北斉末期の寵妃・馮小憐は 皇帝 高緯の寵愛を受けた女性です。
北斉滅亡の物語とともに語られてきました。国を傾けた美女と言われることもありますが、国が滅んだのは馮小憐の性というより、高緯や北斉という国に問題があったから。
ではなぜ馮小憐が悪女として語り継がれるのか、史書に残る逸話や後世の創作をまとめて解説します。
この記事で分かること
- 北斉の寵妃・馮小憐の生涯と人物像
- 皇帝・高緯との関係と宮廷での立場
- 北斉滅亡の記録に彼女が頻繁に登場する理由
- 後世に広まった「玉体横陳」など逸話の背景
馮小憐(ふう しょうれん)
馮小憐の名前と呼ばれ方
本名は馮小憐(ふう しょれん)。北斉の第5代皇帝・高緯(後主)から深く愛され、淑妃(しゅくひ)の位を授けられました。後に格上げされ「左皇后」の称号を与えられています。
馮小憐(ふう・しょうれん)プロフィール
| 姓 | 馮(ふう) |
|---|---|
| 名 | 小憐(しょうれん) |
| 生没年 | 生年不詳 ~ 581年 |
| 時代 | 中国・南北朝時代(北斉) |
| 身分 | 北斉後主の寵姫 |
| 主君 | 高緯(北斉後主) |
馮小憐が生きたのは6世紀後半、中国の南北朝時代末期。北斉は皇族間の内紛で弱体化しており、隣国・北周の武帝による猛攻を受けていました。馮小憐が登場するのは、北斉が滅びる直前の数年間です。
年表
- 570年代前半:宮中入り、穆皇后の侍女として入宮。後に高緯に見初められ、寵愛を独占する。
- 576年:平陽の戦い、北周が平陽を攻略。高緯は狩猟中に報告を受けるが、馮小憐の「もう一度狩りを」という願いを聞き、援軍を遅らせる。
- 576年末:高緯は陥落寸前の晋州を奪還しようとするが、馮小憐の観戦準備のために攻撃を延期。その間に北周の援軍が到着し、北斉軍は惨敗。
- 577年:北斉が滅亡。高緯と共に逃亡するが青州にて北周軍に捕らえられ、長安へ送られる。
- 北斉滅亡後:高緯の処刑後に北周の斉王・宇文憲、次いで代王・宇文達に下賜される。
- 581年頃、宇文達の正妻(李氏)を陥れた罪で自害を命じられたとされる。
馮小憐の家族
彼女の出自や家族についてはほとんど分かっていません。
| 父 | 不明 |
|---|---|
| 母 | 不明 |
| 配偶者 | 高緯(北斉後主) |
| 子供 | 不明 |
馮小憐の生涯
宮中に入るまで
馮小憐がどこで生まれ両親はどんな人なのかは分かっていません。どのような経緯で宮中に入ったのかも不明です。
馮小憐が記録に登場するのは北斉が滅亡する数年前。馮小憐は最初、 高緯の正室 穆皇后(穆邪利)の侍女だったと伝えられています。
当時の高緯は別の寵妃の曹昭儀に溺れており、穆皇后は自分の立場が揺らぐことを恐れていました。
そこで穆皇后は自分の息のかかった馮小憐を皇帝に献上してライバルの寵妃から高緯の関心を逸らそうとしたのです。
芸事が得意だった
馮小憐は美貌の持ち主でしたが、『北斉書』などの史料には彼女が琵琶を巧みに演奏し、歌舞も得意だったと書かれています。高緯の感性を刺激する高い芸術的センスを持っていたことがうかがえます。
高緯の寵妃になる
穆皇后によって送り込まれた馮小憐は、その美貌と得意の琵琶や歌舞の腕前を使ってあっという間に高緯の心を捉えました。
すると高緯は曹昭儀を遠ざけるようになり、最終的には死に追いやるほどでした。
馮小憐は「淑妃」という高い地位の側室になります。
(出典:『北斉書』巻八 后妃伝)
皇后の誤算
ところが曹昭儀への寵愛が薄れても穆皇后に寵愛は戻りませんでした。馮小憐のあまりの影響力の大きさに穆皇后も高緯から相手にされなくなったのです。
同席・同行の描写が持つ意味
高緯の馮小憐への執着ぶりは凄まじく。常に一緒にいるほどでした。歴史書ににも以下のように書かれています。
「坐れば則ち席を同じくし、出ずれば則ち馬を連ねる」
(座る時は常に同じ席に座り、外出する時は馬を並べて走った)
出典:『北斉書』
妃嬪を皇帝に同行させるのは禁止ではありませんが。儒教的価値観の強い中国王朝では好まれません。
特に皇帝が公務を行う場や戦場へ向かう道中に妃を同行させるのは、私情が政治に入り込むので嫌がる臣下はいますし。政治や軍の規律を乱したと判断されれば批判の材料になりやすいです。
馮小憐が皇帝の判断を狂わせた逸話
高緯の治世では北斉は北周の猛攻を受けて国家存亡の危機に立たされまました。このとき歴史書では馮小憐は何度も皇帝の判断をことごとく狂わせる原因として描かれます。
狩猟中に平陽が陥落した話
武平7年(576年)10月。北周の武帝が晋州を攻略したとき、高緯は馮小憐と共に天水郡で狩猟を行っていました。
高緯のもとに晋州から緊急報告が3度届きましたが。右丞相の高阿那肱が「陛下はお楽しみ中である」と高緯に伝えませんでした。
平陽陥落後にようやく高緯に連絡が届きました。それを聞いて高緯が出陣しようとしましたが、馮小憐が「もっと狩りを続けたい」とねだったため、狩りを続けました。
(出典:『資治通鑑』第172巻より)
馮小怜の化粧を待って平陽奪還失敗?
