曹丕(魏文帝)曹操の息子として生まれ司馬懿とともに掴んだ皇帝の座

曹丕 7 漢
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曹丕は三国志の時代に活躍し、魏の初代皇帝 文帝となりました。

父は乱世の英雄・曹操、弟は文才に溢れる曹植。彼もまた文武両道に秀でた才能を持ち、激動の時代を駆け抜けました。

父の後継者争い、弟との確執、そして魏の建国。その道のりは彼の才能と野心を試す、困難なものでした。

この記事では曹丕の生涯を辿りながら、彼の業績、人間関係、そして彼が残した歴史的意義について紹介します。

 

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魏文帝 曹丕

姓:曹(そう)
諱:丕(ひ)
字:子桓(しかん)
諡号:文皇帝
廟号: 高祖(三国志など)、世祖(資治通鑑)
生年月日:187年
没年月日:226年6月29日
魏文帝 曹丕

魏文帝 曹丕

家族

父:曹操(そうそう)
母:卞氏(べんし)
妻:甄氏(しんし)、郭女王(かくじょおう)
子供:曹叡(そうえい)

 

曹丕の生い立ち

曹丕(そうひ)は、後漢末期から三国時代の魏にかけて活躍した政治家であり、文人です。父は乱世の英雄・曹操(そうそう)、弟には文才に優れた曹植(そうしょく)がいます。

幼少期から青年期

187年、曹操の次男として生まれた曹丕は、幼い頃から聡明で、文武両道に秀でていたと伝えられています。特に文学の才能は父・曹操も認めるところであり、弟の曹植と共に、後世に名を残す文人として成長しました。

しかし、兄の曹昂(そうこう)が早くに亡くなったため、曹丕は曹操の後継者候補として意識されるようになります。そして、その後の彼の人生を大きく左右する、後継者争いに身を投じることとなるのです。

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曹丕vs曹植、曹操の後継者争い

曹操の後継者候補

曹操には25人もの子供がいましたが、後継者候補として特に注目されたのは曹昂(そうこう)、曹沖(そうちゅう)、曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)の4人でした。

最も有力だったのは最初の正妻・劉夫人の子で長男の曹昂。庶子ながら神童と呼ばれた曹沖でした。

しかし曹昂は戦死。曹沖も13歳で病死します。

曹操は嘆き悲しみ、曹丕に「曹沖の死は私にとって不幸だが、お前にとっては幸運だった」と語りました。曹丕自身も「もし曹沖が生きていれば、自分が後継者になることはなかっただろう」と語っています。

曹丕と曹植の争い

曹沖の死後、後継者争いは曹丕と曹植の一騎打ちとなりました。特に曹植は文才に優れ、曹操のお気に入りでした。兄弟は互いに味方を増やし、激しい駆け引きを繰り広げました。

二つの派閥、それぞれの思惑

曹操が後継者を決めかねる中、家臣たちは二つの派閥に分かれました。

  • 曹丕を支持:司馬懿、賈詡、崔琰、陳群たち。
  • 曹植を支持:楊修、丁儀、丁廙、賈逵たち。

彼らはそれぞれの思惑を胸に策略を巡らせ、時には相手を陥れることもありました。情報戦、世論操作、あらゆる手段を使い後継者の座を奪い合いました。

一時は曹植がリードするも…

とくに曹植支持派の楊修は名門出身の切れ者で曹操の側近として情報を握っていました。彼の策略もあり、曹植は一時は後継者候補の最有力と見られていました。

しかし曹植は酒癖が悪くわがままな振る舞いが目立ちました。ある時、彼は酔った勢いで司馬門に侵入し曹操の怒りを買ってしまいます。

曹丕が後継者になる

一方、曹丕は着実に支持を固め家臣たちの助けを借りて様々な策略を実行しました。彼は曹植の失態を逃さず巧みに利用、徐々に優位に立っていきました。

そして建安22年(217年)。ついに曹丕は魏王の世子(後継者)となりました。

後継者争いの影響

この後継者争いでの経験は曹丕の政治家としての才能を大きく開花させました。しかし同時に弟・曹植との間に深い溝を生むことにもなったのです。

魏王 世子としての活動

建安24年(219年)。曹丕は父・曹操から後継者として認められ、鄴城(ぎょうじょう)を守っていました。

しかし魏諷(ぎふう)が反乱を企てます。事前に計画を知った共謀者の密告により、曹丕はすぐさま軍を率いて魏諷を討伐、反乱を鎮圧しました。

曹丕は政治だけでなく文化にも力を注いでいました。世子の頃から積極的に文学団体を組織し詩や文章の創作を奨励しました。その結果、同じようなテーマで詩を詠み合う「唱和」という文化が盛んになり建安文学という新しい文学の形が生まれたのです。

