孝文王は古代中国の春秋戦国時代、秦の国の王です。
安国君ともよばれました。
始皇帝の祖父になります。
孝文王の在位期間は1年もありません。太子として暮らした安国君時代の方が遥かに長いです。そのたけ王としては実績がありません。
史実の孝文王はどんな人物だったのか紹介します。
孝文王 の史実
孝文王 プロフィール
名前:柱(ちゅう)
称号:安国君 (あんこくくん)→孝文王(こうぶんおう)
地位:秦の王太子→秦国王生年月日:紀元前302年
没年月日:紀元前250年
家族
母:唐太后
正室:華陽夫人(かようふじん)
側室:夏姫、他大勢子供
荘襄王、子傒 その他大勢20人ほど
古代中国・秦国の第29代君主です。
日本では弥生時代になります。
おいたち
紀元前302年。秦の国で生まれました。
父は昭襄王(しょうじょうおう)。
安国君には兄の悼太子がいました。悼太子は魏に人質にだされていました。
紀元前267年。悼太子が滞在先の魏で死亡しました。
紀元前265年。昭襄王は安国君を太子(王位後継者)に指名しました。
安国君には20人以上の息子がいました。その中には始皇帝の父になる異人(いじん)もいました。ところが母の夏姫(かき)の身分が低いため、安国君はあまり異人を可愛がっていませんでした。趙の国に人質として出してしまいます。
太子はとくに決まっていませんでしたが、子傒(しけい)という王子が有力候補でした。
しかし正室の華陽夫人(かようふじん)には息子がいません。そこで呂不韋が異人を華陽夫人の養子にするように説得。異人は趙で名声が高まっていると聞いた華陽夫人は安国君と相談。安国君も異人を華陽夫人の養子にするのを認めました。華陽夫人の養子になった異人は名前を子楚に改めます。
紀元前258から257年にかけて。秦が趙の首都・邯鄲(かんたん)を攻撃しました。趙の邯鄲にいた子楚は処刑されそうになりましたが、呂不韋が脱出させました。子楚には妻の趙姫(ちょうき)とその子・政(せい・後の始皇帝)がいましたが、趙から脱出させることができず生き別れになりました。
秦に戻った子楚は有力な王位後継者になりました。
秦の国王になる
紀元前251年。父の昭襄王が死去。安国君は秦の国王になりました(孝文王)。
正室の華陽夫人を華陽后、子楚を太子にしました。
すると趙は子楚の妻・趙姫(ちょうき)とその子・政(せい・後の始皇帝)を秦に送り届けてきました。このときには趙よりも秦の力が強くなっていました。趙としては無事送り届けなければ攻め込まれる。と思ったのかもしれません。
母の唐八子には唐太后の諡をおくりました。
恩赦を行い罪人を解放しました。前王時代の功労者を表彰しました。王家の一族を優遇し王家の庭園を解体しました。
紀元前250年10月。父の喪があけて正式に即位しました。
ところが3日後に死亡。53歳でした。死因はわかりません。「急死」とだけ書かれています。寿陵(陝西省西安市林通区北東部)に埋葬されました。
あるいは正式な即位式をする前に死亡したのかもしれません。なにしろ53歳ですからいつ死んでもおかしくありません。でも子楚は父が秦王として即位したことを残したかったのかもしれません。そうでなければ子楚の正当性も疑われかねませんから。
孝文王の死後、太子の子楚(荘襄王)が即位します。
孝文王の即位期間は1年たらずでした。これは即位したときにすでに50歳を超えていたことが大きな理由と考えられています。父の昭襄王が75歳まで生きたので在位期間が長くなりました。王位についたときには孝文王もすでに歳をとっていたので長くは生きられなかったのです。
しかし一部の陰謀論には呂不韋の暗殺説もあります。
まとめ
の第29代君主孝文王は父・昭襄王の死後わずか1年足らずの短い期間を王として過ごしました。趙に人質に出されていた異人を後継者にして、のちに始皇帝となる子楚を太子に立てました。
王位につくと前王時代の功労者を表彰、王家の一族を優遇するなど王族や臣下を掌握しようと努めました。しかし即位からわずか3日で急逝。その死因は謎に包まれています。
孝文王の短い治世は秦の統一という大きな歴史の流れの中で、始皇帝の登場を促す重要な役割を果たしたといえるかもしれません。
テレビドラマ
コウラン伝 2019、中国
役名:安国君 演:王茂蕾
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