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大宋宮詞の時代背景:武の国だった北宋と劉娥が力を持った理由

ドラマ『大宋宮詞』の舞台となるのは北宋の2代太宗から4代仁宗の時代。

北宋は軍事と文治が共存した王朝。唐滅亡後の乱世の中から誕生したこの王朝は、華やかな文化の裏に熾烈な権力闘争と周囲の国々との緊張を抱えていました。

この記事では北宋の成り立ちや外交問題、宮廷内の複雑な人間模様まで。「大宋宮詞」に描かれる時代の背景を紹介してゆきます。

 

この記事で分かること

  • 北宋が軍事大国として始まった背景
  • 遼や西夏など強国との外交と防衛戦略
  • 皇位継承にまつわる疑惑や内部抗争
  • 劉娥の台頭と皇后が実権を握るまでの経緯

 

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北宋とはどんな国?

北宋(ほくそう)は、960年に始まり、1127年に滅亡した王朝です。
建国者は趙匡胤(ちょうきょういん/宋の太祖)。首都は開封(現在の河南省)でした。
当時の国名は「宋」で、後に南宋と区別するために「北宋」と呼ばれます。

  • 存続:960年〜1127年

  • 建国者:趙匡胤(太祖)

  • 首都:開封

 

建国直後の北宋が軍事大国だった理由

ドラマ『大宋宮詞』の舞台は、国ができて間もないころの緊張感がまだ残る時代です。

よく「北宋は文化が華やかに咲いた国」と言われます。でもドラマが描く北宋はそんなうわべの綺麗事では片付けられない厳しい時代です。北宋は唐末から五代十国時代の激しい争いの時代を生き抜いて建国した国。

もともとは文化とは無縁の佐陀軍閥集団が作った国です。逆に言うと太祖 趙匡胤が彼ら武将たちの力を弱体化させて彼らに力を持たせないようにした結果が、皇帝のもとで文官が統治する国。というスタイルだったわけです。

しかし武将の力は弱めても宋は依然として軍事大国でした。そのわけは周囲には強大な勢力がいたからです。北にある大国「遼」や北西のタングート。彼らは宋と語格以上の戦力を持つ強敵です。

その結果、皇帝に権力を集中させ、文官が統治しつつも巨大な軍隊を持つという唐や漢とは違うスタイルの国になったのです。

ドラマ「大宋宮詞」でも北宋の武勇が強調されます。その姿は北宋は文化的と思う日本人の先入観とはまた違ったものに映ります。

 

北宋を取り巻く周辺勢力

北宋の歴史を語るうえで欠かせないのが、国境を接する強力なライバルたちの存在です。当時の宋は、常に外側からの圧力にさらされていました。

北:契丹(遼)

北の宿敵:契丹(遼) 広大なモンゴル高原、満洲から中国北部まで広大な領土を持つ、宋にとって最大の軍事的な脅威です。ここを守り抜けるかどうかが、国の存亡に直結していました。

西北:党項(のちの西夏)

 西北のエリアでは党項(タングート)族が勢力を伸ばしており、のちに「西夏(せいか)」という国を建てることになります。

北だけでなく、西北にも常に軍隊を置いておかなければならず、これが宋の財政を圧迫しました。

争いの火種「燕雲十六州」とは?

北宋がどうしても諦めきれなかったのが「燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)」という地域です。今の北京周辺から山西省の北部にかけての場所を指します。

実はこの土地、宋ができる前の時代(五代十国時代)に、後晋が軍事援助とひきかえに遼に譲り渡した場所でした。

宋がここを取りたかった理由は「中華王朝の土地だ」という大義名分があるからなのですが。

それだけではない切実な事情がありました。

というのも燕雲十六州は長城の南にあり。ここが遼の領地になることは長城の防御が効かないことになります。燕雲十六州と宋の首都・開封にあるのは平原です。都が北からのプレッシャーにさらされることになります。

そのため宋は燕雲十六州がどうしても自分の領土にしておきたかったのです。

 

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太宗の皇位継承にまつわる疑惑

「兄の死」の現場にいたのは誰か?