 

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魏の建国

曹操の死と曹丕の即位

220年。曹操が死去。曹丕は漢の献帝からの正式な許可を得ずに「魏王」の地位を継承しました。

曹丕は父の築き上げた基盤を引き継ぎ、魏王の地位を継承しました。

漢の献帝は既に名ばかりの存在で、実権は曹一族が握っていました。もはや漢の皇帝の承認は必要なかったのです。

曹丕が次に狙うのは皇帝の座です。

周囲を固め、着々と準備

曹丕は自身の権力基盤を固めるために周囲の勢力を懐柔し反対勢力を排除しました。

また司馬懿(しばい)をはじめとする有能な家臣たちを重用し、禅譲への準備を着々と進めていきました。

禅譲という名の簒奪

そしていよいよ曹丕は献帝に禅譲(ぜんじょう)を迫ります。

禅譲(ぜんじょう)
平和的に帝位を譲り渡す形式のこと。理由もないのに自ら帝位を他人に譲る者などいません。強奪しておいて「もらったのだ」という中国人お得意の誤魔化し。実際には「下剋上」と同じです。

 

しかし下剋上する側にも理由はあります。

  • 自身の権力基盤の確立
    曹丕は自身の正当性を示し周囲を従わせるために皇帝の地位が必要だと考えました。
  • 家臣たちの後押し
    家臣たちは曹丕を皇帝にして自らの地位向上を狙いました。彼らは積極的に曹丕の皇位継承を支持しました。
  • 不安定な情勢
    当時の政治情勢は不安定で迅速な判断と実行力が求められていました。形だけの献帝の承認を待つ余裕はなかったのです。
  • 形骸化した漢王朝
    魏王継承からも明らかなように、献帝はすでに名ばかりの存在でした。実権は曹操一族が握っており、献帝の承認は意味を失っていたのです。
  • 地に落ちた漢王朝の威光
    長年の戦乱により国土は荒廃。漢王朝の権威は地に落ち、各地で群雄割拠の状態が続いていました。人々はもはや漢王朝には期待せず、強い君主を求めていたのです。

これらの要因が重なり、曹丕は皇帝への道を突き進むことになりました。

曹丕陣営の禅譲の要求に対して力のない献帝は拒否する事ができません。曹丕に帝位を譲る事になりました。

献帝からの禅譲の申し出に曹丕は形式的に辞退するという茶番劇を演じた後。

220年12月。曹丕は魏の初代皇帝として即位。ここに後漢王朝は終焉を迎えました。

 

献帝への配慮

曹丕は皇位を簒奪したものの、献帝には一定の配慮を見せました。献帝を「山陽公(さんようこう)」に封じ、余生を穏やかに過ごせるように計らいました。

 

曹丕の皇帝としての業績

曹丕の在位期間は7年と短いですが、魏の初代皇帝として様々な業績を残しました。主に内政と外政、文化の発展に貢献しています。

内政

1. 皇帝権力の強化

  • 中書省の設置
    皇帝の側近として機密情報を扱う中書省を設置。皇帝への権力集中を強化しました。
  • 后妃と外戚の政治関与の禁止
    后妃や外戚が政治に関わるのを禁止しました。
  • 藩王の権力制限
    藩王を削減、封地も頻繁に変更。藩王に政治権力や軍事力を与えませんでした。これにより藩王による反乱を防ぎ皇帝権力を強化しました。
しかしこの制度は後に司馬氏が魏王朝を乗っ取ろうとしたとき、皇帝を守る者がいないという結果を招きます。

2. 九品中正制の導入

曹丕は陳群の意見を取り入れ「九品中正制」という新しい人材登用制度を導入しました。

各地域の有力者が人材を九つの等級に分け、中央政府に推薦するというものでした。この制度により曹丕は有力者たちの支持を得て皇帝即位への道を切り開きました。

しかし、この制度は後に有力者による人材の独占を招き政治の腐敗を招くことになりました。

3. 宦官の排除

中常侍と小黄門を廃止、散騎常侍と散騎侍郎を新設。宦官の政治参加を厳しく禁止、官吏への道も制限しました。この政策を後世に伝えるため金属板に刻み石室に保管。

外政

曹丕の軍事的な功績を分かりやすくまとめると、以下のようになります。

1. 北方統一の完成

曹丕は青州・徐州の割拠勢力を平定、北方の統一を完成させました。この功績は、魏の安定と国力増強に大きく貢献しました。

2. 蜀漢に勝利

曹丕は蜀漢の宜都太守孟達を降伏させ、劉備の養子劉封を破り上庸三郡を奪還しました。
これにより魏の領土を拡大しました。

3. 孫呉への遠征

曹丕は三度にわたり孫呉へ遠征しましたが、大きな成果は得られませんでした。
しかしこれらの遠征は魏の軍事的な脅威を他国に思い知らせることになり。その後の戦いでも一定の影響を残しました。