奪われた晋州の平陽を奪還するため北斉軍は城壁の下を掘り進め、陥落直前の状態まで追い込みました。
そこに高緯が到着。高緯は「馮小怜と一緒に見物するから待て」と攻撃を止めさせました。しかし馮小怜が化粧に手間取り、すぐに現れなかったためその隙に北周軍が木材で城壁を修復してしまい、城を落とすことはできませんでした。
(出典:『北史 巻十四 列傳第二 后妃下』)
晋州の橋
当時「晋州の城の西にある石には聖人の足跡がある」という伝説がありました。馮小怜がそれを見たいと言い出したため、高緯は城内の敵軍からの狙撃を恐れ、攻城用の木材を使って橋を架けさせました。橋の建設が遅れた担当官は処罰されました。
ようやく高緯と馮小怜が橋を渡ろうとしましたが、途中で橋が崩落。二人が戻ってきたのは夜更け過ぎのことでした。
鄴への逃走
12月。高緯は馮小怜を左皇后にしようと考え。皇后の礼服を取りにやらせました。
その後、高緯と馮小怜が戦況を視察していたとき、東側の味方軍がわずかに後退したのを見て馮小怜は怖がって「斉軍が負けた!」と叫びました。側近の穆提婆も「陛下、早くお逃げください」と促したため、高緯は彼女を連れて逃げ出そうとしました。
将軍たちが「これは戦の常であり、軍はまだ健在です」と必死に引き止めましたが、穆提婆が「彼らの言うことを信じてはいけません」と高緯の腕を引っ張ったため高緯は馮小怜と共に北へ逃走しました。
逃走の途中、洪洞に到着した時も馮小怜は鏡を見て化粧をしていました。追手が来たと聞くと再び逃げ出しましたが、高緯は皇后の礼服が届くまで馬を止め、彼女に着替えさせてからさらに逃げ続けました。
翌年1月。高緯が鄴へ逃げ込んだ後、胡太后も到着しましたが、高緯は出迎えに行きませんでした。しかし馮小怜が到着しそうになると、わざわざ城壁を壊して門を広げ、10里(約4km)も先まで迎えに行きました。
敗走と捕縛、北斉滅亡
その後、北周の軍が都の鄴に迫ると、高緯は息子の高恒へ譲位すると南の陳へ逃れようとします。
金塊を詰めた袋を馬に積んで馮小怜ら十数人と共に逃亡。青州の南境にまで来たところで北周軍に追いつかれ、高緯・馮小憐・穆皇后らは捕虜になりました。
高恒も捕らえられ、北斉は滅亡しました。
(出典:『北史 巻十四 列傳第二 后妃下』)
馮小怜の最後
北斉の滅亡後
北斉が滅亡し、高緯が捕らえられて長安へ送られたあと、彼は北周の武帝に「淑妃(馮小怜)を返してほしい」と願い出ました。武帝は「私にとって天下を得ることなど古い靴を脱ぎ捨てるようなものだ。たかが一人の女を惜しむことはない」と言い、馮小怜を高緯のもとへ戻しました。
北周での生活
しかし高緯が処刑されると、馮小怜は代王・宇文達に与えられます。宇文達もまた彼女を寵愛しました。
ある日、馮淑妃が琵琶を弾いていると弦が切れたので、彼女は次のような詩を詠みました。
雖蒙今日寵
猶憶昔時憐
欲知心斷絕
應看膠上弦(意味:今日の寵愛を受けてはいても、かつての慈しみが思い出されます。私の心が引き裂かれたことを知りたいのであれば、膠で繋ぎ合わせたこの琵琶の弦を見てください)
(出典:『北史 巻十四 列傳第二 后妃下』)
やがて馮小怜は宇文達の正妃を中傷して死に追い込む寸前まで追い詰めます。
隋の時代に自害に追い込まれる
その後、時代は隋へと変わり、文帝 楊堅の治世になりました。馮小怜は宇文達の正妃の兄・李詢に与えられました。
李詢は妹を苦しめた彼女に粗末な布のスカートを履かせ、粉挽きの労役を命じます。やがて李詢の母親が彼女を追い詰め、馮小怜は自害に追い込まれました。
(出典:『北史 巻十四 列傳第二 后妃下』)
なぜ馮小憐が亡国の寵妃の象徴になったのか
北斉滅亡の記録をみると、高緯が重大な決断をする場面によく馮小憐が出てきます。
これらは偶然というより意図的に配置されていると考えられます。ここで注意したいのは、馮小憐が裏で糸を引いて政治を動かしていたわけではないことです。
実際に軍を指揮して最終的な判断をしていたのは皇帝 高緯です。