宋の2代皇帝・太宗(趙光義)の即位には、今も消えない暗い影がつきまとっています。

ある雪の夜、初代皇帝・太祖が急死しました。その最期の場に居合わせたのは、弟の太宗ただ一人。隣の部屋にいた人々は、窓越しに揺れるロウソクの火影と、何かが地面を叩く斧の音を聞いたと伝えられています。

翌朝、太祖の息子たちではなく、弟である太宗が即位を宣言しました。この「あまりにタイミングの良すぎる交代」が、のちに太宗の家系が背負い続ける呪縛となったのです。

これが「燭影斧声(しょくえいふせい)の謎」と呼ばれる太宗の疑惑となったのです。

消えていくライバルたち:あまりに都合の良い「死」

太宗が即位した後、皇位を脅かす可能性のある親族たちが、まるで示し合わせたかのように次々と表舞台から消えていきました。

  • 太祖の息子たち(太宗の甥): 本来の継承者であるはずの甥たちが、若くして急死したり、罪を問われたりして排除されました。
  • 太宗の弟(趙廷美): 同じく皇位継承権を持っていた弟も、謀反の疑いをかけられて流刑となり、失意の中で亡くなりました。

これらすべての事件を経て皇位は完全に太宗の一族へと移りました。

しかし、この強引なやり方は宮廷内に「いつ自分も消されるかわからない」という強烈な不信感を植え付けたのです。

真宗の即位:三男に回ってきたチャンス

ドラマの主人公である真宗(趙恒)も、最初から跡継ぎとして期待されていたわけではありません。彼は太宗の三男でした。

  • 長男(趙元佐): 叔父や従兄弟たちが不当に扱われるのを見て精神を病み、太子の座を追われました。
  • 次男(趙元僖): 後継者として有力視されていましたが、若くして急死。

こうして、残された三男の真宗に棚ぼた式で順番が回ってきたのです。

 

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仁宗の生母問題

北宋の歴史の中でもドラマチックで残酷な「母と子の物語」が仁宗の生母をめぐる問題です。

1010年:すり替えられた「母」という肩書き

真宗皇帝の子供(のちの仁宗)を産んだのは、宮中で仕えていた李氏でした。でも当時寵愛を受けていた劉氏(劉娥)には子供がいません。

そこで真宗は李氏が産んだ男児を「劉氏の子」として育てることに決めます。 これには真宗なりの打算がありました。

  • 皇后にするための「実績」: 劉氏を皇后にしたい真宗にとって「次期皇帝の母」という肩書きは周囲を納得させるための最強の武器になります。
  • 権力の安定: 「皇后が産んだ嫡子」として育てる方が将来の皇位継承がスムーズに進むと考えたのでしょう。

この計画は皇帝である真宗の強い意志がなければ不可能なことでした。

隠し通された20年と、訪れた「死」

1032年。生母である李氏が亡くなります。この時になっても皇帝仁宗は彼女が自分の本当の母親であることを知りませんでした。

ここで興味深いエピソードが残っています。 劉太后は最初、李氏を低い身分の格式で葬ろうとしました。しかし宰相の呂夷簡が「将来、陛下が真実を知った時のことをお考えなさい。手厚く葬るべきです」と進言したのです。

劉太后は当初「親子の中を引き裂く気か!」と激怒しましたが、最終的には彼の意見を受け入れ、李氏に豪華な装束を着せて手厚く葬りました。

この「最悪の事態への備え」が、のちに劉氏自身の名誉を救うことになります。

1033年:知った時には、もう遅かった

劉太后が亡くなった直後、仁宗はついに真実を告げられます。 「あなたの本当の母は、劉太后ではなく、亡くなった李氏です」

仁宗は激しいショックを受けました。「母は劉太后に殺されたのではないか」という疑念まで抱き、母の棺を開けさせたといいます。 しかし棺の中の李氏は美しい装束に包まれ大切に扱われていました。

その姿を見た仁宗は「劉太后に殺意はなかったのだ」と悟り嘆き悲しんだと伝えられています。

なぜ李氏は沈黙を守り続けたのか?

実の子が「他人の子」として育つのを黙って見ていなければならなかった李氏の心境は、察するに余りあります。しかし彼女が声を上げられなかったのには、理由がありました。

  • 命の危険: もし「私が産んだ」と主張すれば、皇后(劉氏)の地位を脅かすことになり、自分だけでなく我が子の命まで危うくなる可能性がありました。
  • 子の幸せ: 身分の低い自分よりも権力者である劉氏の子として育つ方が、息子が将来皇帝として安定した地位を築ける。そんな「母としての究極の忍耐」があったのかもしれません。

歴史が語る「劉氏」の評価

このエピソードは、のちに「狸猫換太子」という有名な物語のモデルになり、劉氏は「冷酷な悪女」として描かれることが多くなりました。

確かに「親子を引き離し、真実を隠し続けた」という事実は現代の感覚から見ても批判を免れません。しかし同時に崩壊寸前だった北宋の皇統を維持し、仁宗という名君を育て上げたのも、この歪な母子関係の延長線上にあった出来事でした。

