燕王 燕噲(えん・かい)は、古代中国、春秋戦国時代の燕の君主。
歴史上は 燕王噲(えんおうかい)と呼ばれます。
宰相の子之を信用して国の政治を任せ。
子之に王の座を譲りました。
しかし不満に思った太子平が反乱。国内が混乱している所を斉に攻め込まれて燕王噲は殺害されてしまいます。
史実の燕王噲はどんな人物だったのか紹介します。
燕王噲の史実
燕王噲のプロフィール
姓:姫(き)
氏:燕(えん)
名称:噲(かい)
国:燕
地位:国王
称号:
生年月日:不明
没年月日:紀元前314年
日本では弥生時代になります。
家族
母:不明
子供:平
燕王になる
生年は不明。
父は燕の 易王
紀元前321年に燕易王が亡くなり、噲があとを継ぎました。
紀元前318年。燕王噲は楚、韓、魏と連合して秦を攻めました。しかし秦に勝つことができず退却しました。
子之に禅譲
燕では子之(し・し)が宰相を努めていました。
あるとき縦横家の蘇代(そ・だい)が斉の使者としてやってきて燕王噲に謁見しました。燕王噲は蘇代に「斉王はどうか?」と尋ねると蘇代は「きっと覇者にはなれませんね」と答えました。燕王噲はなぜそう思うか聞くと蘇代は「斉王は側近を信頼していないからです」と答えました。
それ以来、燕王噲は子之をとくに信用するようになりました。子之は蘇代に感謝して金を送ります。
実は子之は蘇代と親しくしていて蘇代の目的は子之を信用させることでした。
さらに鹿毛寿がやってきて
「国を子之に譲ったほうがいいです。というのも、人々は堯(ぎょう)を聖人と称えていますが。それは堯が王位を許由(きょ・ゆう)に譲ろうとしたからです。実際には許由は王位を引き受けませんでしたが。そのおかげで唐堯は天下の人々から称賛されました。今、大王が国を子之に讓るなら、子之は必ず受け入れないでしょう。そうすることで大王も唐堯と同じ徳のある人物になれるのです」
紀元前316年。燕王噲は子之に王の座を譲ることを決定。子之は譲位を受け入れ燕の王になりました。
燕では子之を王にしようとする派閥ができていたようです。
燕王噲本人も理想主義的なところがあって、伝説の王のような徳ある人になりたいと思っていました。そこで有能な人物に王を継がせて自分が徳のある人だと称賛されたいと思っていたようです。
でもすでに燕王噲の息子・平が太子(跡継ぎ)になっています。平は自分が次の王になると思っていたのに、他人の子之が王になってしまったので怒りました。
でも燕王噲は子之を次の王に任命したものの、完全には権力を渡したわけではなく。しばらくは権力をもっていたようです。太子平もすぐには行動を起せませんでした。
太子平の反乱
紀元前314年。子之の治世になって3年目。太子平はもちろん燕の貴族たちは不満を持ち、燕の国内では権力争いが激しくなりました。人々は不安な毎日を送っていました。そして燕の市被将軍は太子平とともに挙兵の準備をはじめました。
そのころ斉では燕の混乱ぶりをみて将軍たちが斉宣王に「燕を攻撃するなら今です」と進言。
斉宣王は太子平に使者を送り太子平を王にするため協力すると呼びかけました。
太子平と市被将軍は挙兵。宮殿を取り囲み攻撃しましたが攻め落とすことができません。戦いは数ヶ月続きました。
すると市被将軍が太子平を裏切って太子平を攻撃。太子平は市被将軍を破りましたが、この戦いで数万の被害が出ました。
燕王噲の最期
燕王噲、子之と太子平の争いは続き、燕の人々は疲れ果てました。
すると斉の宣王は軍を派遣。燕の人々は斉が助けに来たと思い城門を開けました。ところが斉軍は燕王噲と子之、太子平を捉えて殺害。燕の都を略奪したのです。
その後。斉宣王は他国で人質になっていた公子職を連れ戻して燕王にして、燕を斉の属国にしました。
まとめ:燕王噲と子之の悲劇
燕王噲は蘇代や鹿毛寿の言葉に惑わされ、子之に王位を譲ろうとした燕王噲でした。もちろん太子平の反乱を招き、結果として燕は斉の属国にされてしまいます。
燕王噲の禅譲は自分なりに理想的な君主のあり方を求めた結果なのでしょう。でも燕王噲は一部の偏った意見を信じてしまいました。跡継ぎ問題は国の問題です。他の臣下たちの意見も聞くべでした。
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