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伏寿の生涯・献帝とともに生きた三国志の悲劇の皇后とは?

5 漢

伏皇后(伏寿)は後漢末期の混乱した時代に生きた女性です。

その衝撃的な生涯は三国志の中でも印象深く悲劇の皇后として知られています。

幼くして後宮に入り献帝の皇后として激動の時代を献帝と共に過ごしました。でも曹操の横暴に悩みやがて廃されてしまいます。

この記事では伏皇后の生い立ちから最期までの生涯を紹介。彼女が味わった苦難の生涯をみてみましょう。

この記事のポイント

  • 伏皇后の誕生から献帝の妃になるまで
  • 董卓の横暴
  • 献帝の皇后になってからの放浪
  • 曹操との対立
  • 伏皇后の最期

 

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伏寿 皇后の史実

出典:Wikipedia:伏寿

プロフィール

姓 :伏(ふく)
名称:壽(じゅ)

国:漢(後漢)
地位:貴人→皇后

生年月日:不明
没年月日:215年1月8日

日本では弥生時代になります。

家族

父:伏完
母:盈
兄:伏典、伏徳、伏雅
弟:伏均、伏尊、伏朗
姉妹:4人
夫:献帝
子:男子2人

 

伏家の血筋と家族背景

伏寿は現在の徐州琅邪郡東武県(山東省濰坊市)で生まれました。生まれた年は不明。

彼女の父は名門出身の伏完。前漢の大司徒 伏湛の孫。「不其侯」の爵位を継ぎ、漢の桓帝の娘・陽安公主劉華を妻に迎え侍中となりました。

生母は伏完の側室

父の正室・陽安公主が嫡母となりました。

6人の兄弟と4人の姉妹がいました。

 

宮廷入りと董卓の影響

初平元年(西暦190年)。当時、朝廷で力を握っていたのは董卓でした。董卓は自分の領地に近い長安に遷都。献帝が長安にやってきます。

このころ伏寿は宮廷に入り貴人(側室)になりました。

伏寿がどのようないきさつで献帝の後宮に入ったのかは不明です。父の嫡妻は桓帝の娘・陽安公主。皇室ともゆかりの深い家。その縁もあって宮廷入りしたのでしょう。

とはいっても献帝はまだ10歳(数え歳)。伏寿もあまり変わらない年頃のはず。貴人といっても形だけのもので、将来の后候補として宮廷で養育されることになったのでしょう。

その頃の漢朝廷

このころ董卓(とうたく)という強大な権力者の力が増し、後漢の朝廷を牛耳っていました。

 

董卓董卓(とう・たく)
もとは地方の豪族。辺境の異民族を討伐して勢力を伸ばしました。力でのし上がった荒くれ者です。董太后(霊帝の母、献帝の祖母)とは同族。そのため朝廷は最初は董卓に期待していたのですが。やってきたのはとんでもなく横暴な人物でした。

幼い皇帝はお飾りです。伏寿はそんな大変な時期に宮廷入りすることになったのです。幼い伏寿にとって朝廷で我が物顔にふるまう董卓はとても怖かったのではないでしょうか。

ところが横暴な董卓は官僚たちの反感をかい。王莽(おうもう)たち官僚が呂布(りょふ)をそそのかして董卓を殺害しました。

献帝と伏寿はほっとしたかもしれません。

でもだからといって平和になったわけではありません。王莽たちに朝廷を安定させる力はなく、長安は董卓派の李傕(りかく)や郭汜(かくし)に占領されました。

董卓が李傕・郭汜に変わっただけなのです。

李傕(り・かく)郭汜(かく・し)
二人とも董卓配下の武将。董卓が死んだときには東方に遠征していたのでいませんでした。董卓の仇を討って長安を占領したものの。横暴さは董卓とかわりません。統治力がないぶん董卓よりもたちが悪い。

 

