范雎(はん しょ)は秦の宰相。
范睢 と書くこともあります。
魏の出身ですが、魏では役職につくことができず。スパイ容疑をかけられて逃亡。秦で採用されました。昭襄王に信頼され宰相にまで上りつめました。
趙との戦いでは白起と意見が対立、白起を死においやりました。
その後、范睢が採用した人物が敵に寝返ったり謀反の疑いをかけられられたりして失脚。その責任をとって引退しました。
史実の范雎はどんな人物だったのか紹介します。
范睢の史実
プロフィール
姓 :范(はん)氏
名称:雎(しょ)、または睢
字:叔
国:魏→秦
地位:相国(宰相)
生年月日:不明
没年月日:紀元前255年
秦の昭襄王の時代に活躍した人物。
日本では弥生時代になります。
名前は 范雎? それとも 范睢?
「史記」では「范睢」と書かれています。「睢」は「すい」と読みます。
ところが「韓非子・外儲説」や「武梁祠の絵画像」では范且と書かれています。「且」は「雎」と同じ字で「しょ」と読みます。そのため「范睢」ではなく 范雎(はん・しょ)が正しいのではないかとされています。
魏では冷遇される
范雎は魏国の出身。地位の低い家柄出身。弁術には優れていましたが。士官できませんでした。魏の朝廷で官職を得ようとしましたが、家が貧しく活動資金がなかったため官職につくことはできず。須賈の食客(個人的に雇われている人)として雇われることになりました。
ある時、須賈と共に斉国への使節として派遣されました。ところがスパイの容疑をかけられ、魏国の相国(宰相)・魏齊によって鞭打ちの刑にされたあと、便所に投げ込まれました。
鄭安平に助けられ「張祿」名前を変えて、秦国の使者・王稽とともに秦に向かいました。別の説では孟嘗君の推薦で秦に向かったとも言われています。
秦の宰相時代
秦で宰相になる
范雎は秦の昭襄王に会い、遠交近攻の戦略を提案。韓や魏を経由せずに齊国を攻撃する穰侯 魏冉を非難。范雎は秦に近い韓と魏を目標にして、遠くの齊などは良好な関係を維持すべきと主張しました。
その結果、范雎は昭襄王に気に入られ「客卿」として採用されました。また范雎は昭襄王に、王の権限が弱すぎるので強化する必要があると進言。昭襄王は紀元前266年に太后の権力を廃止。穰、宛、鄧、華などの四大列侯を函谷関の外に追放して政治的な力を削りました。
そして昭襄王は范雎を相国(宰相)に任命。應邑(現在の河南省寶豐南西)の土地を与えました。そのため「應侯」と呼ばれました。
范雎は執念深い性格でした。権力を握ると自分を不幸な目においやった須賈を批判。その後、魏齊を自殺に追い込みました。逆に自分を助けた鄭安平を秦の大将に推薦。王稽を河東郡守に任命しました。
趙国との戦「長平の戦い」
紀元前262年。秦の名将 武安君・白起が韓の野王郡を攻略。上黨郡は韓の領土から孤立してしまいます。韓の桓恵王は范雎の要求に応じて上黨を秦国に割譲。でも上黨郡守の靳黈は降伏を拒否。韓の桓恵王は靳黈を解任。馮亭を上黨郡守に任命しました。ところが馮亭も秦に抵抗して、趙の孝成王に寝返りました。
上黨を失った秦の昭襄王は激怒。白起に趙国を討つよう命じました。両軍は対峙し、3年後、范雎は前260年に反間計を使って趙国の実戦能力のない趙括を将として起用させ、白起は趙軍を撃破しました。この戦いは「長平の戦い」と呼ばれます。
長平の戦いの後、白起は趙国に止めを刺したいと望みましたが、范雎は秦の兵たちは疲れているので休ませるべきだと考え、昭襄王に提案。昭襄王は趙との停戦を決定しました。
白起を自害に追い込む
白起は、今が趙国を滅ぼす絶好の機会と考えていましたが、そのチャンスが失われたと落胆。以後は指揮官の任命を拒否して病気を理由に出仕しなくなりました。昭襄王が命令しても拒否。怒った昭襄王は白起を追放しました。
このとき范雎は「白起を追放しても、恨みをもっていますから他国に利用されるかもしれません」と主張。そこで昭襄王は使者を派遣して白起に自害を命じました。
任命責任を追求されて引退
その後、白起の予想通り、秦軍は趙国を打ち破ることができませんでした。秦軍は趙の首都・邯鄲を包囲して、趙を一気に滅ぼそうとしましたが。信陵君が援軍としてやってきて秦軍は敗北。鄭安平も敗れて趙に寝返りました。
紀元前255年。王稽が反逆の罪で処刑されました。鄭安平や王稽を採用した范雎は秦昭襄王の信頼を失いました。范雎は蔡澤を後任に推薦して引退しました。その後、間もなく病死しました。
別の説では任命責任を問われて死刑になったとも言われます。
テレビドラマ
コウラン伝 2019年、中国 演:譚建昌
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