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婉妃(婉貴太妃) 陳氏の92歳の生涯。乾隆帝の後宮で最も長く生きた側室とは

婉妃(婉貴太妃) 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

婉妃は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの側室。

嘉慶帝時代には婉貴太妃といわれました。

「瓔珞<エイラク>」では婉嬪・陳氏
「如懿傳」では婉嬪・陳婉茵として登場します。

ドラマではあまり目立つところのない婉貴妃ですが、92歳まで生きて乾隆帝の側室の中で最も長生きしました。

史実の婉貴妃はどんな人物だったのか紹介します。

 

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婉妃 の史実

どんな人?

姓:陳
称号: 婉貴太妃
地位: 格格→陳常在→陳貴人→婉嬪→婉妃→婉貴太妃生年月日:1717年
没年月日:1807年3月10日

清王朝の第5代皇帝・雍正帝~7代嘉慶帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

家族

父:陳廷璋
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)子供:なし

 

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婉妃(陳氏)の生涯を分かりやすく解説

婉妃とは?

婉妃(えんひ)は、清王朝第5代皇帝・乾隆帝の妃の一人です。姓は陳(ちん)、最終的な称号は婉貴太妃(えんきたいひ)でした。格格(ゲゲ)という低い身分から始め、最終的には太妃という非常に高い地位まで昇り詰めました。

生い立ちと家族

1717年、漢人の陳廷璋の娘として生まれました。母親については詳しい記録が残っていません。

乾隆帝との出会い

若くして後の乾隆帝となる宝親王・弘暦の邸に入り、格格という低い身分の側室となりました。当時の乾隆帝は、まだ皇太子ではありませんでした。

陳氏は、輝發那拉氏という地位の高い側室の侍女をしていたとも伝えられています。しかし、乾隆帝の寵愛を受けるようになり、侍女ではなく側室の地位を与えられました。

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乾隆帝の即位

1735年、雍正帝が亡くなり、弘暦が乾隆帝として即位しました。

それによって陳氏は他の側室たちととも後宮の低い地位である「常在」となりました。常在になった陳氏には3人の女官が仕えることになりました。

1737年。陳氏はより地位の高い「貴人」に昇進。同年、乾隆帝は後宮で晩餐会を開き、陳貴人も参加しました。

皇后の即位と陳氏の昇進

1748年。乾隆帝は嫻貴妃・輝發那拉氏を皇后に立てました。

新しい皇后の徳を広く示すため、他の側室たちも昇進することになりました。このとき陳貴人も「嬪」というさらに高い地位に昇進しました。

嬪の位になると称号に一文字の漢字が付けられます。陳氏の場合は「婉」「巽」「穎」の3つの漢字が候補として挙げられ、最終的に乾隆帝が「婉」の字を選び、「婉嬪」となりました。

婉嬪としての生活

1749年。陳氏は正式に婉嬪の位になりました。

しかし婉嬪は40歳になった1755年に行われるはずの「四十千秋」という特別な祝いを乾隆帝から受けることはありませんでした。

一方、1765年に50歳を迎えた際には、「五十大壽」という大規模な祝いを催され、乾隆帝からの特別な配慮を受けたことがわかります。

まとめ

陳氏は、乾隆帝の即位後、低い地位から徐々に昇進し、最終的には婉嬪の地位まで達しました。しかし、乾隆帝からの寵愛は他の妃嬪に比べると薄かった可能性が考えられます。それでも、乾隆帝は陳氏をある程度は可愛がり、特別な機会には祝いの宴を催すなど、一定の待遇を与えていたことが伺えます。

 