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献帝の皇后になる

後漢の混迷と伏皇后の立場

興平2年(西暦195年)。李傕と郭汜は長安を半分ずつ支配していましたが仲間割れ。李傕は皇宮を兵で包囲して献帝を拉致。

献帝は車に載せられ、伏寿も別の車に乗せられて自分の陣営に移動させられます。

酷かった当時の長安
李傕と郭汜は統治能力ゼロ。長安には盗賊がはびこり。兵士たちも略奪。庶民は食料が手に入らず餓死。街には遺体が転がり、人肉を食べる人も出る地獄のような状態でした。

 

4月。伏寿は皇后になりました。父の伏完は執金吾に任命されます。

執金吾(しつきんご)
都の治安を守る警備の責任者。

李傕と郭汜はしばらく争い、皇帝の奪い合いをしていました。

放浪

張済が李傕と郭汜を仲裁。献帝は洛陽に戻ることになりました。

ところが李傕が裏切り軍を派遣。献帝を守る将兵が抵抗したので李傕は一度撤退しましたが。郭汜も加わりまた攻めてきました。

献帝と伏皇后は曹陽で李傕と郭汜たち追いつかれ、献帝たちを守る部隊は大敗。

その後、夜に黄河を渡って河東郡に向かうことを決定、献帝と伏皇后・妃嬪。臣下たちは徒歩で河岸に向かいました。この時、伏皇后の兄で中宮僕の伏徳は片手で伏皇后を引き、片手で細絹十匹を持っていました。

「後漢書」によると。
伏皇后は手に数匹の縑(かとり:高価な織物)を持っていました。護衛していた董承(とうしょう)の部下・孫徽(あるいは孫微)が董承の命令で縑を奪いに来ました。

護衛が抵抗すると何と孫徽は刀を抜いて戦いになり。そばにいた侍者が殺されてしまいます。その血が伏皇后の衣服に飛び散ってしまいました。

伏皇后にとっては、突然のことで恐ろしかったでしょう。

しかし献帝や伏皇后を守るのは董承たちしかいません。彼らに従うしかないのです。

董承(とう・しょう)
もとは董卓配下の武将。楊奉たちとともに避難する献帝を守り、李傕・郭汜たちと戦いました。彼らも私利私欲で動いているので横暴なこともします。
「三国志演義」では皇帝側の忠臣として描かれているので横暴な部分はカットされています。

献帝一行は船に乗って黄河を渡りました。献帝とともに舟で渡ったのは伏皇后、宋貴人、郭趙の二人の宮人。楊彪、董承、伏完など数十人だけでした。

多くの犠牲を出しながらも、ようやく安邑に到着。

献帝の着ていた衣服はすべて破れ、伏皇后の服も擦り切れていました。安邑も安泰ではありません。蝗害や干ばつで穀物がなく、粟(あわ)や棗(なつめ)を食べて餓えをしのぐしかありませんでした。

建安元年(196年)。董承たちに護送されて洛陽の皇宮に到着。

でも洛陽も戦乱で荒れ果て廃墟になっていました。ここでも食糧不足に苦しみます。

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曹操との対立

董承とともに暗殺計画を立てますが

このころ曹操は献帝に近づこうとしていました。董承は最初は曹操を警戒していました。でも朝廷内の敵対勢力を片付けるため董承は曹操を頼ってしまいます。

曹操曹操(そう・そう)
祖父は順帝時代に力を持っていた宦官・曹騰。父は曹騰の養子で太尉(防衛大臣)曹嵩の息子。裕福な豪族の家に生まれ順調に出世。黄巾の乱の鎮圧で手柄を立て。反董卓連合にも加わり大きな勢力へと成長していました。

