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愉妃・珂里葉特氏 第五皇子の生母・ハイランのモデルの史実

愉妃・珂里葉特氏 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

愉妃(ゆひ)は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの側室。
愉貴妃ともいいます。

瓔珞<エイラク>」では 愉妃ゆひ珂里葉特ケリエテ・阿妍
如懿伝(にょいでん)」では 愉妃ゆひ珂里葉特ケリエテ海蘭ハイランとして登場します。

後宮に入ったころは 海常在 と呼ばれていました。

モンゴル人貴族の父をもつ妃です。

愉妃の息子 第五皇子・永琪は乾隆帝が最も可愛がった皇子ともいわれます。

将来の皇帝候補として期待されていました。

史実の愉貴妃はどんな人物だったのか紹介します。

 

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愉貴妃(愉妃) の史実

プロフィール

姓:珂里葉特(ケリュテ)、海(日本語:かい、満州語:ハイ)氏、海佳(日:そかい、満:ハイギャ)氏

称号: 愉貴妃(ゆきひ)
地位: 海格格→海常在→海貴人→愉嬪→愉妃→愉貴妃(追ふう)
国:大清
旗籍:蒙古鑲藍旗

生年月日:1714年6月15日
没年月日:1792年7月9日

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。

家族

父:額爾吉圖
母:不明

夫:乾隆帝(けんりゅうてい)
子供:皇五子 和碩親王・永琪(ようき)

 

モンゴルの貴族

蒙古鑲藍旗はモンゴル人で編成された蒙古八旗のひとつ。満州・モンゴルで「旗」とは「集団」を意味する言葉。

ヌルハチが満州人の軍団を8つに分けて編成したのが始まり。八旗に所属する人を「旗人」とよび様々な特権が与えられます。清の特権階級といえる人たちで、領主・貴族に近いです。

愉貴妃の父・額爾吉圖は蒙古八旗のひとつ蒙古鑲藍旗の所属。

名字が3つ

モンゴル人なので 珂里葉特(ケリュテ)というモンゴルの姓を持っています。

姓と名字は本来は微妙に違います。でも現代日本では同じ使われ方をしているので、姓=名字と考えても問題はありません。

愉貴妃の一族は 海(ハイ)という漢式の姓も持っています。

後に、海佳(ハイギャ)という満州式の姓も与えられました。

一つの家に3つも姓があるんですね。ややこしいです。

モンゴル人は姓(ファミリーネーム)はあまり使いません。普段は名前(ファーストネーム)だけ使うので気にしないのかもしれません。

清の記録では「海氏」と書かれていることが多いのですが。
ドラマでは本来の姓である「珂里葉特(ケリュテ)氏」で紹介されることが多いです。

愉妃のおいたち

1714年6月15日(康熙53年)。満州八旗の旗人・額爾吉圖の娘として生まれました。

モンゴルの旗人ですが、父の地位はそれほど高くはありません。

1727年(雍正5年)。14歳のとき。第四皇子・弘曆の地位の低い側室になりました。

乾隆帝の妃になる

1735年(雍正13年)。雍正帝が死去。弘曆が即位しました(乾隆帝)。

22歳のとき。珂里葉特氏は常在になりました。側室の中では6番目の地位になります。低い身分の側室です。名家の出身だと10代で貴人になる人もいます。家柄の低さと寵愛の深さが影響しているのでしょう。

1738年(乾隆2年)。珂里葉特氏は貴人になりました。

1741年(乾隆6年)。珂里葉特氏貴人は第5皇子の永琪(えいき)を出産しました。側室になって14年。28歳での初めての子供でした。当時としては初めての出産にしては高齢です。

そのため珂里葉特氏自身はそれほど乾隆帝から愛されてはいなかったのではないかともいわれます。

同じ年、珂里葉特氏は愉嬪になりました。

1745年(乾隆10年)。珂里葉特氏は愉妃になりました。

1763年(乾隆28年)。離宮の圓明園の九洲清宴殿火事がありました。圓明園には乾隆帝がいましたが、愉妃の息子・永琪は乾隆帝を背負って避難しました。

翌日。愉妃のもとに使者が来て褒美が渡されました。

1764年(乾隆29年)。愉妃は那常在の教育を任されました。このとき愉妃は50歳。若い側室に宮中の規則などを教える役目を与えられるようになりました。

1763年(乾隆46年)。愉妃の孫、永琪の長女が死亡しました。

乾隆帝に最も愛された第五皇子・永琪を失う

1766年(乾隆49年)。52歳のとき息子の永琪(ようき)が死亡。享年25。

死因は骨結核でした。死後「栄純親王」の称号を与えられました。側室の子にもかかわらず「親王」の称号を与えられました。

乾隆帝は皇子の中で永琪を最も高く評価していたのです。乾隆帝の時代には皇太子の制度はありません。なので乾隆帝がだれを後継者にするのかは直前までわかりません。頭の良い永琪を後継者にするつもりだったのではないかともいわれます。

珂里葉特家は力のある家ではありません。実家の援助が期待できない中で永琪は自分の才能だけで乾隆帝の心を掴みました。

逆にいえば愉妃の後宮内での地位は永琪がいてこその地位だったとも言えます。

愉妃の最後

永琪の死後。愉妃の記録は少なくなります。

後継者候補と考えられていた永琪を失ったため愉妃の影響力は大きく下がりました。乾隆帝とは次第に疎遠になったのではないかともいわれます。

すでに高齢の愉妃には記録に残るような出来事もおきなかったのでしょう。

1792年(乾隆57年)。永和宮で死去しました。享年78。

妃になって45年存命したのは乾隆帝の妃の中では最長です。

乾隆帝は87歳まで生きた長命の皇帝でした。側室も非常に多かったです。その中で愉貴妃は乾隆帝の皇子時代からほぼ晩年まで生きた数少ない側室です。生年がわかっている中では富察皇后に継ぐ年長者でした。

乾隆は愉貴妃の称号を与えました。側室では最高の貴妃待遇で葬儀を行いました。

 

 

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テレビドラマの愉妃

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜

2018年、中国
役名:愉妃ゆひ珂里葉特ケリュテ・阿妍  演:練練(リアン・リアン、練束梅)

ヒロイン魏瓔珞に助けられるまでは後宮でいじめられても黙っているような臆病な性格でした。やがて自分を犠牲にしてでもライバルを倒そうとするしたたかな女になります。

 

如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃~

(なお、如意伝と書く人がいますが、正しくは如懿伝です)

2018、中国
役名:愉妃ゆひ珂里葉特ケリュテ海蘭ハイラン 演:張 鈞甯(チャン・チュンニン)

ヒロイン如懿の友人。このドラマでも最初は地位が低いのでいじめられている役です。後に意志の強い女性になって謀をするようにするようにもなります。乾隆帝が最も愛する皇子・永琪の母でもあるので後宮で影響力を持ちました。その影響力を使って如懿を助けます。

どちらのドラマもヒロインの味方になる人物として描かれます。瓔珞では存在感がうすいですが、如懿伝では重要な人物です。

 

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