4. 西域の安定化と支配の復活

魏王時代は蘇則に命じて武威、酒泉、張掖の反乱を鎮圧させ。皇帝即位後は曹真に命じて羌胡(きょうこ)連合軍を撃破、河西を平定しました。

また、使者を派遣して西域との交通を回復。中原王朝の西域支配を復活。西域長史府を設置し、西域の統治を強化しました。

5. 北方異民族への対応

北方の民族が強大化し辺境を侵略したため田豫、牽招、解俊らを派遣。彼らは鮮卑を何度も撃破。北方の安定化に貢献しました。

文化

曹丕は自らも優れた文学者であり、「三曹」の一人として知られています。
建安文学の発展に貢献し、多くの文人を庇護しました。

 

曹丕の最後と死因

しかし、晩年の曹丕は体調を崩しがちになります。

226年。曹丕は遠征先から洛陽の宮殿に戻りました。しかし間もなく重病に倒れてしまいます。

彼は後継者の曹叡(そうえい)を託すため、信頼する4人の重臣、陳群(ちんぐん)、曹真(そうしん)、曹休(そうきゅう)、司馬懿(しばい)を呼び寄せ、遺言を託しました。

また後宮の女性たちを実家に帰すように指示しました。

6月29日。曹丕は40歳という若さでこの世を去りました。彼は生前の遺言に従い質素な葬儀を望み首陽陵(すいようりょう)に埋葬されました。

曹丕は在位わずか7年でこの世を去りました。40歳という若さでした。

曹丕の死後、跡を継いだ息子の曹叡(そうえい)は、父の遺志を継ぎ、魏の発展に尽力しました。

 

曹丕と司馬懿の関係

曹丕と司馬懿の関係は単なる君臣関係を超えた特別な絆で結ばれていました。

司馬懿と曹丕の出会いと信頼の芽生え

司馬懿は高い才能を曹操に見抜かれていましたが、同時に野心も警戒されていました。しかし曹丕は違いました。

曹丕は司馬懿の才能を積極的に評価して重用したのです。

まだ曹丕が太子の頃。司馬懿は彼の側近として仕え、様々な助言を与えました。曹丕は司馬懿の言葉に真摯に耳を傾け、次第に彼を信頼するようになりました。このころから、二人の間には固い絆が育まれていったのです。

曹丕の即位、司馬懿の活躍

曹丕が皇帝として即位すると、司馬懿はさらに重要な地位を与えられました。曹丕は彼を側近中の側近として重用し、政治や軍事の重要な決定に関わらせました。

司馬懿は曹丕の期待に応え魏のために尽力しました。彼は数々の戦いで軍事的才能を発揮、魏の領土拡大に貢献しました。

内政でもその優れた政治手腕で曹丕を支えました。

曹丕の託託、そして歴史のうねり

226年。曹丕は病に倒れ自身の死期を悟りました。彼は皇太子の曹叡を託す相手として、司馬懿を選びました。

「汝、よく我が子を輔けよ」
(どうか我が子のことをよろしく頼む)

この言葉は曹丕が司馬懿をどれほど信頼していたかを物語っています。

しかし、この信頼が後に魏の歴史を大きく揺るがすことになるとは、誰も想像していなかったでしょう。

司馬懿は曹丕の期待に応え魏のために尽力しました。しかし彼の権力拡大は、魏の皇室の弱体化を招き、最終的には司馬氏による魏の簒奪へと繋がったのでした。

まとめ

曹丕は父・曹操の築いた基盤を受け継ぎ、魏の初代皇帝として新たな時代を切り開きました。

その功績は内政では九品中正制の導入や宦官の排除、外政では北方統一の完成や西域支配の復活などが挙げられます。

また文人としても才能を発揮し、建安文学の発展に大きく貢献しました。

その一方で弟・曹植との後継者争いや、司馬懿との複雑な関係など、決して平坦ではない道のりでもありました。

「魏」といえば曹操の国のイメージがありますが。国を建国したのは曹丕です。漢を終わらせ魏を建国したことで。それまで漢の中で地方勢力として戦っていた劉備や孫権も皇帝を名乗り蜀漢や孫呉を建国します。

曹丕は三国に分かれて戦う時代を演出した人物と言えるかもしれません。

 

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