孝敬憲皇后 烏喇那拉(ウラナラ)氏は清朝の第5皇帝・雍正帝の正室。
「如懿傳」では烏拉那拉·宜修の名前で登場します。
「花散る宮廷の女たち」では 烏拉那拉·凝秀
とくに「如懿傳」では印象深い役どころでした。
史実の 孝敬憲皇后 ウラナラ氏はどんな人物だったのか紹介します。
孝敬憲皇后 ウラナラ氏の史実
孝敬憲皇后の肖像画
どんな人?
名:不明
称号:孝敬憲皇后(こうけいけんこうごう)
地位: 皇后
没年月日:1731年10月29日
彼女が生きたのは清王朝の第5代皇帝・雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
家族
母:ドロイゲゲ(多羅格格)愛新覚羅氏
夫:雍正帝(ようせいてい)
子供:弘暉(端親王)
父親:フィヤング
満洲正黄旗人。フィヤング(費揚古)は領侍衛内大臣を務めました。ホンタイジのもとで手柄を立てた軍人でした。
母親:ドロイゲゲ
ドロイゲゲ(多羅格格)。覚羅氏の出身でヌルハチのひ孫になります。
おいたち
1681年6月28日(康熙20年)に生まれました。
1691年(康熙30年) 11歳のとき。康熙帝の4男・雍親王 胤禛と結婚。嫡福晋(正妻)になりました。
彼女がどういう経緯で胤禛と結婚することになったのかは不明です。満洲正黄旗人のウラナラ氏ですから家柄が良く。父・フィヤングも皇帝に尽くし功績のある重臣です。皇帝の息子の妻にふさわしいと判断されたのでしょう。
結婚生活
ウラナラ氏は雍親王 胤禛の嫡福晋となると、南薰殿で一緒に暮らしました。
1697年(康熙36年) 長男・弘暉が誕生。和碩端親王弘暉は胤禛の長男で、ウラナラ氏の唯一の子でした。
1703年(康熙42年)。雍親王夫妻は東城の四貝勒府(後の雍和宮)に移り住みましたが、弘暉は翌年に死亡してしまいます。8歳でした。
雍正帝が即位して皇后になる
1723年(雍正元年) 夫の胤禛が皇帝に即位しました。ウラナラは皇后になりました。でも康熙帝の喪の期間なので盛大な式典は行われませんでした。
既に故人になっている父フィヤング(費揚古)に「一等承恩公」の称号が与えられました。
同じように既に故人になっている母・愛新覚羅氏に多羅格格(ドロイゲゲ)の称号が与えられました。
1725年(雍正元年)。康煕帝の3年の喪があけたので皇后の任命式が行われ、皇子や大臣たちが皇后に祝辞を述べました。
ウラナラ氏の最後
問題のある医師
1727年(雍正5年)。吴謙は問題を起こしていた人物でしたが、役人の劉聲芳が「行いには問題はあるものの医術の腕は確かです」と進言したので雍正帝はその言葉を信じて恩赦を与え、宮廷の医師として働かせました。
それだけなら皇后と関係ないように思えるかもしれません。でもこの医師が後に皇后ウラナラ氏の命に関わってくるのです。
皇后ウラナラ氏が病気になる
1728年(雍正6年)。皇后 ウラナラ氏は風邪のような病になりました。医師の吴謙に治療させましたが良くなりません。
雍正帝が皇后の病気について吴謙に質問しても満足の行く答えが返ってきません。雍正帝は怒りました。
雍正帝は内務府に命じて吴謙をとらえさせ法務部で裁判にかけました。
その結果。一審では死刑になりましたが、二審で執行猶予がついて最終的には一生刑務所の受刑者の治療を行うことになりました。
その後、皇后 烏喇那拉氏の病気は一時良くなりましたが完治しませんでした。
1731年(雍正9年)。死去。享年51。
雍正帝は孝敬憲皇后をどう思っていた?
雍正帝が後に皇后を偲んで述べた言葉によると、
と語っています。既に皇后が亡くなって記憶が美化されているとはいえベタ褒めです。
孝敬憲皇后は嫡福晋や皇后としても、その役割を十分に果たしていたことがわかります。
テレビドラマの孝敬憲皇后
宮廷の諍い女
2012、中国
役名:烏拉那拉·宜修 演:蔡少芬、純元皇后
ウラナラ氏は二人いる設定。雍正帝の親王時代の正室が姉の純元皇后。皇帝になってからの正室は妹の宜修。
純元皇后は非常に雍正帝から愛されている一方で。宜修はあまり愛されていないけれども皇后としては尊重されているという微妙な立場。
ドラマ後半のボスキャラ。実は陰険で様々な策略をしかけ、側室たちに子供ができないようにしていたことが判明します。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~
2018、中国
役名:烏拉那拉·宜修 演:陳沖
「宮廷の諍い女」の続編。
物語序盤で登場。ヒロイン烏拉那拉・如懿の叔母 という設定。鈕祜祿氏の陰謀で死亡。死の前に姪の如懿に烏拉那拉一族の名誉回復と言い残しました。如懿が皇后を目指すきっかけを作ります。
花散る宮廷の女たち 〜愛と裏切りの生涯〜
2017、中国
役名:烏拉那拉·凝秀 演:覃煒
ウラナラ氏は第四皇子 胤禛と結婚。胤禛と親しそうにする年姝媛が気になりますが優しく接します。物語のラストでは寺参りを装って年姝媛を逃しました。
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