曹操は朝廷の保護者になりました。でもそうなると曹操に逆らえる者はいません。

曹操は献帝を許(現在の河南省許昌市)に移しました。

曹操は皇帝の権威を利用して諸侯に命令を出すようになり。献帝に仕える者も次々に排除。曹操に従う者ばかりになってしまいました。

献帝に近づこうとするものは曹操によって排除され。曹操と伏皇后は孤立してしまいます。

献帝にアドバイスする者もいましたが、曹操に見つかって殺害されてしまいます。

曹操暗殺計画失敗

献帝は曹操を排除しようと決意。

200年。董承、王子服、种輯、劉備に曹操を討つように密命を出しました。

ところが曹操に計画がバレてしまいます。

董承、王子服、种輯とその一族は処刑されました。
劉備はいち早く逃げて無事でした。

このとき董承の娘・貴人董氏が献帝の側室になり身ごもっていました。曹操は貴人董氏の処刑も決定。

献帝は身ごもっていることを理由に処刑しないように懇願しましたが、曹操は決定を変えません。

結局、貴人董氏は処刑されてしまいました。

 

伏皇后が曹操の殺害を願う

伏皇后は、皇帝の子を身ごもっている側室すら殺してしまう曹操がとても恐ろしくなりました。

伏皇后はもう曹操を生かしてはおけないと父・伏完に手紙を送り、曹操の残酷な様子を伝えて曹操の排除を依頼しました。

伏皇后 曹操の暗殺を願う

伏皇后 曹操の暗殺を願う

でも伏完に曹操を排除する力はありません。

結局、伏完は曹操を殺害できないまま建安14年(209年)に死去。

兄の伏典(ふく・てん)があとを継ぎましたが「早々暗殺司令」は秘密にされました。

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伏皇后の最期

伏皇后廃位

 

214年(建安19年)11月。伏皇后と伏完の密信が漏洩しました。

『献帝春秋』によると、伏皇后から伏完に送られた手紙は妻の弟・樊普にも見せられ。樊普が曹操に報告したといいます。

曹操は激怒。献帝に伏皇后を廃位するよう要求。
そして勅書を偽装して次のような理由で伏皇后の廃位と処刑を宣言しました。

曹操は部下の郗慮(ち・りょ)に皇后の印綬(金印)を奪うように命じ、華歆(か・きん)には伏皇后を捕らえるよう命令しました。

伏寿は戸を閉めて部屋に隠れていましたたが、華歆に見つかって引きずり出されてしまいます。

当時、献帝は外殿で郗慮と会っていました。伏皇后は髪を乱し裸足で泣きながら献帝の前を歩いて通り、献帝の手を取って「陛下、また一緒にすごすことができるでしょうか」と涙ながらに訴えました。

献帝も泣きながら「私の命がいつまで持つのか、私にもわからない」と答え、郗慮に向かって「郗公!この世にこんなことがあるのか?」と訴えましたがどうにもなりません。

周囲の者たちは皆涙を流したといいます。

そして伏皇后は連行され掖庭の暴室(女官を幽閉する部屋)に監禁。

215年1月8日。伏皇后は殺害されました。

子どもたちと一族の最期

彼女が生んだ二人の皇子も毒酒で殺されました。

伏皇后の兄弟や一族100人以上が処刑され、伏寿の母・盈ら19人は涿郡に流されました。伏皇后の死の知らせが蜀に届くと、益州牧の劉備が彼女のために喪に服したといいます。

 

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まとめ:伏皇后の人生の意味

彼女の人生は三国志の中で董卓、李傕、郭汜、そして曹操といった権力者たちに翻弄されながらも、強い意志を持って生き抜いた女性の象徴といえるかもしれません。
皇后としての24年間、様々な困難に遭い最後は曹操との対立により悲劇的な結末を迎えたのでした。

彼女の死後、伏皇后のの悲劇的な運命は三国志の物語などで脚色されドラマチックに描かれています。悲劇的な女性の代表として語り継がれています。

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「三国志 秘密の皇帝」では「皇帝は双子だった」という大胆な脚色がおこなわれ。伏皇后も積極的に策略に関わり、漢王朝を再興させようとする姿が描かれています。

 

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