ドラマ『大宋宮詞』では、この切ない「母の嘘」がどのように描かれるのか。それが悪意だったのか、それとも生き残るための苦渋の選択だったのか。その描写に注目したいですね。

 

真宗の時代に起きた転換点:澶淵の盟(1005年)

 なぜ「澶淵の盟」という約束が生まれたのか

真宗皇帝の時代、歴史を動かす大きな出来事が起きました。それが隣国の契丹(遼)との戦争と、その後に結ばれた「澶淵(せんえん)の盟(1005年)」という平和条約です。

よく「遼がいきなり攻めてきた」と語られがちですが、実はその前に深い事情がありました。

争いの火種は「土地の持ち主」をめぐる対立

争いの中心は「燕雲十六州」という今の北京周辺を含むエリアです。

936年。後晋は契丹から援軍を出してもらう代わりに燕雲十六州を譲り渡しました。

この土地について遼と宋は正反対の主張を持っていました。

  • 遼の言い分:「この土地は、以前の王朝(後晋)から正式に譲り受けたもの。自分たちの領土なのだから返す理由なんてない」
  • 宋の言い分:「ここは中原王朝が持つべき土地。北からの守りを固めるために絶対に欠かせない場所。何としても取り返さなければ」

宋は燕雲十六州を一度も所有したことはありませんが自分が中原の王朝であることを理由に「取り戻す」と主張。でも遼からすれば正式な取引で手に入れたものを、約束をなかったことにして奪いにくるように見えたわけです。この認識のズレが長い戦いの始まりでした。

契丹と宋その周辺地図

契丹と宋その周辺

 

宋が先に仕掛けて二度の失敗

実は真宗の前の皇帝太宗が二度も大きな勝負を仕掛けています。

  • 1回目の挑戦(979年):宋は北京付近を狙って攻め込みましたが大敗。これで宋と遼の関係は決定的に悪化。土地をかけた戦争が続くことになります。
  • 2回目の挑戦(986年): 太宗は遼の皇帝聖宗が幼い時期を狙って再挑戦しますが、これも失敗。

この二度の攻撃は遼を怒らせるには十分でした。「宋は本当に奪いにくる。ならば、こちらもしっかり叩いておかないと安心できない」と遼側は考えるようになったのです。

遼の大逆転と「話し合い」への道

1004年、ついに遼が大規模な反撃に出ます。軍勢は一気に南下し宋の首都に近い澶淵まで迫りました。

宋にとっては国家存亡のピンチです。しかし、この時の遼の狙いは土地の占領だけではありませんでした。

「これ以上、宋に無茶な戦争をさせないために圧倒的な軍事力を見せつけて有利な条件で平和条約を結ばせよう」

つまり戦争を終わらせ、宋から定期的にお金や物を引き出す仕組みを作ろうとしたのです。

ただしドラマや中国史では1004年の戦いだけを注目しがち。だから遼がいきなり襲ってくるように見えるわけです。

 

「澶淵の盟」がもたらした平和の値段

1005年。激しい戦いの結果、両国は和平に合意します。これが「澶淵の盟」です。
その内容は国境の確定の他に、宋が遼に対して毎年これだけの物を贈るというものでした。

  • 銀:10万両
  • 絹:20万匹

これを歳幣(毎年の贈り物)といいます。でも実態は貢物と同じです。

宋が一方的に損をしているように見えます。確かに燕雲十六州の奪還をあきらめ、毎年高い支払いを続けるのはプライドの高い宋にとって屈辱的でした。

でも現実的なメリットもありました。

  • 戦争のコストが消えた:戦争になれば莫大な戦費がかかります。それに比べれば、毎年の支払額の方が安く済みました。
  • 平和な暮らし: 国境線がはっきり決まり大きな戦争が止まったことで、その後、長い平和な時代が続くことになります。

「メンツ」を捨てて「平和」を買った。澶淵の盟はそんな宋の苦渋の、でも現実的な決断だったと言えるでしょう。

 

澶淵の盟のあと真宗が「儀式」にこだわった理由

「澶淵の盟(せんえんのめい)」で遼と平和条約を結んだ真宗ですが、その心境は複雑でした。戦争が終わった安堵感の一方で、心には大きな「しこり」が残っていたのです。

その心の穴を埋めるために彼がのめり込んだのが「封禅(ほうぜん)」という国家を挙げた大イベントでした。

封禅とは何か

「封禅」とは皇帝が聖なる山・泰山(たいざん)に登り、天地の神々に「私は天に選ばれた正しい支配者です」と報告する儀式です。

長い中国の歴史の中でも、これを行った皇帝は数えるほどしかいません。それほど準備が大変で、お金もかかり、何より「ふさわしい実績」がなければやってはいけないとされるハードルの高い儀式でした。

なぜ、あえて今「封禅」だったのか?

