顕世子(ソヒョンセジャ)とも深く交流しました。イングルダイは清の文化や制度を学ぶことに熱心だった昭顕世子に様々な面で影響を与えたと言われています。

1645年に昭顕世子が亡くなった後。それを知ったイングルダイは昭顕世子の息子たちを自身の養子に迎えたいと考えていたと言われています。

しかしその願いが叶うことはありませんでした。

突然の死

イングルダイは1648年に脳卒中で突然この世を去りました。享年53。

ドルゴンは夜中にイングルダイの邸宅を訪れて慰問し、棺を前に声を上げて号泣したと伝えられています。

もしイングルダイが長生きしていたら清と朝鮮との関係がどのように変わっていたのか歴史の「もしも」を考えさせられますね。

朝鮮への良くも悪くも影響

またイングルダイの通訳を務めていた朝鮮出身のチョン・ミンスはイングルダイの権威を盾に朝鮮国内で私腹を肥やしていました。これに対して朝鮮国内では強い反発が起きていました。

イングルダイの権威が良くも悪くも朝鮮に影響を与えていた証拠と言えるでしょう。

順治帝時代に一族の衰退

ドルゴンの死後。若い順治帝はドルゴン派を粛清しました。この影響でイングルダイの子孫も降格に遭ってしまい彼の一族は衰退していきました。

 

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韓国ドラマで描かれるイングルダイ(ヨンゴルテ)

韓国の時代劇では「ヨンゴルテ」として多くの作品に登場しています。

ヨンゴルテの登場する作品と演じた俳優

ヨンゴルテ(イングルダイ)が登場する主なドラマは以下の通りです。

南漢山城 1986年 MBC 演 ナ・ヨウンジン
チュノ~推奴~ 2010年 KBS2 演 ユンドンファン
三銃士 2014年 tvN 演 キム・ソンミン
華政[ファジョン] 2015年 MBC 演 キム・テハン

ヨンゴルテは朝鮮からみれば敵なので怖い存在として描かれることも多いですが。華政に登場するヨンゴルテ将軍はヒロインの貞明公主とも協力して不正を暴く重要な役どころとなっています。

ドラマ「恋人」での魅力的キャラクター

『恋人~あの日聞いた花の咲く音~』(2023年 MBC):演 チェ・ヨンウ

韓国ドラマ「恋人~あの日聞いた花の咲く音~」では正式名のイングルダイの名で登場。チェ・ヨンウ氏によって演じられその知性と武術そして主人公ギルチェへの深い愛情を持つロマンチストな将軍として描かれました。ドラマでの彼の姿は史実の冷徹な交渉官としてのイメージとは異なる人間味あふれる魅力があります。

 

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まとめ

この記事では韓国ドラマ「恋人」「華政」でもおなじみの清の将軍イングルダイ(ヨンゴルテ)の生涯を紹介しました。

イングルダイという名前が彼の本来の満洲語名に近く、ヨンゴルテが現代韓国語読みであることをご理解いただけたでしょうか。

彼は単なる武将ではなく、清と朝鮮の間で重要な外交交渉を担った知略に優れた人物でした。

特に丙子の役では朝鮮に屈辱的な降伏を突きつける交渉役を務め、清に極めて有利な条件を引き出しました。

イングルダイの生涯を知ると歴史ドラマがさらに面白く感じられると思います。彼の武勇と知略そして人間味あふれる側面をぜひドラマや史実を通じて楽しんでみてくださいね。

 

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