では、なぜ史書はこれほど何度も彼女を登場させるのでしょうか?それは高緯が国の危機にあっても、皇帝としての責任と私的な欲を切り離せなかったことを見せるためです。
亡国の三要素:皇帝・側近・寵妃
中国の正史には滅亡する王朝を描くときにはお決まりのパターンがあります。
- 無能な皇帝(高緯)
- 甘言を弄する側近(高阿那肱・穆提婆)
- 寵愛を受ける妃(馮小憐)
この3つが揃っていることが多いです。
北斉の場合は馮小憐が「寵愛を受ける妃」の担当です。中国の正史は歴史の記録というより、政治家の読み物、教本としての意味合いがあるので。このようなストーリーになっているといえます。
つまり、馮小憐がいたから国が滅びたのではなく、寵妃を戦場にまで連れ回すような皇帝だったから国が滅びたと言えるのです。
為政者はそうならないように。という教訓話の素材として馮小憐が登場させられているといえます。
後世に作られた逸話「玉体横陳」
馮小憐といえば有名なのが玉体横陳(ぎょくたいおうちん)の逸話です。
これは歴史書に書かれた記録ではなく。唐末期の詩人、李商隠(812-858年)が作った漢詩です。
玉体横陳の内容
一笑相傾國便亡,何勞荊棘始堪傷
小憐玉體橫陳夜,已報周師入晉陽(訳:たった一度の微笑みで国は滅びました。
わざわざ荒れ果てた宮殿の跡を見て嘆く必要などあるでしょうか。
小怜の美しい体が横たわっていたその夜
すでに周の軍勢が晋陽に攻め入ったという報せが届いていたのです。出典:『北斉二首』作:李商隱
この漢詩は李商隠が想像で書いたものですが。
後の時代にはここから更に想像を膨らませて面白おかしい逸話が作られました。
ネット上でよく見かける「独占するのはもったいないので、馮小怜を裸にして家臣たちに見せた」という話も史実ではなく。後世の作り話です。
こうして馮小憐は皇帝を惑わした悪女として脚色されていったのです。
ドラマ『蘭陵王』の鄭児/馮小憐
ドラマ『蘭陵王』(2013年中国/台湾にも ニキータ・マオ 演じる 馮小憐が登場。高長恭に執着し、雪舞のライバルになるキャラクターとして描かれています。
鄭児は史実の誰を混ぜた設定
侍女だった鄭児
ドラマに登場する悪女・鄭児は史実の「鄭妃(高緯の正室)」と「馮小憐」を組み合わせさらに創作を加えたオリジナルキャラクターです。
元々は胡皇后の侍女でした。そのころから蘭陵王にあこがれています。
胡皇后と祖珽によって英国公の遺児という偽の身分を与えられて、蘭陵王の正室選びに出ますが。罪がバレて官婢にされます。
その後、蘭陵王に救われたものの本性が明らかになって蘭陵王に見捨てられます。しかし高緯に救われました。
馮小憐の地位を得る
罪人として隠れて暮らすが嫌になった鄭児は、友人の馮小憐を殺害して彼女の身分を手に入れ。高緯の妃となりました。高緯や蘭陵王、雪舞に陰湿な計略を巡らせ、彼らを追い詰めていきます。
終盤では高緯に毒を盛って言いなりにしたり。高緯に毒を盛られた蘭陵王を助けたりました。
最後は高緯によって命を断たれます。
よくある疑問(FAQ)
Q. 馮小憐は実在するのか?
A. 実在します。北斉の「左皇后」として正史にも搭乗します。
Q. 馮小憐は皇后なのか、淑妃なのか?
A. 最初は「淑妃」でしたが北斉滅亡直前に「左皇后」になりました。どちらも間違いではありません。
Q. 玉体横陳は史実なのか?
A. 皇帝が彼女を臣下に見せたという逸話は史書にありません。作り話です。
Q. 北斉滅亡は馮小憐が原因なのか?
A. 彼女自身の意思というより、彼女を優先して軍事を後回しにした皇帝・高緯の責任が大きいとされています。
Q. 没年はいつか?
A. 581年頃、北周が隋に代わった直後とされています。
参考文献と出典
- 『北史 巻十四 列傳第二 后妃下』
- 『資治通鑑』巻百七十二 陳紀六
- 李商隠『北斉二首』
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