真宗がここまで儀式にこだわったのには切実な理由がありました。

  • 「負け犬」のイメージを払拭したい :
    遼にお金(歳幣)を払って平和を買ったことは、国内の人々からすれば屈辱的な弱腰外交に映りました。戦争でスカッと勝って名誉を得られなかった真宗は別の形で「皇帝としての凄み」を見せつける必要があったのです。

宗教的な演出への傾倒

真宗はさらに念を入れ「天からお告げ(天書)が降ってきた」という自作自演のような不思議な現象を次々とプロデュースしました。 周囲の家臣たちも皇帝の機嫌を取るために「めでたい兆しが見えました!」と口裏を合わせ国全体がオカルトじみた宗教ブームに包まれていきます。

こうして真宗は「外交での譲歩」というマイナスを「宗教的なカリスマ性」というプラスで上書きしようとしたのです。

 

劉娥が「最高権力者」になれた理由

ドラマ『大宋宮詞』を観ていると、劉娥と真宗の深い絆が描かれます。しかし彼女が北宋という巨大な帝国の実権を握れたのは、単に「皇帝のお気に入り」だったからではありません。当時の政治状況が、彼女をトップの座へと押し上げたのです。

条件1:常に揺れていた「リーダー」の座

2代皇帝・太宗の時代から北宋の宮廷は「次の皇帝を誰にするか」という問題で常にピリピリしていました。

太宗には何人も息子がいましたが、有力な候補だった長男が心を病んで脱落し、次男も若くして急死してしまいます。消去法に近い形で、三男の真宗がようやく即位できたという経緯があります。

こうした誰が継いでもおかしくない不確かな時代は、皇帝のすぐそばにいる妃や側近たちが政治に口を出すチャンスが増える時期でもありました。

条件2:皇帝の病と頼りになるパートナー

即位した真宗、治世の後半になると病気がちになり、自分一人で山積みの書類をさばくことが難しくなりました。

そこで白羽の矢が立ったのが聡明で実務能力の高い劉娥でした。真宗が休んでいる間、彼女が政治の細かい判断をサポートするようになります。 「皇帝が動けないなら、一番信頼できる彼女に任せよう」。

この真宗の依存が劉娥が政治の表舞台で経験を積み、官僚たちに一目置かれるきっかけとなりました。

条件3:南北対立を利用

劉娥が権力を盤石にするために利用したのが、当時の官僚たちの間にあった根深い「南北対立」です。

もともと北宋は中国の北側(華北)で生まれた国です。そのため政治の中枢は建国以来の功労者の子孫や、北側出身のエリート官僚たちによって独占されていました。

一方で南部(長江流域など)の出身者は、後から国に加わった「よそ者」として冷遇されていました。初代皇帝の太祖が「南の人間を宰相にするな」と言い残したという噂が流れるほど、彼らの出世の道は閉ざされていたのです。

そんな中、真宗皇帝は従来の慣習を破り、丁謂(ていい)や王欽若(おうきんじゃく)といった南部出身のキレ者たちを重用し始めました。当然、北出身の古参官僚(寇準など)はこれに猛反発し激しい派閥争いが巻き起こります。

劉娥はこの対立を見逃しませんでした。

形見の狭い思いをしていた南部出身者の後ろ盾となり、従来の体勢に不満を持つ層を自分の派閥に取り込む。

こうして彼女は自分を支持してくれる「新しい勢力」を作り上げました。この「不遇な若手や地方出身者を積極的に登用して味方につける」という方法は、かつての武則天が使った方法にもいています。非常に理にかなった高度な政治テクニックでした。

 

決定打:幼い皇帝と「すだれ」の向こうの権力

1022年。真宗が亡くなり、まだ10代前半の若い仁宗が即位します。子供に複雑な国の舵取りはできません。ここで劉娥の役割が決定的なものになります。

1022年: 真宗が亡くなり仁宗が即位。劉娥が「皇太后」として後見人になる。

垂簾聴政(すいれんちょうせい): 幼い皇帝の後ろに「すだれ」を垂らし、そこで劉娥が実際の決済を下す政治体制が始まりました。

表向きは皇帝の政治ですが、実際の人事や重要な政策は劉娥の手によって決まる。この形が整ったことで彼女は名実ともに北宋のトップに君臨したのです。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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