光武帝(劉 秀)は後漢の初代皇帝。
劉秀は前漢時代に南陽地方の新家に移住した漢皇族の子孫です。王莽が新を建国後。世の中が乱れると反乱を起こして後漢を建国しました。
光武帝といえば陰麗華との話が有名ですね。でも他にも妻や側室がいます。
光武帝の正室と側室をリストにしてみました。
ちなみに
光武帝の生没年は
生年:紀元前5年1月15日(建平元年12月6日)
没年:57年3月29日( 建武中元2年2月5日)
皇帝在位 25~57年。
享年62。
妃たちとの年齢差もみてみると面白いかもしれませんよ。
後漢 光武帝の正室
皇后 郭氏
本名:郭聖通(かく・せいつう)
称号:沛太后
地位:貴人 → 皇后 → 中山王太后 → 沛太后
生年 6年
没年 52年7月22日
享年 46
皇后在位 26~41年。
真定の名家郭氏の生まれ。若いころに父を亡くし母・劉氏に育てられました。母の兄は劉楊(劉揚)。河北で大きな勢力(兵の数は10万とも30万ともいいます)をもつ大豪族でした。
母方の劉氏は劉秀と同じ漢王室の末裔。
河北平定を目指した劉秀(後の光武帝)は劉楊と同盟。その条件に郭聖通と劉秀は結婚しました。劉秀が光武帝になると郭聖通は皇后になりました。息子の劉彊は皇太子になりました。
光武帝が即位した年に叔父の劉楊が謀反の疑いで殺害されました。でも河北の武将の支持がある郭聖通の地位は変わりません。
陰麗華が洛陽に着た後も郭聖通は3人の子供を出産。政略結婚でしたが意外と劉秀との仲は悪くなかったようです。
光武帝が中華統一したころから寵愛が薄れ。西暦41年。皇后の位を廃されて陰麗華に取って代わられました。
郭聖通は愚痴が多かったようですが。具体的に郭聖通が悪事を働いた記録はありません。陰麗華を皇后にしたかった光武帝が口実を作って廃位させたようです。
劉彊も皇太子の座を返上します。
その後は息子の中山王のもとで暮らし 中山王太后や 沛太后の称号で呼ばれました。
郭聖通が皇后を廃された後も郭一族への優遇は変わらず、むしろ郭一族を出世させたりしています。光武帝にも後ろめたい部分があったからでしょう。
ドラマなどでは悪者にされることもありますが。歴史上の郭聖通が何か悪い行いをしたという記録はありません。
子供:
長男:東海恭王 劉彊(廃太子)
次男:沛献王 劉輔
五男:済南安王 劉康
七男:阜陵質王 劉延
十男:中山簡王 劉焉
館陶公主 劉紅夫?
ドラマ[秀麗伝] 過珊彤のモデル
光烈皇后 陰氏
本名:陰麗華(いん・れいか)
称号:光烈皇后(こうれつこうごう)
地位:貴人 → 皇后 → 皇太后
生年 5年(元始5年)
没年 64年2月26日(永平7年1月20日)
享年 70
皇后在位 41~57年。
新家の豪族・陰家の娘。地元でも評判の美人。
家が大富豪だったこともあり陰麗華との結婚を憧れる若者は多かったと言います。劉秀もその一人。劉秀と陰麗華が結婚前にどの程度面識があったかは不明。
劉秀の決起後。新の大部隊を撃退して昆陽の戦い後に結婚。
結婚後わずか3ヶ月で、劉秀が更始帝・劉玄の命令で河北平定に向かいます。陰麗華は新野に残り。別居生活をしました。
その間に劉秀が郭聖通と結婚して、長男も生まれ。
劉秀が光武帝に即位したときには洛陽に呼ばれましたが地位は「貴人」でした。郭聖通とどちらが皇后になるか問題になりましたが。このとき陰麗華が辞退して郭聖通が皇后になりました。
その後、郭聖通の寵愛が薄れると陰麗華が皇后になりました。
光武帝の死後は息子の劉荘が即位。2代皇帝・明帝になりました。陰麗華は皇太后になります。
生活は質素で一族の出世を望みませんでした。中国史上でもとくに優れた皇后と言われます。
子供:
四男:明帝 劉荘(後漢 2代皇帝)
六男:東平憲王 劉蒼
八男:広陵思王 劉荊
九男:臨淮懐公 劉衡
十一男:琅邪孝王 劉京
舞陰長公主 劉義王
涅陽公主 劉中禮
淯陽公主 劉禮劉
酈邑公主 劉綬?
後漢 光武帝の側室
光武帝の側室は記録に残っているのは許美人だけです。でも他にも何人かの側室がいたようです。
許美人
姓:許(きょ)
名:不明
称号:許美人(きょびじん)
地位:美人 → 太后
生年 不明
没年 86年(元和3年)
享年 不明
生年や親など。詳しい経歴が不明。
39年(建武15年)に息子の劉英が生まれているのでそれまでには光武帝の側室になっていたようです。
二人の皇后以外で光武帝の息子を生んだ唯一の女性。陰麗華や郭聖通ほどの寵愛は受けていなかったようです。息子の劉英が与えられた領地も他の兄弟よりも小さいものでした。
光武帝の死後は楚王 劉英と一緒に暮らしました。
子供:
三男:楚王 劉英
ドラマ[秀麗伝]許臙脂のモデル
その他の側室
光武帝の後宮には皇后、貴人、美人がいました。後に宮人、采女などが加わりました。
光武帝の時代には洛陽の名家から娘を選び入宮させていました。
ということは光武帝の後宮にも何人かの側室がいたはずです。でも漢の時代には貴人より地位の低い側室はほとんど記録に残っていないのでよくわかりません。
まとめ
光武帝の皇后や側室は権力争いや政治と大きく関係していました。皇后の座を巡る陰麗華と郭聖通の対立は、そのまま彼女たちの背後にいる勢力の争いです。
二つの勢力の争いは後漢初期の政治に影を落としました。賢さと徳を備えた陰麗華、それに対して失脚した郭聖通という形でドラマティックな物語が残されています。
また、許美人など他の側室の存在も光武帝の私生活や後継者争いに影響を与えたと考えられます。
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