婉嬪の宮殿における宮女失踪事件

事件の概要

乾隆帝の時代。婉嬪の宮殿である夜、宮女が井戸に飛び込み自らの命を絶つという悲劇的な事件が起きました。

この事件にはいくつかの不可解な点があります。

  • 井戸の封鎖: 宮殿内の井戸は夜間は厳重に封鎖され、宦官長が毎日夜7時に施錠。翌朝5時に開けることになっていました。にもかかわらず、宮女は夜中に井戸に侵入、自殺を図ることができたのです。
  • 発見の遅れ: 宮女がいなくなったことに太監や他の宮女たちは気づきませんでした。皆が忙しかったことや、あるいは他の原因が考えられますが発見が遅れたことで事件の真相究明が難しくなった可能性があります。
  • 事件の真相: 事件の詳細はうやむやになってしまいました。なぜ宮女が自殺を選んだのか、誰が彼女を井戸に誘導したのかなど多くの謎が残されています。

事件と乾隆帝の寵愛の関係性

この事件が乾隆帝が婉嬪を寵愛しなかった原因の一つなのか、あるいは寵愛が薄かったためにこのような事件が起こったのかのかはわかりません。

 

陳氏の晩年と乾隆帝の譲位

 

婉妃としての地位確立

1794年。陳氏は側室としての地位を40年以上守り続け、乾隆帝の妃嬪の中で最も長く仕えた側室となりました。その功績を称えられ、「婉妃」という称号が与えられました。

乾隆帝の譲位と嘉慶帝の即位

1796年。乾隆帝は皇子である顒琰(ぎょうえん)に皇位を譲り、嘉慶帝が誕生しました。

でも乾隆帝は依然として多くの権力を握っており、嘉慶帝は実質的な皇帝とは言えませんでした。この状態は、乾隆帝が崩御するまで続きました。

 

婉貴太妃としての晩年

婉貴太妃

婉貴太妃の肖像画

嘉慶帝の即位と婉貴太妃への昇進

1799年。乾隆帝が亡くなり、嘉慶帝の政治が始まりました。

乾隆帝の多くの側室がすでにこの世を去る中、婉妃は健やかに過ごしていました。

嘉慶帝は婉妃の長年の奉仕を称え、1801年に彼女を「婉貴太妃」に昇進させました。

嘉慶帝の勅命には婉貴太妃が乾隆帝の藩邸時代から仕えてきたこと、そして長年の奉仕に感謝の意が込められていました。

嘉慶帝からの深い信頼

乾隆帝からあまり寵愛を受けていなかった婉妃でしたが、嘉慶帝からは深く信頼されていました。

嘉慶帝の生母である孝儀純皇后や養母のような存在であった慶恭皇貴妃がすでに亡くなっていたため、子供を持たない婉妃は嘉慶帝の地位を脅かす存在ではありませんでした。

むしろ、嘉慶帝にとっては穏やかな存在として安心感を与えていたのかもしれません。

長寿と穏やかな晩年

1807年(嘉慶12年)。死去しました。享年92。

婉妃は後宮の激しい争いや後継者争いに巻き込まれることなく、比較的穏やかな生涯を送りました。

若い側室たちが次々と子供を産み地位を上げていく中で、婉妃の地位は大きく変わることはありませんでしたが彼女は健康に恵まれ、92歳という長寿を全うしました。

婉妃の人生を振り返って

婉妃は乾隆帝が皇帝になる前から仕え、その息子である嘉慶帝の時代まで生き抜きました。寵愛には恵まれなかったものの、長寿と安定した地位を得て穏やかな晩年を過ごしました。

まとめ

婉妃の人生は華やかさこそなかったかもしれませんが、長寿と安定という幸福を手に入れたと言えるのかもしれません。

生き残ったものが勝ち。と考えればマイペースで生きた婉嬪の人生も悪いものではなかったかもしれません。

 

テレビドラマの 婉妃

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜

2018、中国
役名:婉貴人→婉嬪・陳氏 演:劉璐
とくに目立つところのない脇役でした。

 

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~

2018、中国
役名:婉妃・陳婉茵 演:曹曦文
ヒロイン・如懿と親しい人物として登場します。

 

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